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第3話 会いたいの先は

 大学の昼休みは、雑音が多い。  笑い声、スマホのシャッター音、グループLIMEの通知。  彩芽はカフェテリアの隅の席で、スマホを見つめていた。  ピン留めした画面の一番上には、  ——秋田総。  その名前が並ぶトーク履歴。  短い言葉のやりとりを何度かしているだけ。  それでも、それが生活の中心になっていた。  向かいの席で、大河がストローを噛みながら言う。 「また年上? お前、最近いつも誰か追っかけてんじゃん」 「……うるさい」  軽く笑って誤魔化す。  大河は同じ学部の友人で、彩芽に一方的な興味を持っている。  けれど、彩芽は大河に恋愛感情を抱いたことが一度もない。  大河の無邪気な視線が、どこか子どもっぽく見える。  彩芽にとって「好き」は、そんな軽い言葉ではなかった。 「彩芽って、なんか“追う恋”しかしないよね」  大河がぼそりと呟く。  図星すぎて、彩芽は笑ってコーヒーを飲んだ。  ——追う、というより、求める。  “生きてる理由”みたいなものを、相手の中に見つけてしまうから。  そこへ、聞き覚えのある声がした。 「……久しぶり、彩芽」  その声を聞いた瞬間、空気が変わった。  顔を上げると、黒いジャケットに身を包んだ青年が立っていた。  切れ長の目、静かな笑み。  ——神谷蓮。  彩芽の“元彼”。  周囲のざわめきが一瞬遠のいた。  神谷は昔から、存在そのものが異質だった。  落ち着いていて、冷たくて、それでいて何かを見透かすような瞳をしていた。 「冷たい、とこ何も変わらないな、そういうとこ」 「……神谷こそ。まだ俺に用あんの」 「用ってほどじゃない。ただ……気になっただけ」 「気にしなくていい」  淡々とした会話の中に、言葉にならない緊張が流れる。  神谷の目が、一瞬、スマホに向いた。  そこには「秋田総」の名前。 「……へえ。新しい“おもちゃ”?」  彩芽の指先が止まる。  その言葉に、胸の奥の何かがじりっと焼けた。 「違う」 「じゃあ何? 前は俺にもそう言ってたよな、“違う”って」  大河が気まずそうに視線をそらす。  彩芽は深呼吸して、冷たく言った。 「——お前は、俺のこと、何も知らなだろ、ほっといてくれ」  冷たい言葉が静かに落ちる。  神谷は口角を上げて、去っていった。  背中を見送りながら、彩芽は指先でスマホをなぞる。  画面の奥の“秋田総”という名前を、まるで守るように。  その瞬間、胸の中に確信が生まれた。  ——俺、やっぱり総さんがいい。  どんな過去でも、どんなに壊れても、あの人だけは手放せない。  窓の外で風が吹く。  金髪が揺れ、黒い瞳の奥で光がきらめいた。    ————      パソコンの画面が眩しく総は眉間に皺を寄せる。  会議用の資料を整えていると、背後から小さな声がした。 「秋田課長、今週の数字、上がりましたよ」  振り返ると、デスクの前に春宮玲奈が立っていた。  淡い茶色の髪を一つにまとめ、清潔感のあるスーツ姿。  笑うと、目尻に少しだけえくぼができる。 「ああ……ありがとう。助かるよ」  玲奈は控えめに微笑んだ。  彼女はいつも一歩引いて話す。  それが心地よく、総は自然と距離を保てていた。 「秋田課長って、あんまり休日どこか行ったりしないんですよね」 「そうだね。家で本読んだり……たまに散歩くらいかな」 「真面目だなぁ」  玲奈は笑った。  その笑顔の裏に、少しだけ憧れの色が見えた気がした。  そんな玲奈を見ながら、総は一瞬、ふと思う。  ——この子となら、穏やかに過ごせるのかもしれない。  だが、その考えをかき消すように、  頭の奥に金髪の青年の姿が浮かんだ。  あの夜の駅前。  冷たい雨と、あ何も移さない黒い瞳。  “またお話してくれますか?”  理性では、関わってはいけないと分かっている。  だが、心はその青年の言葉を待ってしまう。 「……課長?」  玲奈の声で我に返る。 「あ、ああ。ごめんね、考えごとしてた」 「無理しないでくださいね。顔、少し疲れてます」  玲奈はデスクに数時間、放置したマグカップを指した。 「コーヒー、冷めてますよ。入れ直してきましょうか?」 「ありがとう。でも大丈夫」  そう言いながらも、玲奈の優しさが胸に刺さった。  ふと、デスクに置いた総のスマホが震えた。  画面には、“高崎彩芽”の名前。 『今、会社の近くです。  ……少しだけ、会えませんか?』  息が止まる。  周囲のざわめきが遠くなる気がした。 「秋田課長?」  玲奈が覗き込む。  総は慌ててスマホを伏せた。 「すみません、少し外の空気を吸ってきます」  立ち上がりながら、自分がどこへ向かっているのかを理解していた。  ——また、彼に会いに行こうとしている。  止められない、衝動がそこにはあった。  理性を頼りに生きてきた十一年。  その理性が、今にも音を立てて崩れそうだった。  オフィスのエントランスを抜けた瞬間、  外の空気がやけに冷たく感じた。  昼の光がガラスに反射して眩しい。  スマホの通知をもう一度見る。  ——『今、会社の近くです。会えませんか?』  理性が「行くな」と囁く。  でも、その声はどこか遠くで響いていた。  通りを渡った先のカフェテラス。  金髪の青年が、ひとりでコーヒーを飲んでいた。  太陽の光を受けて、髪が白く輝く。  その姿を見た瞬間、心臓がドキリと音を立てた。 「……来てくれたんですね」  彩芽の声が、いつもより柔らかい。  だが、その黒い瞳の奥には、深い熱が潜んでいる。 「大学じゃないのかな?」 「講義サボりました」  あっけらかんと言って笑う。  その無邪気さの奥に、狂気めいた純粋さを感じて、総は息を呑んだ。 「……彩芽くん、こういうのは——」 「“ダメ”って言いたいんですよね?」  彩芽が身を乗り出す。  テーブルを挟んで、距離が一気に近づく。  金の髪が光を弾き、黒い瞳がまっすぐ総を射抜いた。 「でも、総さんは来てくれた。  “ダメ”って言いながら、俺を見てくれる。」  言葉を失う。  正論も理性も、この距離では意味を失っていく。 「……彩芽くん」 「はい」 「俺は……年下が相手なんて、考えたことも——」 「俺は考えてましたよ、ずっと」  静かに遮る。  その声の奥に、十年以上の想いが詰まっていた。 「十歳のとき、総さんの言葉で生きた。生きてる“あなた”に触れたくて。」  その告白は、叫びでも誓いでもなかった。  ただ、事実としてそこに在る“祈り”のようだった。  総の喉がかすかに動く。  何かを言おうとして、言葉が出ない。  テラスを吹き抜ける風。  周囲の音が遠のく。  ただ、金髪と紫の視線が交わり続けた。 「……彩芽くん」  かろうじて出た声は、かすれていた。  彩芽は笑った。  穏やかで、どこか危うい笑み。 「貴方のその呼び方、好きです。  でも次に呼ぶときは……の目を見て言ってくださいね。」  総が視線を外すと、  彩芽はゆっくりと立ち上がった。 「また、すぐに会いたいです。  “偶然”の出会いなんて言わせませんから。」  そう言い残して去っていく背中を、  総はただ見送ることしかできなかった。  紫の瞳の奥に、確かな熱が生まれつつあった。

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