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第1話
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田宮(たみや)涼星(りょうせい)は孤独だ。
両親は十年前、涼星が八歳の時に揃って交通事故で亡くなった。田宮家の莫大な財産を残して。その財産は、三月生まれの涼星が十九歳になったら受け継ぐものとして、管財人と弁護士によって管理されてきた。涼星は使用人を除けば、ただひとり広大な屋敷に暮らし、物質的には何不自由ない生活を送ってきた。だが、その裏側には、後見人を務める父の弟をはじめ、親族たちが遺産を巡って蠢き……。見守るというよりも監視されながら、やがて学校にも通わなくなり、家に籠もって通信制高校から通信制の大学に進み、今は二年生だ。
愛のない暮らしだった。両親から注がれた愛情を知っているからこそ、淋しくて、哀しくてたまらない。
そんな涼星が唯一、心を揺さぶられたのは、大学で専攻している英国史だった。特に、イングランドとスコットランドが拮抗していた十六世紀、エリザベス女王とメアリ女王の時代だ。
――いいなあ、イギリス。いつか行ってみたいな。
それは願えば叶わないことではないけれど、ひとりで行くよりも、誰かと。気の置けない友人とか、恋人、とか……。
両親がいないから、自分を愛してくれる人は恋人だけってことになるのかな。愛し、愛されて、新しい家族が作れたなら、どんなに幸せだろう。
だが、どうしたらそんな人に巡り会えるというんだ。結婚も決められる、この檻の中で。
その檻を破って飛び出す翼さえ、涼星は計算高い大人たちの中でもぎ取られていた。
「涼星さん」
ノックのあと、涼星の部屋に入ってきたのは叔母だった。父の弟の妻だ。
「また景色を眺めていらしたの? 本当にここからの眺めは素晴らしいですものね」
「ええ」
ここは都会を見下ろす高層マンションのペントハウス。親族たちにあてがわれた豪華な檻だ。
「それよりも、別荘へ行く準備はできたのかしら。あちらでは涼星さんの誕生パーティーの手配はすべて済んだそうよ。あとは主役が向かうだけ。何やら趣向も凝らしてあるとか……楽しみね」
趣向、という言葉に叔母は棘をこめた。彼女はハイブランドのドレスを着て、しなやかに身をくねらせながら涼星の隣に立つ。胸のあいたドレス、まるで誘惑するような仕草……。
あの叔父ならやりかねない。妻を使ってハニートラップを仕掛けているのは見え見えだ。涼星はすっと身体を離して微笑んだ。
「ええ、準備は執事とメイドがやってくれました。いつでも出発できます」
「そう。では、午後には車が出ますからね」
彼女は自分の息子と同年代の涼星の顎をそっとなぞり、部屋を出ていった。部屋中にきつい香水の香りが残っている。
都会を離れ、山あいに建てられた別荘では、涼星の十九歳の誕生パーティーが行われる。叔母が言った「趣向」とは、見合いがセッティングされているということだ。
(僕を愛してくれるような人だといいけど……)
涼星はため息をついて、出発のために執事を呼んだ。
「ふう」
誕生パーティーは盛況だった。ひとりどころか、三人の女性に引き合わされ、シャンパンも多く飲まされたために疲れてしまった。ひと息つこうと、三階のバルコニーに上がる。
住居のペントハウスに比べれば素朴なものだが、そこからは優しく灯る街の灯りが臨め、吹き抜ける風が心地よくて、子どもの頃から涼星の好きな場所だった。
引き合わされた女の子たちは皆、十八歳や十九歳だというのに、叔母のように身体の線が強調されるようなドレスを着て、ジュエリーをこれでもかとつけて、濃いアイメイクで流し目を送ってきた。
