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【4月】風呂場で。
「郁三(いくみ)さま。本日より、執事として生活を共にさせていただく吉野でございます」
親に用意してもらったマンションのドアを開けた時、そこには見知らぬ男がいた。
僕よりずっと長身で、真っ黒な髪をオールバックにし、時代錯誤のタキシード姿の男が。
「え?あっ、すいません。間違えました」
慌ててバタンと玄関の重たいドアを、閉めた。
混乱する頭で表札を確認するが、そこには確かに807号室の部屋番号がある。
「八木」と僕の苗字だって書かれている。
呆然と立ち尽くしていると、再びドアが開く。
「何をしているのです?早くお入りください」
さっき吉野と名乗った十歳程年上の男が、冷たい声で僕を急かす。
やはり僕は、何も間違えてはいないようだ。
「し、失礼します」
自分の家のはずなのに、ひどく緊張して玄関で靴を脱ぐ。
そして、用意されたスリッパを履いてリビングへと進んだ。
父と内覧で見た時には、空っぽだった部屋には、成金趣味の実家とは違う、センスのいい家具が既に並んでいる。
「あ、あの。状況がよく分からないのですが、貴方はいったい誰ですか?」
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高校生活を終え、初めての一人暮らしに胸を膨らませながら新幹線に乗り、東京へと向かった。
ここ数日、家族以外の誰とも会わず、家に引きこもって引っ越しの準備のみをしていた為、体調は安定していた。
東京へ移り住んだら、原因不明の体調不良に悩まされることも減るのではないかと、漠然と思っている。
この調子でいけば、それも叶うんじゃないだろうか。
気分良く、新幹線の窓から流れるように見える、桜のピンクを眺めていた。
「お隣よろしいですか?」
暗い顔をした中年女性が声を掛けてきた。
ぺこりと会釈をし、OKである意思を示して、また流れる車窓を眺める。
そのまま女性のことは気にも留めずにいたが、いくつかトンネルを抜けた頃、再び話しかけられた。
「あの。話を聞いていただけませんか?」
知人友人、加えて見ず知らずの人に声をかけられ、失恋などの悲恋の話を聞かされる。
これが僕の体調不良の原因ということに、実は薄々気がついている……。
東京駅で新幹線を降りる頃には、女性は笑顔になっていた。
「貴方にお話できてよかった!」
僕はただ「うんうん、そうなんですか」とうなずいていただけなのに。
「お元気になられて、よかったです……」
そう伝えたが、代わりに僕の体調は急降下。
どんより憂々とした気分になり、身体が怠く重かった。
溜め息ばかりをつきながら、マンションのある駅へ向かうオレンジ色の電車に、乗り換える。
やはりこの事象は、生まれ故郷の街を出ても、僕について回るのだ。
早くも認めざるを得ない敗北感に、潰れてしまいそうだった。
「大学は東京で一人暮らしをしたい」
高三の進路を決める頃、恐る恐る父に申し出た。
すると予想に反し、あっさりと許可が下りた。
実家は無駄に金持ちの成金で、小さな街では有名な家。
家族も親戚も皆、地元の学校へ行き、同族経営の会社に就職をしている。
僕は男ばかりの四人兄弟の三番目で、上の兄二人は勉強ができ、下の弟はスポーツに秀でていた。
残念なことに、僕だけは得意なことは何もなく、平凡。
その上よく体調を崩し、皆に迷惑を掛けている。
父は心配し、頻繁に色々な医者へ連れて行ってくれたが、検査をしても悪いところはなかった。
そんな僕は幼い頃から「ねぇ、話を聞いて」と、いろんな人の話し相手に選ばれることが多かった。
聞かされる話は老若男女、恋だ愛だの悲しい話ばかり。
恋人どころか好きな人もいない僕が、人の恋話を聞いても「うんうん、そうなんだ」と相づちしか打てない。
話の内容だって、さっぱり理解できない。
それでも思う存分話し終わった相手は、心がスッとするのだろう。
「話せてよかった」
皆、笑って帰っていく。
僕は何もしていないのだが、役に立てたならばと嬉しくなる。
けれど、人の話をうなずきながら聞くだけで、僕の体力は消耗し、食欲もなくなる。
その不調は、ぐっすり眠ればだいぶ回復するのだが、聞いた話の内容がヘビーだと、翌日も翌々日も体力の回復に時間を要してしまう。
この体調の優れなさい様を、僕は上手く言語化できず、他人に的確に説明できたことはない。
僕が高校三年になったばかりの頃。
父が、仕事で知り合った「気が見える」という人を家に呼んだ。
その人が、本物かペテン師かは知らないが、僕の部屋の前で立ち止まり、言い放ったらしい。
「この部屋だけ気が滞り、悲しみに覆われている」
おそらくその人の発言のおかげで、僕は都心で一人暮らしをすることが、許された。
父は「商売の要は日々を暮らす家だ」と常々言っていたから。
大事な家に悪い気を滞らせない為、僕を外へ出したのだろう。
その負い目で、いいマンションを借りてくれたのだから、僕は充分に恵まれている。
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「あぁ郁三さま。貴方という人は、引っ越し早々、どなたかの悲しい気を、持ち帰られたのですね」
「悲しい気持ち?」
「自覚がないのですか?まあいいでしょう」
「あの、貴方はいったい誰?」
彼は僕の質問には答えず、自分のペースで物事を進めていく。
「さぁ、まずはシャワーを浴びてください」
吉野さんが何者で、誰に許可を得てこの部屋にいるのかは不明のままだ。
でも、その超然とした物言いに、抵抗する体力も気力もない。
僕は重い身体を引きずって、言われるままにシャワーを浴びるしかなかった。
初めて入ったバスルームには湯が張られ、いい香りのシャンプー、トリートメント、ボディソープが並んでいる。
これも吉野さんが、揃えてくれたのだろうか?
