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二日目・ジク「葡萄」
まだ部屋の中は薄暗いが、湖畔では鳥たちが鳴き始め、私を夢の中から引き戻してくれる。
目が覚めたとき、腕の中にすっぽりとアロを抱きしめていた。アロは熟睡していて、子どものような寝顔を見せている。
今朝も、庭に一角獣のリムが姿を現すかもしれない。だから階下へ行き、朝の支度を始めなければ。
そっと腕をほどき体勢を変えようと試みるが、眠っている彼は私のことを離すまいとギュッとしがみついてきた。その姿の可愛らしさは、思わず「フフ」っと小さな声をもらしてしまう程だ。
昨日、胸を張って軍服で森を歩いてきた姿とはあまりに違う、その甘えた仕草を愛おしく感じる。
自由になった片手で、彼のオデコにかかったオレンジ色の髪をそっと横にすいてやった。すると嬉しそうに口角が上がる。きっと、いい夢を見ているのだろう。
だとしたら、このまま眠らせてやりたくて、私ももう一度目を閉じた。
「リム、ブラッシングしてやれなくてごめんね」
心の中でそう謝りながら。
次に目を覚ましたときには、部屋は明るく、太陽が随分と高くに昇っていることが分かった。彼はまだ私の腕の中にいたが、流石に食事の支度をしなくてはならない。
私に抱き着いている手をそっと引き剥がし、起こさないように細心の注意を払い、ベッドから降りる。
「ん?」
「あぁ、ごめんなさい。起こしてしまいましたか。アロはまだ、眠っていてください。食事の支度が出来たら声を掛けますから」
「ん」
ムニャムニャと何か返事をしながら、彼は再び夢の世界へと戻っていった。
客室の扉を開け廊下に出る。扉を閉める前、振り返って眠っているアロを眺めた。
「添い寝をしてくれ」という注文は、とてもオーソドックスなもので、私にとっては慣れた行為だった。けれど、そんな相手の寝顔を愛おしく感じることなど、今までは無かった。
アロの何が特別なのか分からなかったが、彼が泊まっていくのはあと四回。存分に甘やかし、たっぷりと眠らせてやりたいと思った。
しばらくして階段を降りてきたアロは、しかめっ面をしていた。
「おはようございます」
「……おはよう」
もう甘えた雰囲気は微塵も残っておらず、昨晩一緒に寝てほしいと言い出したことすら、無かったことにしたいと思っていそうだ。
「よく眠れましたか?」
「あぁ、眠れた」
昨日より顔色がいい。
「それはよかったです。玉子は目玉焼き、スクランブルエッグ、ゆで卵、何にしましょうか?」
「スクランブルエッグにトマトソースで」
「パンにはジャム?バター?」
「ブルーベリージャム」
段々と眉間のシワが取れてきた。添い寝のことを私に揶揄われるとでも思って、警戒していたのだろうか?
ダイニングテーブルの上にスープ、サラダ、パン、玉子を並べていくと「昨日のお茶が飲みたい」と、わざわざキッチンまで言いにきた。
「カモミールティーですね」
コクリと頷くから薬缶を火にかけ、勝手口から庭に出て花を摘む。
アロは開けっぱなしの勝手口から顔を出し、私のする作業を眺めていた。
「その花がお茶になるのか?」
「えぇ」
「ふーん」と言いながら、キッチンへ戻った私のあとをついて回り、ポットを扱う手元を覗き込んでくる。
「棚からカップを二つ出してくれますか?」
頼み事をすれば、嫌がる素振りもなく、手伝ってくれた。
彼はこうして、常に傍に居てくれる人を求めているのかもしれない。だとしたら、残り少ない日数、癒し処の主人としてずっと傍に居てやりたい。
昨日みたいに、一人で昼寝をさせたりしないで、二人で色々なことをしようと頭の中で、プランを練った。
—
「今日は、何かやりたいことがありますか?」
カモミールティーのおかわりを注ぎながら、アロに尋ねる。
「剣の稽古がしたい」
「剣はここにはありませんので、無理ですね」
「じゃあ、身体が鈍らないように森を走ってくる」
「それも、あまり感心しません。休養に来ているのですから」
「じゃ、別に何もない……」
不貞腐れたように答えるその返事は、想定済みだった。
「では、ボートに乗りませんか?湖の真ん中にある小さな島にいるヒクイドリに、果物のお裾分けにいきたいのです」
「ヒクイドリ?」
「ご存知ありませんか?ダチョウみたいな飛べない鳥で、頭が青くトサカがあります。鋭い爪を持っていて、蹴る力がすごく強いんですよ。でも強すぎて危険視され、今は湖の小島に閉じ込められいるのです」
「危険視……」
「ボートはアロが漕いでくださいね。そしたら身体は鈍りませんから」
私がそう言えば、任せておけという意味なのか、腕を曲げて逞しい力こぶを作って見せてくれた。
勝手口から庭に出て、建物の裏手にアロを連れていく。
そこには私が丹精込めて世話している葡萄棚があり、紫色の大粒の実が何房もたわわに生っている。
「ちょうど収穫時です。このタイミングでここにきたアロはラッキーですよ」
手を伸ばし一粒捥いで、すぐ傍にいたアロの口にポコっと入れてやる。
もう一粒捥いで自分の口にも放り込み、瑞々しい果実を舌で転がした。その実に歯を立てれば、つぶれた実から果汁が口内いっぱいに弾け飛ぶ。香りも甘みも強く、今年の葡萄は上出来だ。
「うまーい!」
皮と種をペッと吐き出しながら、アロは満面の笑みを見せてくれた。
「採れたてですから」
こんな笑顔で食べてもらえて、今年の葡萄は幸せだ。
ハサミで一房収穫し、アロに「どうぞ」と手渡す。それとは別にヒクイドリにプレゼントするための二房収穫し、大事に籠へ仕舞った。
