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二日目・アロ「絵本」
まだ幼い少年ダリの持ってきたプティングを、ダイニングテーブルで三人で食べた。
甘さとカラメルのほろ苦さが絶妙で、城で食べるものよりも美味く感じる。ジクはダリを可愛がっている様子で、なにかと世話を焼いていた。
その姿は、俺が幼い頃、あの人にしてもらったあれこれを、思い出させる。
「ダリ、ほっぺにカラメルがついていますよ」
ジクはそう言って、手を伸ばし少年の頬を拭った。
俺の口の周りが葡萄の紫色に染まっても、何も言ってくれなかったくせに。そんなことを一瞬思ってしまい、恥ずかしくなって苦笑する。
「どうしました、アロ?」
「いや、なんでもない」
話を反らすため、少年が大事に小脇に抱えている本について、話題をふった。
「ダリ、その本は君の?」
「ううん。図書館で借りたんだ。僕、字が読めるようになりたいから、頑張って読んでるんだよ」
この国の識字率は高くない。
「俺が一度、声に出して読んでやろうか?ダリはその間、文字を目で追ってみるといい」
「それはいい。ぜひ読んでもらいなさい」
ジクも賛成してくれた。
「うん!ありがとう」
リビングの隅に置かれた布張りのソファへと場所を移動し、ダリと並んで座る。ジクはダイニングテーブルの椅子に座ったまま、頬杖をついてこちらを眺めていた。
本を受け取り、まずパラパラと捲ってみる。ごく最近書かれた書籍で、この国の歴史を絵本にしたもののようだ。
表紙にはニコニコ笑った太陽の絵が描かれている。そして裏表紙は暗闇に浮かぶ満月だ。
十年前という、つい最近の出来事なのに、こんな絵本になっているとは驚いた。
この本を、俺が読むとは、なかなかの皮肉が効いている。
ただ、この場でその皮肉を指摘する者は、いないだろう……。
「んん」と咳払いし、俺はダリが目で文字を追えるよう、ゆっくりとしたスピードで読み始めた。
—
この国には元々、二つの王族がいました。
一つは、太陽の王族、もう一つは、月の王族です。
二つの王族は仲良しで、一つのお城でいっしょに暮らしていました。
太陽の王族はまつりごとをおこない、月の王族は太陽の王族を守る役割を担っていました。
世界は均衡が保たれていましたが、力自慢をしたい悪い人はたくさんいます。
月の王族は、世界最強だと有名だったのです。
だからこそ、彼らを倒し一旗揚げようという悪党に、城が襲われることが度々ありました。
それでも、月の王族は、あっという間に悪い人を退治してしまう、頼もしい存在でした。
ある秋の満月の夜。
夕陽が沈むと同時に、城の中にたくさんの悪党が入り込みました。
悪い誰かが手引きをし、裏門から悪党の侵入を許したのです。
襲ってきた悪党は、一つのグループだけではありませんでした。
世界中の悪党が、力を合わせ、いっぺんに襲ってきたのです。
月の王族は、太陽の王族を守るために、必死に戦いました。
けれど、敵は数も多く、武器もたくさん持っていました。
月の王族は、血を流し、次々と殺されてしまったのです。
そんな中、月の王子だけは、やられませんでした。
王子は、たった一人ですべての敵をなぎ倒し、太陽の王族を守り抜きました。
世界中の悪党を、一晩で全て倒してくれたおかげで、世の中はもっと平和になりました。
月の王子は、死んでしまった月の王族のお墓をたくさん作ったあと、そっと姿を消しました。
きっと月へ帰ったのだと、太陽の王族は夜空を見上げて涙しました。
今、お城には、太陽の王族だけが暮らしています。
太陽の王族を守る役割は、新たに結成された軍隊の騎士団が引き継いでいるのです。
—
途中、声が震えてしまいそうになったが、しっかりと読み終えることができた。
絵本から顔を上げると、ダリは大粒の涙を流している。
「月の王子様、かわいそうだね。家族もみんな死んじゃって、一人ぼっちでどこに行っちゃったんだろう」
「そうだな。残された太陽の王族もかわいそうだ」
ダリがコクリと頷き、涙の雫が本の上にポトリと落ちた。
ダイニングテーブルに目線を向けると、ジクはこちらに背を向けて立ち上がったところだった。彼はどう思ったのだろう、この話を聞いて。
その顔を見たかったけれど、長い黒髪を無造作に結った後ろ姿しか、見ることができなかった。
「頑張って、スラスラ文字を読めるようになるんだぞ」
戸口へと見送りながら、幼い頃、月の王子にしてもらったように、ダリの頭を撫でてやる。
「うん。僕、そしたら騎士団に入るんだ。それでね、もし疲れちゃうことがあったら、ジクのところに泊まって癒してもらうの」
「いいな、それ」
ジクが、葡萄を一房持って戻ってきた。
「これ、プディングのお礼ですよ」
「うわぁー、立派な葡萄、ありがとう。母さんも喜ぶよ」
そもそもプディングは乾燥キノコのお礼だと言っていたはずだ。これではお礼のお礼と、切りがないと思うが、それが彼らの日常なのだろう。
「じゃあね。次は明後日の配達のときに」
「気つけて帰りなさい」
ジクもダリの頭を撫でてやっていた。
それからしばらく、ジクは忙しそうに動き回っていた。風呂の水を入れ替えたり、洗濯物を取り込んだり、拭き掃除をしたり、夕食の下ごしらえをしたり。
俺はずっと彼の後ろをついてまわり、「あれを取ってください」「これを運んでください」と言われるままに手伝いをする。
ジクは手際よく、動きに無駄がない。本来なら俺の手伝いなど必要としていないだろう。それでも俺が傍にいられるよう、小さな仕事をほどよく与えてくれた。
