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第6話
そんな状態でもリュシアンは友だちができ、授業が終わったあと、学院内の中庭でおしゃべりをするようになった。もちろん、その間もフレデリックはリュシアンに寄り添っている。だが、同じ年頃の子どもたちとはしゃいでいるリュシアンは楽しそうだ。勉学も優秀にこなし、学院に行くのは楽しそうだった。
(リュシアンが必要で、彼を離せないのはフレデリックの方なのでは……)
涼星は思う。リュシアンは機会があれば兄から離れて自立することもできるのではないだろうか。この先、二人がどのような未来を歩むのかわからないが、二人で共倒れになってしまうようなことだけは避けなければと涼星は思う。自分は十九歳で人生を終えたから、そのあとは完全に、リュシアンに同化するのだろうと涼星は思っていた。
男兄弟二人で、今のように兄に溺愛されながら生きていくのだろうか。いつか、兄はなぜこれほどまでに自分に執着するのか、疑問に思う日はくるのだろうか。そして、その真実を知る日はくるのだろうか。
(待てよ、真実なんかなくて、ただ単にフレデリックがリュシアンを愛しているっていう、シンプルな答えもあり得る……のかな。でも、それって……二人は血がつながった兄弟なんだし)
前にいた世界の歴史では、十五~十六世紀頃は、各国の王族は血を絶やさないために血族結婚を繰り返していた。だが、宗教的にも同性の関係は禁忌とされていたし、ましてや実の兄弟なんて……。
だがこの世界は前にいた世界とは少しずつ違っていて、尻尾の生えた天使の宗教画はあるが、宗教の縛りはまったく感じないし、宗教より尊ばれているのは、フレデリックが守護を務める水晶のようだ。
水晶のことは、涼星はまだよくわかっていない。リュシアンの成長につれて、この世界の仕組みは次第に理解できていくのだろう。とにかく、水晶が司るなんて、ここはファンタジーも存在する異世界だ。僕の常識や価値観なんて通用しないかも……? 実の兄の溺愛? 実の兄と恋愛?
(ちょっと、いくらなんでもそれは考えすぎだろ!)
短絡的に考えてしまったが、そもそも、自分は恋愛も家族の愛も知らないのだ。涼星は思考の迷路に入り込んでしまったが、リュシアンはイズメイに無邪気に訊ねている。
「にいさまも、おうりつがくいんにかよってるんだよね」
「いいえ、フレデリックさまはこれまで一切、学院には通っておられません。そしてこれからも」
王立学院とは、初等から中等、高等まで貴族や王家の子弟のための学び舎だ。イズメイの答えに、リュシアンは愛らしい目を丸くした。
「どうして?」
あんなにたのしいところなのに。リュシアンは単純に驚いたのだった。
「フレデリックさまには、他に学ばねばならないことがおありですから」
「すいしょうのこと?」
「そうです」
そうだったんだぁ、リュシアンは目を見開き、一方でイズメイは口を真一文字に結んでから、きっぱりと言った。
「水晶と、そのお役目については、追々、フレデリックさまからお話があるでしょう」
「ふーん……」
リュシアンは、(そして涼星も)腑に落ちないものを感じていた。フレデリックに訊ねたとしても『おまえはそのようなことは考えずともよいのだ』と、さらさら金髪の向こうで笑うだけなのに。
不服そうなリュシアンに気づき、イズメイはふっと息をつく。そしてつけ足すように言った。
「いずれにしても、フレデリックさまは大切な弟君から離れられませんから、学院に通うなど無理ですね」
「だいじなおとうとぎみって、ぼくのことだよね」
「そうです」
数年前にリュシアンの額にキスをして『だいすき』をもらってから、イズメイの表情筋はさらに強固になっている。だが、その顔の下には主たちへの愛があることを涼星は知っている。
「ですが……この国では、十五歳頃から結婚のお相手が決まります。しかしながら、フレデリックさまにはご結婚の話が参りません。あれだけの美貌と頭脳をお持ちで、ましてや水晶のガーディアンとあっては、皆、身構えてしまうのもわかりますが、このままではいずれお立場が……」
イズメイはそこではっとして口を噤んだ。
「申しわけありません。リュシアンさまに申し上げることではありませんでした。お許しを」
鉄板のように波立たないイズメイが口走ってしまうなど、よほど彼は心を痛めているに違いない。リュシアンには、なぜイズメイが謝るのかよくわからなかったけれど、涼星にはよくわかった。
今は穏やかなエヴァンス王国だが、現国王が亡くなれば勢力争いが起きるだろう。まだ次の国王が決まっていないのだから……。
フレデリックは王位になど興味ないだろうが、政治に口出しする立場のガーディアンは、何かと煙たい存在だ。自分の騎士団も持たず、父である現国王にも敬意を表さないフレデリックには後ろ盾がない。イズメイはそのことを憂いているのだろう。前の世界で歴史を学んでいた涼星は、国の行く末を予想することができた。
