180 / 180

177

「っちょっと退(ど)いて、ごめんっ…すみません、…」  と俺は今――ところ変わってまた賑わいを見せる市場通り――人だかりを両腕いっぱい使ってかき分け、その人の輪の中心で暴漢に襲われかけているウワハルのもとへ急いでいる。  ていうか…どうしてさっきまで海神の宮にいた俺が、またこの市場通りにいるか、というと――。  俺はまずもちろんああして、海神の王にまで手紙を書け、いいから四の五の言わずにウワハルに手紙を書いておけ、そのほうがお前のためだぞ――的な感じで(天井の丸い穴に湛えられた海水を王に大量に降らされた、その激流のすさまじい水圧で)無理やりまた座布団の上に座らされ、…そうしてまた文机に向かわされて、手紙を書け書けと上から左右(のお姉さんたち)から、とにかくせっつかれまくった――ちなみに「上から」というのは、実はそこからはいよいよ海神の王まで、俺が何か文句を言ったり、もうやだとか弱音を吐いたりすると、上からぴちょっ…ぴちょっ…と大つぶの水滴を俺の頭頂部のあたりに落として、たしなめてきたのだ…――。  そうなったら俺はもう手紙を書くしかない。  ……だって――お宮どころか綿津見の国そのものを、その限りなく大きな体で抱えこんだ――海神の王まで俺にそれを書け、と思っているなら、(もちろん目上の神のなかば強制に近い「すすめ」というのもあるけれども、それ以前に、)たとえばもういい、帰る、と俺がこの場から逃げだしたところで、どうせ海神の王に何かしらの方法で捕まって文机の前に戻されるに決まってるし、…それどころか、下手したらその手紙を完成させないことには、俺はこの国から出してももらえないかもしれない。  ……つまり――ウワハルはさっき俺に「もう家にも入れないようにしてやる」なんて言っていた(多分家族に告げ口でもして、俺をもう家に入れないでほしい、なんて頼み込むつもりだったんだろう)が、…さすがに家族だってこれくらいの喧嘩で俺を家に入れない、とまでのことはしないだろうものの、…何なら、かえって俺はもちろん家族全員が居間にそろえられて家族会議、というか、みんなでそうして俺たちの喧嘩の仲裁をしようとするだろうし、またいつも通り、…でもそれ以前に、海神の王が(手紙を書き終えなきゃ)出国を許さないかも、なんじゃ――俺は高天原にさえ帰してもらえないかもしれない。  となったらもう俺はゴネるのなんかやめて、髪から顔から体、そして着ている黒い狩衣もびっちょびちょなまま、いやいやながらもまた手紙を書かざるをえなくなった。  ただ、そういうある種の諦めがついたのもあって、そのあとはお姉さんたちの助力もあり――いや、助力というかもはや主力、実は文面を考えたのは結局ほとんどお姉さんたちだったんだけど(俺が諦めて恥を捨ててもやっぱり苦戦したからだ)…――、俺はなんとかウワハル宛ての手紙を書き終えることができたのだ。  ……あと、ちなみにトヨタマヒメ様が手紙を書くためにと用意してくれたその和紙――その一面にほのかな虹色の光沢をおびたうすい青緑の和紙――は、さすが海中にある綿津見の国で造られたものともあって、(海神の王のお(・)叱(・)り(・)水(・)によって)濡らされても、その水をはじいて玉の水滴をただ表面にのせているだけだった。つまりそれで文字がにじんだり和紙がしおれて駄目になったりはしなかった。  それで……俺はそんな感じで、なんとか手紙を完成させることができたんだけれども――俺が別のほんのりと青みがかった白い紙に包んだそれを、狩衣の懐(ふところ)にしまい終えた――ちょうどそのとき、 「……ッんぶべ、!?」  