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一日目・アロ「睡眠」
昼寝を勧められ、一旦ベッドに寝転んでみたが、眠れるわけもなかった。
剣の稽古をし、疲れ果てた夜ですら、なかなか寝付けないのだから。
ただ、この客室は気に入った。
天井が高く、置かれている木製の家具には余分な装飾が一切ない。その分、カーテンやクッション、ソファカバーなどのファブリックが色とりどりで、目を楽しませてくれる。
ガラスの花瓶に飾られている名も知らぬ花も、素朴で仄かにいい匂いをさせていた。
俺は「何もせずにゆっくり過ごす」という休暇の取り方が、よく分からない。
十五歳で設立したばかりの軍の騎士となり十年間、休んだことなど無かったのだから。力の抜き方が分からなくても当たり前だろう。
そんな俺に「癒し処」に行くよう命令が出たのは、三日前だ。
もうすぐ旅立たなければならない俺は、二週間の休暇を与えられたのだが、どう過ごしていいのか分からず、結局毎日、剣の訓練に参加していた。
見兼ねた老いた世話役が、俺を強制的に休ませるため、癒し処送りにしたのだ。
「お願いでございます。たっぷりと睡眠をとって、英気を養い、旅立ちに備えてくださいませ」
この国に軍が運営する「癒し処」と呼ばれる場所は、いくつも存在する。空気が澄んだ小高い丘、水が湧き出る川の上流、山の麓の温泉地、滝の見える崖の下。
「ご希望の地はございますか?」
世話役にそう聞かれたとき、迷わずに「湖の畔」と答えた。
それは以前「湖の畔の癒し処にいるらしい」という、信憑性の薄いあの人の噂を耳にしたことがあったからだった。
結局、昼寝をすることを諦めバルコニーに出て、ずっと湖を見ていた。こんな何もしない時間を過ごすのは、いつ以来だろうと考えながら。
馬も剣もなく、今は靴すらも履いていない。何かしたくても、何もできない。
眼下の湖は、微かな風でほんの少し波立つ以外、鏡のように平らだ。広く透明な水面は、空や太陽を映し出している。
太陽が傾き、空の色が変われば湖の色も変わってゆく。見ていて意外と飽きなかった。
このバルコニーからは、さぞ見事な夕陽が見られるだろうと思っていると、この癒し処の主人ジクが、戸口から外へと出てきたのが目に入る。
彼は湖のほうを向き、オレンジ色の太陽を眺めていた。
その後ろ姿を見つめながら考える。果たしてジクは、私の探し求めている人物なのだろうか。
もう十年会っていないその姿かたちは、記憶の中で曖昧に滲んでいる。彼を描いた肖像画も存在せず、城では彼のことを話題のせる者はいない。まるで最初から居なかったかのように。
滲んだ記憶の中での彼は、黒い髪が短く、臙脂色のスカーフと臙脂色の軍服を隙なく身に着けていて、私より十歳年上だが若々しい。
それは湖の畔で佇む、長い髪を無造作に結い、ラフな上衣と下衣を纏う落ち着き払ったジクとは、かけ離れた像だった。それにもっと背が高かった気がする。ただ、あの頃の俺はチビだったから、今の自分から見た寸法は当てにならない。
とにかく、残念ながら別人だろうという気持ちのほうが強かった。
ジクから、一緒に夕陽を見ないかと誘われ、戸口から外へ出ようとする。
俺の革靴はどこかに仕舞われてしまったようで、三和土には草履しか置かれていない。
仕方なく簡素な草履を履き、彼の隣へと並んだ。
沈みゆく太陽、そして夕焼けは圧倒的に美しかった。この先に待ち受ける憂鬱な出来事も忘れてしまいそうなくらい。「ここに来てよかった」そう思うくらい見事だった。
「太陽が湖に沈むと、今度は森から満月が昇りますよ」
ジクがそう言った。
「満月……」
思い出というのは、どこに仕舞われているのだろう。十年間一度も思い出さなかった言葉が、頭の中に蘇る。
あの人も、同じようなことを満月の度に俺に言った。
幼い頃から城の見張り台に二人で登り、よく夕陽を眺めていた。城から見ると、太陽は街の向こうに沈む。そして満月は城の裏手にある森から登る。
「太陽が街に沈むと、今度は森から満月が昇るんだよ」
俺の顔は、知らぬ間に涙で濡れていた。
—
夕食はキノコのシチューで、一階のダイニングテーブルでジクと一緒に食べた。
城で食べるものよりずっと硬いパンだったが、シチューに浸して食べると、意外と美味かった。
「アロ、食事のリクエストも承りますからね。遠慮しないで言ってください。ただここに無い食材は、三日に一度の配達のときに注文し、さらに三日後に届きますから、首を長くして待ってもらうことになりますけれど」
基本的に癒し処というのは、期限を設けずに訪れるものだ。本人が充分に癒えたと感じるまで、過ごすことができる。皆、一か月程度は滞在すると聞く。
「俺は、五回だけ泊まって帰ることになっている」
「え?そうなのですか?それは短いですね。どうしてもなのですか?」
「あぁ、どうしても。六日後に、この国から旅立つんだ」
ジクはそんな短期間は前例がないと、驚いた顔をしている。
「では、たくさんたくさん我が儘を言ってください。短い時間で、癒してさしあげますから」
ニッコリと微笑み告げられたその言葉には、プロとしての誇りを感じた。
夕食後。
湖の水を昼のうちに運び、溜めておいてくれたという風呂を沸かしてもらった。
「一緒に入って、身体を洗ってさしあげましょうか?」
そんなことを真面目な顔して言われたが、もちろん即断った。冗談だったのか、本気だったのかも分からないが、「ではお願いしよう」と応える者がいるのだろうか?
