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第2話 偶然の出会い

朝、鏡の中の自分が少し違って見えた。  紺色の髪が湿気を含んで乱れ、紫の瞳の下に濃い影が落ちている。  秋田総は、コーヒーのカップを手にしながら静かに息を吐いた。  昨夜、雨の中で出会った青年。  ——高崎彩芽。  金色の髪に、真っ黒な瞳。  雨に濡れた姿が、街の光に照らされて一瞬だけ金箔のように輝いていた。  不自然なほど記憶に残っている。  名前を呼ばれた時のことを思い出す。  「総さん」と、あの青年は確かにそう呼んだ。  あれは、十一年前に封印した名前。  ——総。  十歳の少年を救ったという、その言葉か、まだ胸のどこかに眠っている。  だが、今の総はもう“作家”ではない。  会社員として生きるただの凡人。  言葉を使わず、日々のノルマと数字だけを積み重ねる。  それが「平穏」だと信じていた。  ……なのに、昨夜からずっと、心臓の鼓動がおかしい。  カップを置いた指先が、わずかに震える。  十年前、まだ大学生だった総は、筆を折ると決めた日、  自分の中の何かを殺したつもりだった。  あの頃、書くたびに荒んでいった。  言葉を紡ぐのが怖くなった。  才能を求められることも、崇められることも、全部——。  だけど、昨日の金髪の青年の目は、違っていた。  あの瞳には、確かに“総という人間そのもの”が映っていた。  ——「俺、あの本に生かされたんです。」  その言葉が、まるで呪いみたいに頭から離れない。  救ったはずが、救われていたのは総の方だったのかもしれない。  スマホが震えた。  画面に新着メッセージの通知。  差出人は「高崎彩芽」。 『昨日は、ありがとうございました。  総さん、手が冷えていました、風邪などはひいていませんか?』    心臓が一度、強く打った。  総は息を止めたまま、しばらく画面を見つめる。  どこか危うい。  けれど、不思議なほど惹かれる。  理性が囁く——「返すな」。  だが、もう一つの声が、それを掻き消す。 『もし、また会えるなら……ハンカチを返させてください。』  その文を読み終えた瞬間、  総の中で眠っていた“総”という名前が、  かすかに目を開けた気がした。      ————      朝の光が、やけに眩しかった。  金髪を乱雑にかき上げながら、彩芽はベッドの端に座った。  頬に残る痣は、もうほとんど消えている。  けれど、昨夜に触れたあの冷たい指の感覚だけは、未だに消えなかった。  ——秋田総。  十一年前、本の中の名前だった人が、  今は現実に存在している。  息をして、体温を持ち、目の前でハンカチを差し出してくれた。  それだけのことが、現実味を失わせる。  まるで夢と現実の境界が曖昧になっていくようだった。  テーブルの上には、昨夜受け取ったハンカチ。  まだ湿っている。  彩芽はそれを掌で包み、目を閉じた。 「……やっぱり、運命だ」  あの人の書いた物語で生き延びて、  その人に触れられて、  しかも、あの紫の瞳に“俺”が映った。  それは偶然なんかじゃない。  何か、ずっと前から決まっていたことなんだ。  ポケットの中のスマホが振動する。  画面には未読のメッセージ。  ——昨夜、送ったメッセージに、総からの返信はまだない。  いい。  焦ることはない。  時間なんて、十一年分、待ったのだから。  彩芽は立ち上がり、鏡の前に立った。  光も入れない黒い瞳が鏡に映る。  自分でもぞっとするほど静かな表情をしていた。 「俺、もう“読者”じゃない」  唇の端が、ゆっくりと笑みを作る。  “ファン”でも、“憧れ”でもない。  俺は、あの人に“触れた”。  そしてもう、戻れない。  大学の講義をさぼり、ネットカフェで  彩芽は総が勤めている会社を調べ始めた。  ——SNSでの目撃情報。  ——業界の噂。  ——写真に偶然写り込んだ、紺髪の男の後ろ姿。  画面をスクロールするたびに、胸が熱くなっていく。  やっと、手の届くところにいる。 「総さん、次は俺の番ですよ」  囁くように言って、彩芽はハンカチを丁寧に折りたたんだ。  それをポケットにしまう。  次に会うとき、それを返そう。  ——“偶然”のふりをして。  胸の奥で、何かが静かに疼く。  焦がれるような恋ではない。  もっと深く、もっと暗い。  触れたら最後、引き返せない。  金髪の青年の黒い瞳が、  どこか危うく光った。  その瞳の奥には、  ひとりの男を独り占めにする未来しか映っていなかった。  昼の街は、夜よりも残酷だ。  真昼の光が、誰かの嘘も下心も暴いてしまう。  それでも彩芽は、軽やかな笑みを浮かべて歩いていた。  手にはコンビニのコーヒー。  目的地は、秋田総が勤務しているオフィスビル。  昨日の夜から、何度も地図を確認した。  SNSの投稿を遡り、総が通っているカフェの位置まで調べた。  そして今日、昼休みの時間帯に合わせて“偶然”を演出する。  ガラス張りのビルの前。  扉が開く。  スーツ姿の人々が次々と出てくる中で、  ひときわ静かな空気をまとった男の姿が見えた。  ——紺の髪、紫の瞳。  少し疲れた表情さえ、相変わらず綺麗だった。  彩芽は胸の鼓動を抑えるように深呼吸して、  ほんの少し進行方向をずらし、  タイミングを計って——わざと肩をぶつけた。 「すみませんっ!」  反射的に謝る声。  そして、その声の主が誰かを見た瞬間、総の目が一瞬だけ見開かれた。 「……高崎くん?」  名前を呼ばれた瞬間、胸の奥で小さく火が灯った。  やっぱり覚えていてくれた。  昨夜の雨の下で出会っただけなのに。 「総さん。奇遇ですね」  軽く笑って見せる。  その声は自然だった。  けれど指先は震えている。  十一年待った相手を、今、手の届く距離で見ている。 「この辺、よく来られるんですか?」 「職場が近いので。……高崎くんは?」 「大学が向こうの駅なんです。今日はたまたま友達と昼飯食べに来てて」  嘘。  完璧な嘘を、笑顔で重ねる。  総はわずかに頷きながら、コーヒーを口に運んだ。  その仕草すら、どこか丁寧で、美しい。 「もしよかったら、少しお話ししません?」  彩芽の声が、自然に出た。  誘うというより、“再会の続きを求める”ような響き。  総は一瞬迷い、それでも頷いた。  近くの喫茶店へ二人で入る。  昼下がりの店内に、コーヒーの香りが満ちる。 「……あの、本当に、あの小説を読んでくれてたんですね」  総の声は柔らかかった。  けれどその奥には、どこか罪悪感のような影が滲んでいた。 「俺、あの本がなかったら死んでました」  彩芽は静かに言った。  笑わず、真っ直ぐに。  その言葉に、総の指が微かに止まった。  ——沈黙。  店の中のざわめきが遠ざかる。  総の紫の瞳が揺れ、何かを言おうとして、やめた。 「……そうですか。……ありがとう。」  その一言で、また心が熱くなる。  彩芽は笑って見せた。 「感謝してるだけじゃ足りないんですよ、総さん。俺、ちゃんと返したいんです」 「返す……?」 「ええ。俺の言葉で、総さんに。  総さんの言葉で生き延びたから、今度は俺が、総さんに恩返しがしたい。」  テーブル越しに視線が交わる。  まるで電流のように、空気がわずかに震えた。  ——もう、逃がさない。  総は気づいていない。  彩芽の笑顔の奥で、何かがゆっくりと形を変え始めている。  優しさと執着、感謝と欲。  その境界が溶けていく。  コーヒーの香りの中で、  彩芽は穏やかに、けれど確かにその男を“捕らえた”と思った。 

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