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僕はこの家の真新しい明るい玄関――たとえば二十人がいちどきにここへ押し寄せてきたって、それでも混雑とはならないようなほど広い、西洋風な高級ホテルのエントランスのような玄関――に立ち、向かいあって僕の両手を下から握っているハルヒさんの、そのうるうるとしたオレンジの瞳を見上げている。
「……ハルヒ。」――とハルヒさんの斜め後ろで呆れ顔をしている平河 さんが、右手につけた銀の腕時計にその顔をうつむかせ、少しいら立った早口でこう言う。
「…早くしろ五分以上は一秒も待たないからな。」
「…ハヅキぃ…」
しかし(今は僕しか見えていないらしい)ハルヒさんはしょんぼり顔で僕を見下ろし、
「…俺、一秒でも早く帰ってくるからね…? 寂しくっても泣いちゃだめだよ……?」
……と、この「別れ」を悲しんでいる。
「…あ、はは…、はい…、な、泣かないように頑張りますね……」
いや、泣くことはないだろうが。少なくとも僕 は ……そもそもこれを「別れ」だなんぞというのはあまりにも大げさな話である。
思うに「別れ」といって許されるラインとは、せいぜい一ヶ月ほどの別離だと僕は考えているが、おおよそ今回僕たちが離ればなれになる時間、なんとたったの八時間ごときである。
それは言うまでもなく、ハルヒさんはこれから都内某所の――この家から三十分か四十分程度の距離にあるらしい――事務所に行き、そして仕事を終えたなりそこからこの家に帰ってくるだけのことだからだ。
それも彼のマネージャーさんいわく、今日の仕事は打ち合わせ会議、また結婚発表の文章作成など、…つまりそう長引きそうにもない、要は今日は残業になりそうにもない仕事内容ばかり――すると上手くすれば十九時前にはこの家に帰ってこられるだろう、とのことであった。
ちなみにだが――ハルヒさんはああして僕の椅子をガラガラと後ろに引きずり、僕に「着いてきて?」と言っただろう。
つまり彼は「(自分の仕事に)着いてきて」と僕に同行を求めてきたわけである。
しかし自分の仕事もしなければならない僕としては、ハルヒさんの仕事に着いていく暇などない、というのが正直なところではあった。が、…
といって推しのその甘えんぼうな可愛い要求は僕の恋心をくすぐり、たちまち年上らしい愛情をいだかせるに至った。――あぁ困った、ちょっとした離ればなれでさえそこまで寂しがられてはいっそもう自分の仕事なんかあとでも、…いやいや駄目、駄目、…しかし叶うならいいですよ、なんて彼を甘やかしてしまいたい、…そりゃあ甘やかすだけが愛情ではないが、長い目で見ればここはきちんと断るべきだとわかってはいるのだが、…しかし新婚の今くらい、ちょっとくらい……。
ただ現実的に考えると、その実僕というのは、関係者ともいえない立場なのではないだろうか。
当然芸能界のことなど僕はよく知らないが、夫というだけで事務所などには入れるもの――そこにいてもよいもの――なのだろうか?