湯船に漬かりながら、目を閉じてため息をつく。
頭を洗い、身体を洗うことすら億劫だ。
こんなことで、僕の新生活は大丈夫なのだろうか。
「郁三さま、まだグズグスと湯船に入っていらっしゃるのですか?」
突然風呂のドアが開かれた。
「え?し、閉めてください」
「やれやれ」
タキシードのジャケットを脱ぎ、ベスト姿で腕まくりをし、靴下を脱いで、裾をまくった吉野さんが風呂場に入ってくる。
「ちょっと。何なのです?やめてください」
「どうもこうも、いつまでもその状態にいられるのは迷惑です。とっとと排出してしまいましょう」
湯船から引っ張りだされ、シャワーの前に座らされた。
吉野さんは僕の背後に膝をつき、しゃがんだ。
そして自分が濡れるのも気にせず、僕に湯をかけ、シャンプーで頭を洗ってくれる。
洗いながら、僕に告げた。
「どうか、私のことは吉野とお呼びください」
戸惑っているうちに、泡はシャワーで洗い流され、今度は丁寧にトリートメントを付けてくれる。
「いいですか?幸せという気持ちも、悲しいという気持ちも、人から人へ流れていくのです」
唐突に何の話だろう?
「何もないところから湧き出るものではないのです。分け与えられるもの、移動してくるものなのです」
トリートメントが流され、今度はボディソープを手で泡立てている。
泡立った手は、するすると僕の上半身を撫で始めた。
「え?身体は自分で洗えます、吉野さん!」
背後に向かって、懇願するように話しかける。
「吉野と敬称なしでお呼びください。執事ですので」
「いや、あっ、だから身体は恥ずかしいので自分で……」
「ご命令される時は、吉野と」
吉野さんの手が、妙に艶かしく僕の太ももを這う。
「自分で洗いますからやめてください、吉野!」
吉野は鏡越しに、フフフと美しく笑う。
「ダメですよ、郁三さま。しっかりと出さなければ」
「出す?何を?」
「このマンションへ来るまでの間に、誰かの悲しい気を、引き取って連れ帰ってしまったでしょう?」
「悲しい気持ち?」
「ええ。だからそれを、排出するのです」
泡だらけの手が、背後から僕の股間へと、伸びてくる。
吉野の腕まくりしたシャツには、シャワーのお湯が掛かり、既にびしょ濡れだった。
突然、包み込むように僕の敏感な中心を握られたから「んぁっ」と変な声が出てしまう。
「普段、ご自分で出すことを、積極的にされないのでしょ?それではダメなのですよ」
ヌルヌルと泡だらけの手で擦られれば、そこは僕の意志とは関係なく、反応を示してしまう。
「や、やだ」
吉野の指が緩急をつけ、上下に動き出した。
こんなこと、自分でだってほとんどしたことがないのに……。
性欲はなく、性的なことに疎い僕の中心が、硬く上を向いている。
「郁三さま、立ち上がってこちらを向いてください」
「で、でも」
「早く!」
僕は操り人形のように、言われるまま椅子から立ち上がった。
しゃがんだ吉野の方へ身体を向けるが、勃ち上がった股間が恥ずかしく両手で覆い隠す。
「手を退けないとできませんよ?」
「な、なにを?」
「大丈夫ですから。私に身を委ねて。その手をどうか私の肩へ」
吉野のシャツは肩口までもびしょ濡れで、肌が透けて見えていた。
躊躇いながらも有無を言わさぬ雰囲気に負け、肩に手を乗せれば、吉野の体温を感じる。
シャワーで股間の泡が洗い流され、勃起した僕自身がより露わになった。
吉野が長い指で、それをツーと撫でる。
他人に触られるのは初めてで、彼が男だとはいえ、どんどんと変な気分になってゆく。
「んっ」
あろうことか、吉野は僕の硬く大きくなったモノを、パクリと口に咥えた。
突然の行為に、自分が何をされたのか分からず、パニックに陥ったが、未体験の気持ち良さが身体を駆け巡る。