また上からザババババ…ッと大量の海水が大滝のように降ってきた――というか海神の王に降らされた――んだけど、…  実はそのときは、ただ降ってきただけではなかった。  というのも海神の王はそのとき、そうして(座布団にあぐらをかいて座っていた)俺の体をすっかり海水の大滝で包みこんだと同時に、その海水の源ともいえる、謁見の間のあの天井の大きな丸い穴へむけて、俺をぐーーっと吸い上げてゆき――そしてそのまま、俺を綿津見の国全体をおおう、あの空的な海中へと――別の言い方をすれば、自分の体の中へと――引きこんだのだ。  ちなみにその海の中は少し不思議な感じだった。  まるでよく晴れた真昼の海も、その水面近くほど明るいというのに――透きとおった海中はどこを見ても明るい水色だというのに――、ところが水面は見えず、それどころか果てしなく遠い遠い上のほうで泳いでいるらしい魚群の、米粒みたいなほど小さい魚影が見えたのだ。  まあその米粒みたいな魚群ばっかりではなく、いろんな魚たちが遠くにも近くにも泳いでいるのが見えたけれども、…つまり俺が取り込まれてすぐのところはかなり深い水深であるらしいのに、深海めいて暗いわけじゃなく、とても明るかったということ。――そして俺はそれが不思議な眺めで、でもすごく綺麗で、ちょっと感動したのだった。  ただ当然引き込まれてすぐの俺には、そんな「綺麗な眺めだなぁ」なんて思うだけの余裕はなかった。  ……だって水中だ、息ができない水中に不意に引き込まれたのだ、…俺はゴポゴポと泡を吐き出しながらほとんど溺れて、両腕両脚を大きくじたばたとさせてあがき、もがいたけれども――にもかかわらず、そうして全力で抵抗してもなお俺の体は激流にのせられて、ただいずこかへ運ばれてゆくだけで…――、  ……なんだけど、…実は俺を海中に引き込んですぐから海神の王は、低く厳(おごそ)かな初老の男性の声でしきりに「落ち着け、落ち着け」とくり返し俺に言っていた。 「落ち着け、落ち着きなさい。溺れはせん。苦しくはないはずだ。」 「……っ、…、…」  俺は「落ち着け」と何度言われてもにわかには信じられなかったけど、…そう言われたとき、はたと気がついた。  たしかに苦しくはなかったのだ。俺は慌てたあまり、肺の中の空気をガポポッと大量に口から出してしまったけど、そのわりに、たしかに溺れた感じに苦しくはなかった――ただ、溺れる…! って危機感のあまり心拍数は爆上がりしていたから、そのせいで胸が痛苦しくはあったけど――。  でも、単純に水中でも息ができている、というわけではなくて、それこそ龍になってエラ呼吸をしているときみたいな感じだ。つまり、水が肺の中に流れこんできてしまっても全然苦しくないどころか、それだから呼吸ができているみたいな――そしてそれは多分、海神の王のおかげだろう――。 「……、…、…」  あれ、ほんとだ…――俺はびっくりして固まった。  すると、そこでやっと明るい海の中、遠い遠い――高い高い――ところで群をなした米粒ほどの魚たちや、もう少し近いところで泳ぐ魚たちのきらめく長細いお腹が目に入り、…ただその魚たちは――俺が海神の王の作りだした速い水流でどこかへ運ばれているために――するするとすれ違うように、俺の足下のほうへ流れてゆくというか、そうしてすぐ俺の視界からは外れていった。けど、すぐにまた新たな魚たちが近くに遠くに、俺の視界に流れ込んでくるのだった。  ……それで海神の王は俺が大人しくなると、やはり王らしい威厳に満ちた声で、 「さて高天原の若き鯱(しゃち)よ。吾(わ)の話を、落ち着いてよく聞くがよい」と俺に改めて話しかけてきた。 「――なんと其(そ)の方(ほう)の令兄は今、大変危険な目に合っている。」 「……?」  んあ……? とでも、俺は流しそうめんみたいにするする運ばれながら、いぶかしげな泡を口からごぽぽ…と吐いた。