しかしいわく、それに関しては許されることではあるらしい。…籍を入れた夫――そして事務所の社長・ロクライさんの義理の孫――つまり、法的に認められている正式な家族ともなれば僕も一応関係者扱いとなり、家族専用の入館証も発行可能だ、むしろ有事に備えてそれを発行しておいたほうがいいかもしれないので、代理発行させておきます(夫のハルヒさんに)、とのことである。
誰いわくかって、…ハルヒさんのマネージャー・平河 さんいわくのことである。
……ああして僕の部屋、ハルヒさんが『着いてきて…?』と僕に要求し、僕がデレデレしながら『えぇと、でも…あの…僕自分の仕事が、そのー…』なんて(満更でもないながら)困り、そうしてはっきりとした返答を渋っていたとき――そこへハルヒさんを急かすために現れた平河 さんは、
『旦那さんには旦那さんの仕事があるんだ。お前にはお前の仕事があるようにな。…あんま我儘言うんじゃないぞハルヒ。そういう我儘ばっかり言ってると、そのうち愛想尽かされるぜ。――ほら行くぞ。』
とピシャリ。
そしてハルヒさんの黒いパーカのフードを鷲掴み、平河 さんはまた彼を引っぱっていった。
『あぁあぁ〜〜っ!? ハヅキいいいい゛…っ!』
で、…僕に両手を伸ばしたままずるずると引きづられていくハルヒさんは、お目々うるうるしょんぼり顔で、
『じゃ、じゃあせめて玄関まで一緒に来て…っ? せめてお見送りしてよぉおおおぉ…っ!!』
……と言うので――そうして僕は今玄関に、ハルヒさんと平河 さん、そして付き人として同行するらしいじいやと共にいるのであった。
そしてその玄関までの道すがら、僕は平河 さんからああした入館証のことや、今日の仕事内容のことなどを聞いたのである。ただ仕事内容に関しては、その人がハルヒさんをなだめるために言っていたことだったが。
……またちなみにその廊下を三人で行くなか、僕はハルヒさんから『あ、そうだこれ、じいやが渡せって』と自分のスマートフォンを手渡され――そういえば昨日店に入る前にじいやに預けてそのままだったそれは、聞くにじいやがきちんと保管・充電してくれていたらしい――、そしてそのまま自然な流れで彼と連絡先を交換するにいたった。
『休憩時間に連絡するね…?』とハルヒさんは寂しそうな顔をして、隣を歩く僕に言った。しかし僕は困り笑顔を浮かべながら、
『あぁ…ただ僕、仕事に集中しちゃってるとその、…正直、気が付けないかもしれないので…――仕事中はスマホ見ないようにしてるんですよ。気が散っちゃうから。』
とハルヒさんにそう断っておいた。
というのも僕は一つの主義として、仕事中は集中するためにスマートフォンを一切見ない。調べものならPCでできるし、そのために別途モニターを設置しているところもあるのだ。
すると『そっかぁ…』としょんぼりしたハルヒさんが、…また可愛らしかったのだが…――ただ彼はしょんぼり顔でこう食い下がった。
『…じゃあお仕事だいじょぶそうだったらさぁ…、せめて、俺が帰ってる最中だけは…――帰りの車の中でだけは、俺のこと…構って……?』
『……はは…、はい…そのとき仕事が片付いていたらもちろん…――あぁでも、お仕事が終わるの、たしか十八 時頃でしたよね。…僕もそこまでには何とか出来るように頑張りますよ。…離れていても、ハルヒさんと一緒に』
僕がそう微笑みかけると、ハルヒさんはにこっと嬉しそうに笑って『うんうん、一緒にがんばろ』と応えてくれた。――
ただ、いざ(僕を置いて)出かけるともなるとまた寂しくなったのか…――こうしてハルヒさんは向かいあっている僕の両手を下からにぎり、うるうるのオレンジ色の瞳で僕を見下ろしながら、この「(八時間ぽっちの)別れ」にやたら感傷的になっているのだった。
「…ね、〝行ってらっしゃいのちゅー〟して…?」
「……ぇ、…」
僕はドキッとし、じわーっと両耳が熱くなるのを感じた。――いや、…僕は強く意識してしまうあまりにハルヒさんの背後が見られず、ふと目を伏せた。
……さっき、ふたりきりのときでさえ緊張したのだ、何なら少し恥ずかしい気分にさえなった――だがそれもちょっと克服されたか、彼には今日二度自分からキスをすることができた――が、しかし、…今ここには僕とハルヒさんだけではなく、マネージャーさんとじいやもいる。
「……ぁ…あの、…ぁ…――ん…っ」
僕は二人がいるから…と断ろうとしたのだが、くい…と顎を下から上げられ、ぁ…と言っている間にも唇を奪われてしまった。――な、なんでキスするんだよもう、…絶対見られて…――しかもあむあむと唇を食まれている。
ちゅっと子どもでもするような愛くるしいキスならばまだしも、唇を食むのはさすがに……っ!