今にも取って食われそうで、ただでさえ女性慣れしていない涼星は、笑顔が凍りついてしまった。ひとり清楚な女の子もいたけれど、彼女が最も目の色がぎらぎらしていた。きっと彼女たちは親に言われてこの結婚を攻略しようとしているのだろう。欲しいのは夫ではなく、夫についてくる財産なのだ。子どもの頃から仕えてくれている執事が出かけに「涼星さま、お労しいです」と目頭をそっと押さえていたが、やはりこういうことだったのだ。
「この二十一世紀に、あり得ない時代錯誤だ。財産を巡っての親族バトルだなんて」
バルコニーの手すりに手をつき、涼星は言い捨てた。このバルコニーは崖に突き出ていて、落ちたら重傷では済まないだろう。不運ならそのまま谷底へ落ちていく。子どもの頃、母にこっぴどく言われたものだ。
『絶対に、ひとりで身を乗り出してはだめよ。お母さんかお父さんと一緒の時でなくては』
『わかってるよ!』
母を見上げて答えたのはいつのことだっただろう。この別荘には度々家族で訪れていたから、楽しい思い出がそこかしこに亡霊のように漂っているのが辛い。
「でも、僕はもう大人になっちゃったから大丈夫なんだ」
涼星はもっと風に当たりたくて、バルコニーから身を乗り出した。その時だ。
「えっ?」
木製のバルコニーの手すりがグシャンと急に頼りなくなった。腐っていたのだろうか。いつも完璧にメンテナンスされていたはずなのに。次の瞬間、涼星は転がりながら崖を滑り落ちていた。
「だっ、誰か」
頼りない自分の声が聞こえる。眼下に見えるのは、黒い黒い闇のような谷底だ。
(ああ、このまま死ぬのかな)
吸い込まれそうな谷底を見ながら、淡々とそう思った。この別荘で死ねるならいいか――。
崖の岩にところどころ身体を打ちつける。痛いけれど、不思議と怖いと思わなかった。頭も打ち、谷底へと転がり落ちていく。薄れていく意識の中で涼星は思った。
(もし生まれ変われるなら、今度は僕のことを愛して愛して、僕も愛する人に出会えるといいな……)
――しかと聞いたぞ。
頭の中で不思議な声が響いた。
(えっ?)
――愛されて愛されて鬱陶しくなるやもしれぬぞ? まさに溺愛ということだが。
できあい?
(かまい、ません……僕を、愛してくれるなら……――)
それが涼星の意識の最後だった。
翌朝の各新聞で『旧華族、田宮家の若き当主、別荘のバルコニーから転落』という記事が紙面を賑わせたことを、涼星は知る由もなかった。
事故と事件と自殺の三点で捜査が行われることも、何も知らなかった。知ったところで、どうにもならないことだった。
***
「気がつかれましたっ! フレデリックさま!」
おぼろげな意識の中で涼星が聞いた第一声は、少年の声だった。
(たす、かった……?)
ぼんやりしながらも目をあけることができた。目の前に見える景色は、歴史の教科書や、大学で専攻していた英国史の十六世紀頃の室内。
(え?)
そうかこれは夢を見ているんだな。毎日、図表を見たり原文で物語を読んでいたから、その挿絵のような……。
僕って勉強熱心なんだな……。目がはっきりと開いてくると、そこにいる人々は――婦人はドレス、男たちは宮廷服で、皆さめざめと泣いているのだった。
「本当によかったですこと」
「ああ、一時はどうなるかと」
自分は天蓋のついた寝台に寝かされていて、部屋の調度品もその時代の英国のものにそっくりだった。
(妙にリアルな夢だな……)
そう思い、もっと部屋の様子を見ようと寝返りを打とうとしたら、白いエプロンをつけた若い女性にそっと手を添えられた。だが、その手は傍らにいた少年に振り払われる。
「よい、イザベラ。そなたはリュシアン殿下の世話をしていながら、食事に毒が盛られていたことにも気づかなかった。確かに毒味はしたのであろうな」
それは、第一声と同じ声だった。見れば、黒髪の少年だ。長めの髪をリボンのようなもので結えている。中学生くらいだろうか。イザベラと呼ばれた女性は、その少年に向かい、床にひざまずいた。
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