けれど、ジクも仕事としてこの癒し処の主人をしているわけで、何でも断るのも良くないのかもしれない。次に何か言われたら、もう少し検討してから返事をしたほうが良いだろう。
湯に浸かるのは、とても気分がよかった。長く入れるようにと少しぬる湯にしてくれたらしい。浮かべてくれたハーブの香りも好ましかった。
窓からは夜空に浮かぶ、まんまるの満月が見える。だからまた、あの人のことを考えてしまう。
満月のとき、日没と同時に反対から月が出るというのは、皆が知っていることだろう。
そう思えば、ジクが言った言葉も事実を述べただけの、ありふれたものなのかもしれない。
ジクがあの人だったほうがいいのか、違ったほうがいいと思っているのか、自分でも分からなかった。
たぶん、一目会った瞬間にあの人だと分かり、あの人も全ての記憶を取り戻し俺だと分かって抱きしめてくれる、そんな再会を夢見すぎていたせいだろう……。
腹も満たされ、風呂にも入り、寝具の肌触りもいい。秋が深まる前の過ごしやすい季節で、暑くも寒くもない。
夜の湖からは、フクロウが鳴く声が微かに聞こえる程度で、安眠するには最適な環境が整っている。
それでも俺は、何度も何度も寝返りを繰り返し、寝付くことができない。
癒し処にまでやってきたけれど、結局これだ。でも、こんな状況には慣れていて、朝方には眠れるのだから、それで充分だと考えるようにしている。
ただ、随分と遠くにあるという国への旅道中、また気候も違う国で暮らすようになったとき、このままでは辛いだろう、という思いはあった。
遠い国に出されてしまったら、もう二度とあの人には会えないだろう。そんなことを考えていると、微睡はまた遠くへと逃げていってしまうのだった。
コンコン。
小さなノックの音がする。眠っていたら気づかなかっただろうが、目が冴えている俺の耳にはしっかり届く。
返事はしなかったが、ベッドの上で上半身を起こすとゆっくり扉が開いた。月明りで、それがジクであると分かる。
「眠れませんか?」
素直にコクリと頷く。
「ちょっと待っていてくださいね」
扉はゆっくりと閉められてしまう。何を待てばいいのだろう?分からなかったから、俺もベッドを降り、扉を開け暗い廊下へ出た。
階下に明かりがついているのが分かり、階段を降りていく。ジクはキッチンで鍋を火にかけていた。
「ホットミルク、お好きですか?」
あの人も、よく眠れない俺にホットミルクを作ってくれた。蜂蜜をたっぷり入れた甘いホットミルクを。
「甘くしてほしい」
「わかりました。座ってお待ちください」
ダイニングテーブルの席につき、キッチンで動くジクを眺める。
「昔、よく作ってもらって飲んだんだ、ホットミルク」
「そうですか。お好みの味になるといいのですが」
カップが二つ、コトリとテーブルに置かれる。それぞれ八分目までミルクが注がれ、白い湯気が立ち上った。ジクは、鍋をキッチンへ戻し、今度は蜂蜜が入った小瓶を持ってくる。
俺に近いほうに置かれたカップに、たっぷりと蜂蜜を垂らしてくれ、仕上げにシナモンパウダーを振る。自分のほうには蜂蜜を入れず、シナモンパウダーのみを振った。
同じだった。ホットミルクの作り方も。あの人と、同じ。
「召し上がれ」
口をつければ甘味が口の中に広がり、自然と肩の力が抜け、大きく息を吐く。
特に会話はなかったが、心地よい真夜中の時間が流れていった。
ふと、「我が儘」を言ってみようと思いつく。
たった五回しか泊まらないのだから、騎士としてのプライドなど捨て、今夜のうちに言ってみるべきだと。
ただ、とても恥ずかしく勇気がいることだった。十代前半までの俺は、あの人に恥ずかしげもなく毎日のようにお願いしていたのに。あの人が居なくなってしまってからは、誰にも頼んだことはない。
「ジク、あのさ……」
「我が儘を言ってくれる気になりましたか?アロ」
「あの、その、えーと。もし、可能ならば。いや、無理ならいいんだが、よかったら、一緒に寝てくれないか」
「えぇ。お安い御用ですよ」
少しも躊躇うことなく、了承してもらえ、言い出したこちらが戸惑ってしまう。
さっと立ち上がったジクはカップをキッチンへ下げ、水につける。
「行きましょうか」
俺はジクの後ろにくっついて、階段を上がった。
二人並んでベッドに入れば、当たり前に少し狭い。それでも誰かの居るベッドは温かく、照れくささよりも、心地良さが勝った。
「おやすみなさい」「おやすみ」
二人して天井を見ながら就寝の挨拶をする。
すぐにクークーと、規則正しい寝息がジクから聞こえた。こんな夜中、いつもなら眠っている時間だろうに、俺につき合ってホットミルクを作ってくれたのだ
しばらくするとジクが寝返りをうって、湖が見える窓のほうに身体を傾けた。横を向けば、ジクの大きな背中が見える。
俺は躊躇いながらも、その背中に頭をくっつける。クークーという彼の寝息と、トクトクという心臓の音がリズムよく聞こえてきた。
身体の力がスーッと抜けてゆき、俺は深い深い眠りへと入っていった。
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