私は湖の畔の納屋からボートを引っ張り出していた。
「ジク、手伝うことある?」
そう言って寄ってきてくれたとき、アロの口の周りが葡萄色に染まっていた。思わず吹き出してしまった私に「なんだよ」と怒るアロ。
「いえ、なんでもありません」
取り繕って首を横に振る。
けれど、ボートが水の上を滑り出し、透き通った水の美しさに魅かれアロが鏡の様な湖面を覗き込めば、その原因に気がづいてしまう。
慌てて口の周りを、手の甲でゴシゴシとこするから、今度は赤くなってゆく。
あぁ、どうしてこの青年のことを、こんなに可愛らしく感じるのだろう。
もしかしたら、もうどこにも残っていない十年以上前の記憶の中に、アロのような子と親しくしていた思い出があるのかもしれない。
自分がそれを懐かしく思うはずも、思い出せるはずもないのに、その発想はしっくりとくる。
ただ、そういう個人的な感情を持つべきでないことだけは確かで、頭を振って自分を律し、ボートの上で背筋を正した。
ヒクイドリがいる小さな島には、ボートを漕いで腕に疲れを感じるだろう頃に到着する。
私たちの気配を感じたツガイのヒクイドリが、船着き場に顔を見せてくれた。
「やぁ、葡萄を持ってきたよ。ちゃんと二房あるから、ほら、そんなに慌てないで」
ボートを船着き場の柱に係留し、島へと上陸する。
「この鳥、危険なんじゃないのか?」
アロは心配そうな声を出した。
「私には懐いてくれているのです。島の様子をぐるっと一周見てきますけれど、アロはボートで待っていますか?」
「行く。俺も行くってば、ジク」
置いていかれまいと、慌ててボートから降りたアロの足元に、ヒクイドリの雛が三羽が纏わりつく。
「アロから葡萄の匂いがするんじゃないですか?」
そう揶揄えば、彼は手を広げて見せ「何ももってないぞ」と雛にアピールする。
葡萄に群がる鳥たちを置いて、私とアロは小さな島を歩いて一周した。
エサになりそうな実が、ちゃんと生っているか。植生に大きな異変はないか。岩が崩れてはいないか。見て回るついでに美味しそうなキノコを見つければ、アロに声をかけ収穫もした。
帰りのボートで、アロが私に問うてくる。
「ヒクイドリたちは、あの島に閉じ込められて窮屈じゃないのか?」
「どうでしょう。でも島には天敵となるオオトカゲもいないですし、それなりに快適だと思いたいですね」
「そっか」
「でも、いざというときには、私がこのボートに乗せて連れ出します」
「いざって例えば?」
「うーん。想定している出来事は特にないんですけどね……。この国は平和になったと聞いていますから」
アロはボートを漕ぐのが上手く、岸に向かって真っすぐに進んでいく。
まもなく岸に到着するだろうタイミングで、私は彼に手を止めるよう指示を出す。
「この湖上から見る景色が最も美しいと思っているんです。ですから、ここでお昼にしましょう」
「ボートの上で?」
「ええ」
籠からベーコンを挟んだサンドイッチを取り出せば、アロは美味しそうに頬張ってくれた。
水鳥がボート脇でグワッグワッと鳴き、パンのお裾分けをねだる。
今現在、この湖の周りが穏やかで平和であることは間違いないなかった。
食後はボートの上にブランケットを敷いて、二人並んで寝転び、高い空を見上げた。風もなく、湿度も低く、心地いい。
「あのさ」
アロが訥々と話し始める。
「ヒクイドリは強すぎて、他の者に害をなさないよう、あの島に閉じ込められたんだろ?」
「そう聞いています」
「俺の、俺の大切だった人も、同じでさ。腕も剣も強すぎたんだ、凄く。頭も良くって戦略を立てるのも上手だった。だから、この国が平和になったとき、その人の強さが再び諍いの元にならないように、自ら城を去ってしまった」
「賢い方だったのですね」
「そうかな。だって俺を置いていったんだぜ。しかも記憶を全部消してしまったらしい。もし再会できたとしても、あの人は俺のことを思い出さない。酷いと思わないか」
ピチョンと魚がはねた。
「どうでしょう。アロがその人のことを本当に酷い人だと思っているなら、声にもっと憎しみが籠ったでしょう。今のアロの声は、その人を責めていませんでしたよ」
アロは大きく息を吸う。
「俺、あの人みたいに強くなりたくて、設立されたばかりの軍に入って騎士になった。人より熱心に剣の稽古をして、身体を鍛えて。でも全然、あの人みたいにはなれなかった」
「そう」
「それで気がづいたんだ。あの人は本当に規格外に強かった。だからあの人が選択したことは、間違いじゃなかったって」
きっとその結論に至るまで、たくさんの時間を要したのだろう。
私はアロへと手を伸ばし、朝方のように抱きしめた。
「少し、昼寝をしたくなりました。少しの間、傍にいてください」
そうアロに伝えると、彼は私の胸に顔を埋め、コクリと頷いて目を閉じる。
しばらくするとスースーと穏やかな寝息が聞こえたから、私も安心して眠りについた。
「おーい、ジク!おーい」
名前を呼ぶ声で目が覚める。私が上半身を起こせば、アロも目をこすりながら起き上がる。
岸のほうを見れば、いつも配達を頼んでいる少年ダリが、手を振っていた。
「ジク!乾燥キノコのお礼に、母さんのプティングを持ってきたよー!」
「プディング!」
その言葉に目が冴えたアロは、かなりの速さでボートを漕いで、岸へと向かってくれた。
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