「……は…」とハルヒさんが唇を離した距離、妖しい半目開きで僕の目を挑発的に見つめてくる。
「ねぇハヅキ、これは俺からの〝行ってきますのちゅー〟だよ……?」
「……、…、…」
……要は僕からの「行ってらっしゃいのちゅー」もしてよ――自分からのこのキスはそれには入らないよ、と小ずるいことを言っているハルヒさんに、…
「もう…、……っ」
僕は心をとろかされたなかば仕方なくぎゅっと目をつむり、眉を寄せながらも軽くつま先立ち、…ちゅっとキスをしてやった。
……そしてかかとをおろし、その頃にはすっかり顔中がヒリヒリとするほど熱くなっていたものの、薄目をあけてハルヒさんを――なかば睨みつけるように――やや見上げ、こう震えたか細い声で言った。
「ぃ…行ってらっしゃい…」
するとにこっと幸せそうに破顔したハルヒさんは、ぎゅうっと僕を抱きしめ――僕の耳元で、
「行ってきまーす。えへへ…、……」
と嬉しそうに弾んだ声で挨拶したのち、少し体を離した。ので、
「はい…ふふ、行ってらっしゃい…。……」
……やっと出かけるのか、と思いきや、…
彼はまた僕の両手を下から取って持ち上げ、その僕の両方の指の背にちゅっちゅっちゅっと何度も、ランダムな小鳥のついばみのようなキスをしてくる。
「……はは…、……」
僕はそのくすぐったいキスに困り笑顔を浮かべながら、さなか、ちらりとハルヒさんの背後に控えた平河 さんを見た。――腕組みをしている彼は素知らぬ顔をこの玄関のやたら高い天井へと向け、『私は何も見ていませんよ、私は今考え事をしていて何にも気がついていませんので、もうご自由にどうぞ』とでも言いたげな大人の対応をしてくれていた。
じいやはというと目をつむり、ただ微笑んでうんうん、と頷いている。
ただその二人の温情がまた何か僕を面はゆくさせるものがあるのだが、…とはいえありがたい…――。
そしてハルヒさんは、またちょっと泣きそうな顔をして僕を見下ろす。
「……じゃあ、…俺行ってくるねハヅキ…っ」
「…はい…、はは、行ってらっしゃ…、……」
またぎゅーーっと抱きつかれた僕は、…とりあえず抱きしめ返しはするのだが――いつ出かけるんだよ、そろそろいい加減にしないと、二人も待ってるんだぞ、とちょっと焦りつつ……ただ頃合い、同じように『いい加減にしろよ』と思っていたらしい平河 さんがハルヒさんの首根っこを掴んで、
「それじゃあ行ってきます。……」
「…はは…、はい、行ってらっしゃ…」
「…っハヅキいいいい゛…――っ!」
と……ハルヒさんをまた連行してくれたことで、何とか彼は仕事へ――僕もある意味では解放され、…
「…おお待ってくれえススム! ワシも乗せてってくれや!」
「……、…」
え。
とこの場の全員の視線が向けられた自分の背後に、僕もさっと振り返ると、そこには大きなゴツゴツの片手をかかげてブンブン振りながら、ドシドシとこちらへ歩いてくるニッコニコのロクライさん…――今日も水色に白のモンステラのアロハシャツに、ピンクの半パンを穿いている――が、黒い仕事カバンを片手に、
「いやー、二日酔いでうっかり寝過ごしちまってのお! ガハハハハ!」
とか(社長のくせに)のんきなこと言うわけである。あと朝から声デカ。
「…あぁ、はい…いいっすよ社長…、でも早くしてください…」――平河 さんは若干げんなりとしているが、…顎をくいっとしゃくっているあたり、どうもこうしたことには慣れているようである。
「……、…、…」
どうしてこう…どいつもこいつもマイペースなのか…――もしや神だから、なのか? ――なんとなく平河 さんが心配になった僕だ。
「じゃあ行ってくるからのぉ! じいじの帰りを楽しみに待っておれよぉ〜ウエ!」
「俺、っ俺のこと忘れないでねハヅキ…っ」
「……ぁ、あぁはい…、行ってらっしゃい……」
と、そうしてひとり増えてロクライさん、ハルヒさん、それから平河 さんとじいやを見送ったのち――僕も自室にもどって自分の仕事に、やっと取りかかれたのであった。
◇◇◇
そうして自分の部屋に帰った僕の仕事は、ここ最近のなかで一番というほど順調に進んだ。
面白いほどスラスラとペンは思うままに動きつづけ、すると僕は久しぶりに自分の仕事への熱意や面白さ、やっぱり僕は漫画を描くのが大好きだ、というような情熱と意欲とを新鮮とかんじられるほどたちまち取り戻し――そして休憩時間には、その久しぶりに味わった壮快 な創作活動による高揚感から、ふと先ほどの「勘違い」をそれほど恥ずかしいとも思わずに思い起こして、何気なくこう考えたのだった。
なるほど…アニメやオタク御用達 のファンタジー作品の「あの表現」――あ れ は き ち ん と フ ァ ン タ ジ ー な 魔 法 の 表 現 だ っ た の だ 、…と。