――あのウワハルが?  俺と同じ軍神の孫、技術だけでいえば俺よりも剣術に長け弓術に長け、あんなにひょろっこくて顔もどことなく女っぽさがあるくせに、そんじょそこらの男神より、それこそ筋骨隆々でも見かけ倒しな男神なんかよりも、よっぽど負け知らずな(戦闘に、ばかりかついでに気もすこぶる)強いあのウワハルが、――今どんな「大変危険な目」に合ってるって? 「がぽぽ…」俺は失笑したのだ。まさか!  でも、 「おい笑い事ではないぞ若き鯱よ! 其の方が思うよりも今、令兄は確かに窮地に立たされている!」すると王はそう俺をたしなめるのだ。 「其の方の令兄すなわち許婚は今この時にも、下賤(げせん)の者に操(みさお)を狙われておるのだ!」 「……、…」  ただ……それを聞いた途端、俺の顔からは薄ら笑いが消えた。  ――たしかに、そういうことなら笑い事じゃ済まないかも……。  というのは――この時の俺はもう情交とは何か、ひいては王のいう「操」とは何たるかを知っていたけど――その一方でウワハルはまだ、それをあまりよくは知らないのだった。  それこそ――ウワハルは性的なことに関してはとかく極端なのだ。この頃はまだ母上の「英才教育」を受けていない、つまりまだ潔癖な「淫らだ魔」にはなっていない、けど、…その代わり必要な程度の警戒心さえもほとんどなかった、純真な上に無知もはなはだしかったのだ。だからこの頃の――兄の知っている性的なことといえば、まず単純に性器、それと裸、女神の胸、あとは誰それの仕草がなまめかしくて素敵だとか、誰かの容姿がなんとなく色っぽくて魅力的だとか、はたまた、恋仲やふうふの誰と誰がふたりっきりで仲睦まじく寄り添いあっていたとか、見つめ合っていたとか、甘い言葉で褒めあっていたとか、――本当に、せいぜいがそれくらいのもので……、  それこそさっき兄は俺に助平だとか何だとか言ってきてはいたが、あれは今挙げたような(恋仲もものすごく純潔な)行為を俺がトヨタマヒメ様としたい――許婚のウワハルを差し置いて彼女と恋仲になりたい――のだと勘違いした兄が、その「浮気な関係性」を(望んでるっぽい俺を)不義理だ、不徳だ、この助平め! と責めるために言ってきたことで、…それも世にいう浮気や不倫をしたひとが、伴侶以外のひとと「何をしたから」そう言われて責められるのかさえ知らないで、みんながすなわち助平だというから、というくらいの認識で言ってること、……つまり、実は兄は「本当に助平なこと」は何一つ知らないのだ(周りの大人が「お花ちゃん」として大事に育てすぎたせいで)。  まあウワハルも人間でいえば十五歳くらいの少年、となるとほとんどのひとはにわかには信じられないかもしれないけど、(残念ながら)本当のことだ。  間違いなく同年代の神のなかでは一番何も知らないし、ある意味でそれに関してだけはいつまでも子どもみたいというか、けがれを知らなさすぎるというか、…  ……ついこの前だって――。  その日俺たちの屋敷の大広間で夕方ごろから催された宴会は、きっとまた明け方まで続いたのだろう――けれども、俺たちはまだお酒を飲むことも許されていないし、夜ふかしだって許されていないから、その楽しい席で晩ごはんを食べてすぐ、それこそ亥(い)の刻(こく)(夜十時ごろ)になる前に、母上に「あなたたちはもうお風呂に入って先にお休みなさい」と言われてしまったので、――大人たちはいいなぁなんて、ちょっと羨むきもちはあったけれども――その賑やかな宴会場からひと足先に失礼して、…  そして、等間隔に床に置かれた行灯(あんどん)の明かりばかりの薄暗い廊下を、肩を並べて進み、浴場にむかっていた。  