「アロ、ありがとう。お陰で早くに仕事が終わりました。夕陽を見に外へ出ましょうか」
ボートが仕舞われていた納屋から、簡素なベンチを出してきてくれたので、湖が見えるように並んで座った。
「特等席だな」
「気に入りましたか?ではアロが滞在している間は、この場所にベンチを出しておきましょう」
俺がここに泊まれるのは、あと四回きりだ。
太陽が湖の向こうに沈み始める。
「アロ」
そう呼びかけられ、ジクの顔を見つめる。絵本を読んだ後から、何か俺に言いたいことがあるのだろうという気配は、感じていた。
「この癒し処では、軍で起きたこと、街で起きたこと、隣国との関係は話題にしないと、決められているんです。俗世間と切り離すためでしょう」
「あぁ。そうだろうな」
「実は私、十年以上前の記憶が無いんです。だからこの国のことも何も知りません。でも、ここに辿り着いたばかりの頃、私もダリのように図書館へ行き、この国のことが書かれた本を一冊だけ借りました。その本に「この国には太陽の王族と月の王族がいて、彼らは幸せの象徴です」と書かれていました。そしてその状態が今も尚続いていると、ついさっきまで思っていました」
「記憶が……無いんだ?」
「えぇ」
「……そっか」
太陽は半分以上が湖に沈んだ。まるでオレンジ色が水面に溶けていくように見える。
「私の思い違いかもしれませんが……。ヒクイドリを見に行ったときに話してくれた、アロを置いて去った大切な人というのは、月の王子のことなのですか?」
何の返事もできなかった。ただただ湖を見つめるだけ。
すると、それを「はい」だと受け取ったのだろう。
「辛かったでしょう」
そう言って慰めるように、やさしく温かく抱きしめてくれた。大きな手のひらが、俺の背中を何往復もさすってくれる。
ジクは何にも分かっていない。ジクが、ジクこそがその居なくなった月の王子ではないかと、疑っている俺に「辛かったでしょう」はあんまりだ。それでも抱きしめてくれる腕を、突き放したりはできなかった。
ジクがもし本当に月の王子だったとしても、彼は全ての記憶を消してしまって、俺を思い出すことはできないのだから。
—
臙脂色の軍服を身に着けた月の王子が、城から姿を消す日の朝。彼は俺を、月の王族たちが眠る墓地へと呼び出した。
俺が十五歳で、月の王子が二十五歳のときのことだ。
月の王子は、家族や仲間を失った夜から、一度も涙を見せていなかった。けれどあのとき、俺が声をかけると、振り向いた顔が涙で酷く濡れていた。
「泣いているのか?」
「お別れだからね」
「誰と?」
「君と」
言われたことが良く分からない。
「また会えるよね?」
「会えたとしても、もう君だと分からないと思う」
「どうして?」
「記憶を消すつもりだから」
全く事態が飲み込めない。
「どこかに行っちゃうつもりかよ。十八歳になったら抱いてくれるって約束しただろ!」
「ごめんね」
彼はたくさんの花が入った桶を持参していて、一輪一輪を墓に手向けていった。俺もその後ろをついてまわり、桶から花を取り出しては彼に渡す手伝いをする。
今思えば、このタイミングで引き止めればよかったのだ。
でも俺は、自分のことばかりを考えていた。
「記憶を消しても、俺のことを好きでいてくれる?」
「もちろん」
月の王子は、そう言って涙を流しながら笑ってくれたが、それが嘘だということは充分に伝わってきた。
花を手向け終わると、俺を抱き寄せ「ちゅっ」っと唇を合わせてくれた。一瞬で終わってしまった口付けでは納得がいかず「もっと」と伝える。
もう一度、唇が触れ合い、離れてゆく。
「ダメ。もっと」
月の王子は「がまんしてたのに」と小さく呟き、今度は俺の後頭部を右手で押さえ、深いキスをしてくれた。温かい舌が俺の口の中を舐めてくれれば、蕩けたような気分になって、彼の腕にギュッと縋りつく。
舌が絡み合って「んっ」と甘い息が零れて、角度を変えては再び重なる唇をひたすらに求め続けた。
—
「アロ?」
気がつけば辺りは暗くなっていて、夕陽は沈み終わっていた。
「ジク。あのさ、……俺にキスしてくれない?」
暗闇に紛れ、そう伝える。
もしこのキスで、ジクが俺を思い出したら、彼の正体は月の王子ということだ。もし思い出さなかったら、やっぱり別人だったのだろう。
そう思うことに決めた。
月の王子の記憶は、魔術師によって綺麗さっぱり消されてしまったと知っている。御伽噺のようにキスで記憶を取り戻すなんて、ありえないことだと分かっている。
それでも、もしかして、と願わずにはいられない……。
「いいですよ」
森の奥から登り始めただろう月は、まだ低い位置にあり、樹々が邪魔して俺たちを照らしてはくれない。
ジクは手探りで俺を捕まえるかのように、大きな手のひらで後頭部を押さえつけてきた。
顔が徐々に近づいてくるから、そっと目を閉じる。ドクドク、ドクドクと鼓動が早くなった。
彼の唇は、俺の下唇を軽くはんだあと、しっかりと密着してきた。温かい舌が唇を割って、口内に潜り込めば、俺の舌と絡み合う。震えるほどの気持ち良さが全身を巡り、身体の力が抜けてしまった。
ジクは唇を離し、俺の頭を抱き込むように包んでくれる。
「アロ」
愛おしそうにそう呼んでくれた彼の、次の言葉を待つ。
「そろそろ夕食にしましょうか」
ハハハ。拍子抜けして思わず笑ってしまう。
「どうしました?今夜は島で取ったキノコソテーですよ」
俺はコクリと頷くのが精一杯だった。
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