おそらくリュシアンが十九歳を迎えて、完全に涼星が融合すれば、意見することができるかもしれない。だが、今は八歳のリュシアンとしてしか動けないし話せない。そうして涼星がもやもやしている一方で、リュシアンは別のことで心を痛めていたのだった。
「にいさま、けっこんするの?」
リュシアンは不安そうに目を曇らせてイズメイに訊ねた。
「はい。おそらく、いずれは……」
イズメイは、リュシアンに対して失言してしまったことで自分の過失を認め、腹を括ったのだろう。「結婚されませんよ、今のはたとえ話です」などと、ごまかすようなことはしなかった。
「そんなの、いやだああ」
リュシアンは声を上げて泣き出した。共鳴して、涼星の心も痛んだ。少々濃すぎるけれど、フレデリックが示す愛が自分のものではなくなるだろうことが棘になって、ぐさぐさと心を刺した。
(これはリュシアンの気持ちだ……)
先ほど、フレデリックの立場やこの国の未来を分析したばかりだというのに、涼星はリュシアンの中で一緒に泣いていた。
「にいさまが、けっこんしてリュシーをおいていくなんていやだよう」
「そんなことはありません。たとえ結婚されても、フレデリックさまはそのようなことは……!」
イズメイが膝を折り、リュシアンの肩に手を置いて答えた時だった。
「これはなんの騒ぎだ? なぜ、リュシアンがこのように泣いている」
フレデリックが現れ、きつい視線でイズメイに訊ねた。リュシアンは「にいさま!」と叫びながらフレデリックの腰に抱きつく。
「にいさま、けっこんしないで! ずっとリュシーのそばにいて!」
「当たり前だ。私は一生、おまえの側にいる。いつもそう言っているだろう?」
十五歳の少年が八歳の子どもを抱き上げるのは大変そうに思えるが、背が高く体格のよいフレデリックは、泣いているリュシアンを軽々と抱き上げた。すると、中の涼星の心がきゅっと痛んだ。先ほどの棘で刺されるような痛みとは、まったく違うものだった。なんだか甘酸っぱいような――。
(フレデリック、いつの間にこんなに逞しくなったんだろう。もう立派に大人の男だ……)
一方、リュシアンは泣きじゃくりながら「やだ、やだ」と繰り返している。その黒い巻き毛を撫でながら、フレデリックはぎゅっとリュシアンを抱きしめた。
(あ……抱きしめられてる……?)
リュシアンとシンクロした涼星は戸惑いの中にいた。時々、こうして完全にリュシアンとシンクロするのだ。涼星の心の中にも、フレデリックがリュシアンに注ぐ愛情が流れ込んでくる。
「可愛いリュシー、安心しておくれ。私は絶対におまえを離したりしないから」
「ほんと? ほんと?」
「これでも信じられないか?」
前髪を掬って、額にキス。リュシアンの大好きなキスだ。リュシアンはやっと落ち着き、くすんくすんと泣きながら、兄にぎゅっとしがみついた。
「……おまえが何か吹き込んだか」
リュシアンの肩越しに、フレデリックは冴えた目でイズメイを見据えた。
「は……失言でございました。どのような罰でもお受けいたします」
フレデリックは、ひざまずいて頭を垂れるイズメイをしばらく見据えていたが、ややあって口を開いた。
「立て」
イズメイはゆっくりと立ち上がり、主人の目を見つめた。
「罰などあろうはずもない。私とおまえは、水晶に定められた主従なのだ」
(水晶に定められた主従?)
「私の身辺については、やがてリュシーも知っていくことだ。私のリュシーへの愛が足らなかったのだ。だから不安にさせた。咎は私にある。もっともっと愛して、私のもとが自分の幸せなのだと思えるように」
「はっ」
(そんな、リュシアンの自我はどうなるの?)
イズメイが答える向かいで、涼星はフレデリックのリュシアンへの愛の濃さに、今度は不安を抱いてしまった。さっき、抱きしめられてあふれるような愛を感じたばかりだというのに……。
リュシアンはこのまま、兄の愛に応えて生きていくのだろうか。彼らはいつまで同じ寝台で寝るのだろうか、フレデリックはいつまで学院に付き添い、いつまで弟のために毒味をするのだろうか……。そんな思いが押し寄せてきて、心が忙しい。
転生して三年、フレデリックからはリュシアンを通してそれこそあふれるほどの愛情をもらってきた。その中でなんだか慣れてしまったこともあるが、改めて考えると、ちょっと行きすぎでは? と思うことはやっぱりあるのだ。
どうしてフレデリックはあれほどまでにリュシアンを溺愛し、執着するのか。
だが本来、愛することに理由などないのだろう。愛しいから愛する。それでいいのかもしれないが、涼星は十九歳でリュシアンに転生するまで本当に愛を知らなかったから、それは本で学んだ机上の空論かもしれないのだ……。
「にいさま、だいすき。どこへもいかないでね」
「何度も言わせるな」
涼星の複雑な思いをよそに、二人は互いを見つめながら笑い合っている。
だが月日が流れ、やがてフレデリックの前に思わぬ恋敵? が現れることになるのだった――。
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