ちなみにその日は夏の終わり頃ともあって、俺もウワハルも通気性のいい薄い生地の着物に袴(はかま)――俺は黒い着物に真紅の袴、ウワハルは白い着物に青紫の袴――を着ていたんだけれども、…俺はこのときのことを思い出すと、それさえ憎みたいような気持ちになる。  で、そんな俺たちはちょうど厠(かわや)(今でいうトイレ)から宴会場の大広間へ戻ろうというのだろう、ある(人間でいえば)二十五、六歳くらいの、俺たちより頭半個ぶん背の高い――俺たちにしてみたら大人っぽいけど見るからに蛮骨(ばんこつ)そうで、わかりやすい男前ではないけれども、でも人によれば「ちょっと悪そうで強引そうなのがカッコいい」とも見られそうな――剛健(ごうけん)な男神とすれ違った。  ……そう…このひとがまたその見た目通り結構悪い男神で、俺たちはすれ違いざまは会釈だけして、そのまま浴場にむけて歩いていたんだけれども――、 「……、ねねウエ、俺、それでさぁ、実はさっき、みんながタケ爺と建(タケ)御名(ミナ)方(カタ)のおじさんのお相撲に気を取られてるうちに、こっそり少彦名(スクナビコナ)のおじさんの盃からお酒飲んじゃったんだ。」  ウワハルはそう小さな自慢をした俺を見てたしなめようと――かつ、ちょっとずるいぞ、と――眉をひそめた。 「何だって? おい、僕たちはまだお酒は…」 「あはは、でもちょっとだけだよ、ほんの少し舐めただけ。…ていうかそもそもすごく不味くって、そうたくさん飲めるもんじゃないよあんなの。どうしてあんなのを旨い旨いと言うんだろう、大人たちは。」 「……ふぅん…、まあ何だか知らないが、シタ、君いけないんだぞ。ふふふ…」ウワハルは不敵に目を細めて笑った。 「母上に言いつけられたくなかったら、明日のおやつをちょっと僕に分け…ぅあっ?」  と、しかし兄はにわかにビクンッとしながら目を見開いた。  そう…あの酔っ払った(本物の助平な)悪い男神が、わざわざ追いかけてきて、突然背後からガシッとウワハルの両胸を、そのゴツゴツの大きな両手で鷲(わし)掴みにしてきたのだ。そしてそいつはウワハルの耳もとで下卑(げひ)た笑みを浮かべながら、 「何だウエ、やっぱり可愛い顔はしていてもお前、乳はないんだな…?」といやらしく囁いてからかいつつ、ウワハルの真っ平らな胸をもみ、もみと強い力で……。 「っねえちょっと、! やめてください、…」  と、その男神の手首を掴んで引きはがそうとしたのは俺。…ウワハルじゃなく…――なんでって、胸を揉(も)まれている当のウワハルは、 「んっ…い、痛、…ち、乳…? まさか、僕は男神ですから…」  なんて…痛みから顔をしかめてはいても、不思議がっているだけだったのだ――この頃のウワハルはまだ、男神の自分の胸は性的なものだとは思っていなかった――。  するとニヤリとしたその男神は、兄の胸からするすると両手をいやらしいゆっくりな速度で下げ――兄の細い腰を掴んだなり、欲情したようにその鋭い切れ長の目を細める。 「ああ、この細い腰を掴んでめちゃくちゃに揺さぶってやりてえなあ…」 「……え? 揺さぶる…?」 「っおい、な、何てこと言うんだよ、…」  俺は酔っ払いとはいえ度の過ぎた男神のそれに、思わずその男の肩を突き飛ばした。――すると頑強なその体でも、酔いがあるからか多少よろけた男だが、…それでも俺たちを自分の膂力(りょりょく)にはかなわない少年だと侮(あなど)っている男は、余裕のあるニヤけた顔を崩さない。  それどころか――兄の許婚の俺を挑発するように――ウワハルの両肩を掴み、強引にぐるんっと体を返させると、その分厚い胸板をその細身に押しつけ、…そうしてすっかりウワハルを、その太い両腕で抱きすくめてしまったのだ。

ともだちにシェアしよう!