熱い膜に包まれるような、ねっとりとした甘く腰にくる快楽だ。
「あっ、あっ、やめて、あっ、そんな」
吉野が、上目遣いで僕を見た。
オールバックにしている髪が乱れ、ハラリと美しい顔にかかり、ひどく色っぽい。
何者なのか分からないこの綺麗な人が、全裸の僕の昂りを、口に咥えているのだ。
あぁ、どうしよう……。
すぐにでも、達してしまいそうだ……。
「はっ、離して、出ちゃうから、よしの、あっ、離して……んっ」
吉野はより奥まで咥え込んで、吸い上げてきた。
僕は彼の肩に、しがみつく。
「あっ、んぁ」
更に根元を指で擦られれば、堪えきれない。
快楽に震えながら、彼の口の中に勢いよく白濁を放ってしまった。
その気持ち良さに全身の力が抜け、吉野に寄りかかってしまう。
……それでも僕は、乱れた息を必死に立て直す努力をした。
驚いたことに、吐精した後の僕からは、鬱々とした気持ちが消え去り、身体も軽くなっていた。
だからと言って、吉野に礼を言う気にもなれず、ただ心の底から「恥ずかしい」という感情だけが、押し寄せる。
彼から逃げるように湯船に戻り、鼻の下までブクブクと湯に浸かった。
吉野は僕が口内に出した白濁を「ペッ」と床のタイルに吐き出し、シャワーの湯でうがいをする。
そして、びしょ濡れになったズボンとベストとシャツを脱ぎ始めた。
濡れた服は肌に張り付き、ひどく脱ぎづらそうだ。
手を貸すでもなくそれを眺めてしまえば、吉野が言う。
「郁三さま、もうスッキリされたのでしょう?出ていっていただけますか?」
僕は我に返り、慌てて風呂場から出た。
脱衣所には、バスタオルと着替えが畳んで置かれている。
そこには、見慣れた下着があった。
ということは、僕が実家から送った段ボールを、既に吉野が受け取り、荷解きしてくれたのだろう。
十歳は年上に見える吉野は、本当に僕の執事になったのだろうか?
リビングのソファで、猫っ毛の髪をバスタオルで拭いていると、スマホが鳴った。
父からだ。
「もしもし郁三。無事に着いたか?」
「あっ、はい。先程着きました。それでお父さん、ここに吉野という......」
父に吉野のことを聞こうとしたところで、風呂上がりの執事が目の前に姿を現す。
彼は僕の顔を至近距離で覗き込んで「シー」と人差し指を、唇に当てている。
どういう意味だろう?
「あぁ、吉野くんか。もう会ったのか?」
「はい」
「東京に知り合いが居ないと心細いだろうから、彼に時々、郁三の相手をしてやってくれと頼んである」
「僕の相手?」
「そうだ。郁三が体調不良になった時にみてもらえるよう、合鍵も渡してあるから、よくしてもらいなさい」
顔を寄せ、聞き耳を立てている執事を見れば、鋭く睨みを効かせてきた。
これ以上のことを言わぬよう、けん制されるのだろう。
僕としても、風呂場でのことを父には知られたくない。
「また連絡します」
そう言い電話を切った。
吉野は父が雇った執事ではなかった。
けれど父は吉野の存在を知っていた。
信頼もしているようだ。
少しだけ安心できたが、何者なのかは不明のまま。
改めて吉野を見れば、またタキシードに着替えていた。
先ほどのものはびしょ濡れだったから、何着も同じ服を持っているのだろうか?
「吉野、あの……貴方は、なぜここに?」
僕の問いに動揺もせず、ベストを美しい所作で羽織り、ボタンを留めている。
「その話は後日ゆっくりいたしましょう。まずは夕食をお召し上がりください」
言われてみれば、部屋の中にいい匂いが漂っている。
驚くことばかりで、匂いに気づけていなかったようだ。
「ビーフシチューを作っておきましたから。私もご一緒してよろしいですか?」
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