僕はこれまで手描きというものを一種の技法だ、などという酷い勘違いをしていたために、ファンタジー作品にわりと出てくる「魔法でペンが勝手に動いている」というような表現を、――そもそもネット上でも、その何気ない表現に取り立てて言及しているファンを見かけなかったのもあって、――今の今までそれが「(便利な)魔法の表現」であったとは気がついていなかった。
……僕にしてみたら、それは人間がペンを握って文字を書いているのと同じ、いわば「普通の光景」だったためである。
ましてや僕は、ファンタジーともない他のアニメなどで絵を描くキャラクターが出てきても、「カッコいいから」伝統的な技法を使っている、というキャラ付けをしているのだ、なんて思っていたくらいなのである――僕はそもそもどこかに「手描き」という技法に対して「カッコいい」という一種の憧れをもっていた――。
それは「手描き」をしている人々に、伝統を重んじる職人の影を重ねてみていたせいだろう。
そもそも僕は、それこそ「手作り」という言葉もあるように、機械にはあまり頼らず、古くからの伝統的な方法で着物を創る職人たちの存在が身近にある家庭に生まれたばかりに、そういった「伝統的な」だとか「職人」だとかというのに対して尊敬はもちろん、カッコいい、すごいという一種の憧れを、子どものころからいだきながら育った――ただそれのせいもあって、僕は無意識にもその職人たちが大事にしているのと同じような歴史を、「手描き」というのに重ねてねつ造してしまっていたようだが――。
だから自分も手描きで絵を描くこと――描けるようになること――に対しても、やりにくいにはそうだが、楽しさと熱意とをもって取り組めていたのである。
いくら念をもって絵を描くその方法を、コトノハさんに「天才の技法」と言われて――ついでに秘密にしようね、と釘を刺されて――いたとしても、僕はのめり込むほど好きなことには我流のみならず、新旧どんなやり方も柔軟に試し、吸収し、実力にしてやろうという熱意があった。…こだわるべきは技法ではない。作品の出来にこだわる試行錯誤の過程で生まれるのが「こだわりの技法」なのだ。
まして、僕はほとんどアナログイラストとは「手描き」という伝統的な技法をもって描くべきもの、という考えもどこかに持っていたし――簡単にいうと僕の中には、アナログイラストは手描きで描く(ことが非常に多い)もの、デジタルイラストは「念」で描く(ことが非常に多い)もの、というような区分があったのである。
ただ鉛筆の握り方から教える「手描き」の技法ならいくらでも専門書に書いてある一方、「念」を用いた技法はどんな本にも書いていないことを疑問、というよりかは不便に思ったこともあったのだが――しかしそんなのは思えば当然のことである――、それに関しても僕は、『まあ職人らしく手を使うわけでもないし、そう大したテクニックも必要ない(大したテクニックなど無い)からだろう』だなんて、自己完結してしまっていたのだ。
しかしなるほどそれが「勘違い」だったと気がついた今、改めてさまざまな作品を観たなら、また違う目で新鮮に楽しめるのかもしれない。
ちなみにある意味では幸い、僕はこれまで絵を描くキャラクターを自分の作品に出したことがなかった。つまり僕のその「勘違い」が作品をもって露呈してしまう(ひいては不意に神とバレてしまう)、なんてことは起こらなかったのだ。――僕は自己肯定感が低く、すると自己投影をもって作品を楽しむというのが苦手なので(嫌っている自分が作品に関与している、というのが耐えられないからだ)、自ずから作品を創るにしても、多少の自己投影は免 れられない絵描きのキャラクター、というのは避けてきたのである。
しかし――自分が神であった、…それも我知らず神業を使っていた、というこの衝撃的な事実は、どう考えても漫画的にはおいしい経験だった。
……いつか、活かせるかもしれない。
僕がもう少し自己肯定感を高められたら…――いつかは、こんな自分事の話をも漫画に活かせる日がくるのかもしれないな。
さて、僕は今日のうちに何とネームを完成させることができた。
それも以前、居眠りしつつも進めていた部分の修正を含めた読切全32ページ分である。――そしてそれを担当のえっちゃんへ、メッセージアプリをもって送信した折に気がついたが、…ちょうどその時の時刻は十八時三十七分――同アプリに、ハルヒさんからのメッセージが届いていた。
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