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第1話

 ——名前なんてどれも一緒じゃないか……    教室の後ろの席で、黒い頭をうつむかせながら、高崎彩芽は、「女顔」「気持ち悪い」「死ね」と落書きのされた机をただただ見つめていた。    「〝あやめ〟って、女に付ける名前だろ」  「おい、〝あやめ〟今度はスカート履いてこいよ」 「気持ち悪い、女顔」  笑い声と共にそいつの持っていたペットボトルの水が頭にかけられ、髪の毛が顔にペタリと張り付く。    ——冷たい。    殴られる、蹴られるより、心にくるのは、するどい言葉の棘だった。   放課後、ふと〝死にたい〟と思ったそんな時、図書室が視界に入った。  古びた本棚。綺麗に整列された本が、そこに一冊だけ背表紙が擦り切れた文庫本があった。    タイトルは『群青の楓』    作者名の欄に、小さな文字で——秋田総  なんとなく、手に取った。  ページを開くと、最初の一文字に釘付けになった。    ——人は、誰かに名前を呼ばれる為に、生きている。    その言葉に、胸の奥で堰き止めていた涙が一つ溢れた。声にならない嗚咽が、喉の奥から漏れた。  自分の名前を、誰かに笑われずに読んでくれる世界が、この物語のなかに存在していた。    ——「秋田 総」    その作者がどんな人なのかも知らないけれど、その人の本が〝死〟から強い力で、彩芽を引き留めた。   「この人に追い付きたい……」    その夜、彩芽は枕元に少ない小遣いで急いで買った総の本を枕元に置いて眠りについた。夢の中でも、優しく自分の名前を呼んでくれる気がした。    「あやめ」その響きが少しだけ好きになった。    ————    秋、太陽が少し、傾き始めた午後。  彩芽が十才の時テレビで見たニュースの音声が、目の前を真っ暗にした。   『人気若手作家、秋田総(二十)先生が筆を置く事を発表しました——』    クラスも秋田総の話でもちきりだった。「もったいないね」その他人事みたいに笑う言葉に彩芽は、胸が苦しく、息がうまく吸えなかった。   「……やだ……」    小さく呟いた声は、自分でも聞こえないほど小さかった。たったひとり、世界で初めて自分を救ってくれた人。  その人がもう言葉を紡がないなんて、それは“神様が口を閉ざす”のと同じことだった。その夜、彩芽は本を抱きしめたまま眠れなかった。  涙の跡でページが歪んでいく。  それでも離せなかった。 「……いつか俺、総さんに絶対会う。俺が、あの人の“言葉”を取り戻す」  十歳の少年が抱いたその誓いが、やがて十一年後、運命の再会を呼び寄せることになる。    ————    十一年たった秋の少し寒い夜の渋谷、ネオンの光が濡れたアスファルトに滲み、通りを人が流れていく。  高崎彩芽は、傘も差さずに歩いていた。ブリーチした髪が雨に濡れて、顔に張り付き、雫が首筋を伝う。白いシャツが肌に貼りつく感触が、妙に現実的で気に障る。  あの日、十歳の少年が抱いた誓い。“いつか秋田総に会う”。    それを胸の奥に抱えたまま、十一年が過ぎ。    大学では文学を専攻した。  何百冊も本を読んだけど、“あの人”の言葉を超える文章には出会えなかった。  寂しさを埋めるために、どれだけ遊んでも、誰と夜を過ごしても、心の奥の空白は、埋まらなかった。  今日も同じだった。彩芽はセフレの名前の覚えていない様な女に頬を叩かれ、冷めたように笑った。  罵声を浴びせられても、痛みすら感じない。  心は、ずっと別の場所にあった。  ——帰ろう。  薄暗い路地裏に出たそのときだった。  不意に差し出されたハンカチが、彩芽の視界を遮った。 「……冷やしたほうがいいですよ」  低く、落ち着いた声。  顔を上げると、そこに立っていたのはスーツ姿の男だった。  紺色の髪に紫色の瞳。  十一年前、文庫本の著者欄で何度も見た名前と同じ顔がそこにあった。  ——総。  現実が一瞬で揺らぐ。  視界がぼやけ、心臓の音が耳の奥で響いた。 「……あ、の、総さん、ですよね?」  総は少しだけ眉を動かした。   「……俺の名前を、知ってるんですか?」  総は赤く腫れた頬に、濡れたハンカチをそっとあてた。  彩芽の体は氷のように冷たいのに、総に触れた自分の頬が焼けるように熱い。 「知ってます、総さんの言葉に、十一年前、救われたんです。」  総は言葉を失ったように黙っていた。  雨音が、ふたりの間に落ちる。どこか遠くで車のクラクションが鳴った。 「……“群青の楓”の読者さん、ですか」 「読者じゃないです。」    彩芽は笑う。雨に濡れた髪を掻き上げ、少しだけ前に出た。 「俺は、あの本に“救われた”人間です。  だから、総さんに会えて……今、夢みたいなんです。」  その彩芽の笑みは、少年の頃の無垢さを残したまま、どこか壊れかけた大人の笑い方をしていた。  総は視線を逸らし、冷えた指先でハンカチを押し当て直した。   「冷やしておかないと、痣になりますよ。……気をつけて帰てください。」  そう言って立ち去ろうとする背中に、彩芽は手を伸ばした。 「待ってください。」    声が震える。子どもの頃から、何度も夢で繰り返した光景。    ——総の背中を掴む、その瞬間。 「俺……また貴方に会いたいです。総さん。」  総の肩が、わずかに動いた。  振り返るその表情に、一瞬だけ〝総〟の面影が宿る。   雨音が強くなる。  ふたりの距離を隔てるように、夜が深く沈んでいった。

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