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〔1〕 蘇生失敗-1
「ご主人様、どうかお気を確かに!」
深 浦 誠 治 は、ぼんやりとした意識の中で彼の声を聞いていた。
誰だろう。冷静さを保とうと必死で努力しているけれど、言葉は震えている。
顔を見たいと思ったけれど、視界がはっきりしない。何もかも暗闇に包まれている。
──これは、夢だろうか。
たとえそうだったとしても……悲痛な声の主 を、誠治はどうにか助けてやりたいと思った。
先生、この子を助けてください──そう言って、多くの人が、誠治が営む動物病院にやって来た。犬や猫はもちろん、他院では診療を断られることが多い珍獣──エキゾチックアニマルまで、どんな患畜も受け入れた。
獣医師として、できない約束をすることはなかった。けれど、それでも必ず、誠治は笑顔を浮かべてこう言った。
──僕が、この子のために全力を尽くします。
でも今は、必死で声をかけてきている相手に、そんな言葉をかけてやることもできない。
「ご主人様、駄目です──」
男は言った。
「お願いですから、俺を置いていかないで……!」
胸を引き絞られるような声に、誠治はなんとか答えようとした。
──僕だって、君を助けたいんだ。助けさせてくれ!
そう思っても、何もできない。
そして、誠治は気付いた。これは今、自分の身に起きていることではないのだ。これは別の誰かの記憶で、自分はそれを追体験しているだけなのだ──そう、直感的に理解した。
次の瞬間、誰かの記憶はぐにゃりと歪 み、うねりはじめた。いきなり身体 がガクンと沈み込み、そのまま落下しはじめる。
「うわ!?」
まるで、真夜中にスカイダイビングをしているような感覚だった。真っ暗闇の世界を、ただなすすべもなく落ちてゆく。
「うわぁぁぁぁ……!」
風に煽 られるようにぐるぐると回転している間に、どこからともなく声が聞こえてきた。
「お前は、竜の治療ができるか」
さっき聞こえていたのとは違う、重々しく、威厳に満ちた声だ。雷が落ちる前の轟 きを思わせる。
「え、何?」
声はもう一度尋ねてきた。
「お前は、竜の治療ができるのかと聞いている」
「竜だって……!?」
そんなこと、考えたこともなかった。けれど、空想上の動物だろうが何だろうが、相手が動物で、助けを必要としているなら何だってする。
誠治は、自分がまだ落下し続けていることをほんの一瞬忘れて、考え込んだ。
長い獣医生活の中で犬、猫、兎 にフェレットはもちろん、カエルに金魚、トカゲにカメ、時には蜘蛛 だって治療してきた。
『深浦動物病院は来る者拒まず』──そんな評判が誇りだった。誠治はこれまでそうやって生きてきたし、これからもそうするつもりだった。それが、誠治の生きがいだったのだから。
架空の生き物だからって、尻込みなんてするものか。
「な、治しますとも!」
誠治は断言した。
「竜だろうが何だろうが、僕は全力を尽くして治します!」
天の声は、その答えに満足したようだ。低い唸 りが聞こえたと思ったら、落下は終わり、誠治は何かに激突した。
「ハッ!?」
誠治は衝撃に息を吸い込み、瞼 を開けた。
「な……何だ……?」
ひどく掠 れて、自分の声とは思えない声で、誠治は言った。
信じられないほど身体が重くて、指一本さえ動かせない。目眩 に加えて吐き気もすごいし、身体中、謎の痛みに苛まれている上に、火照って頭が朦朧 としている。
今まで、ひどい悪夢を見ていたらしいけれど、これはどうやら現実だ。でなきゃ、あまりに真に迫った苦痛に説明がつかない。
状況を把握しようと瞬きをすると、靄 のかかった視界が次第に晴れてくる。首筋を軋 ませながら傍らを見た瞬間、外国人らしき男と目が合った。
「あ……」
こちらを心配しているような表情を見るに……これが初対面というわけではないらしい。以前、うちに来院した飼い主の一人だろうか?
だが、こんなに整った顔の男 に……一度会ったら忘れるはずがない。
黒い長髪は肩まで長さがあって、両耳の後ろから、鮮やかな紐 で括られた細い三つ編みが数本ずつ垂れていた。
彫りの深い顔立ちに、浅黒い肌。精悍 という言葉がしっくりくる凜々 しい眉に切れ長の目。砂漠で暮らす遊牧民を思わせる。うっすらと開いた口からは、牙みたいに長く鋭い犬歯が覗 いていた。
さまざまな特徴の中で、最も目をひくのは瞳だ。見たこともないほど美しい、琥 珀 色の虹彩。その瞳孔はアーモンドのような縦長の形……いわゆる、猫目と呼ばれる形状をしていた。人間には決して現れるはずのない形質だ。
驚くと同時に魅了されて、男から目を離せなくなる。
「君は、誰……?」
すると、男がおずおずと口を開いた。
「……ご主人様? 俺です。あなたのラシャです」
──いや、待て待て待て。
誠治は即座に目を閉じた。『先生』と呼ばれることはあっても、『ご主人様』はあり得ない。
瞼にぎゅっと力を込め、目眩と、この妙な状況がどこかへ消え去ってくれるのを待ってから、もう一度、恐る恐る目を開けた。
当然ながら、ラシャと名乗った男はまだそこにいる。
彼が身につけている黒い衣服は、誠治が見たことがないようなものだった。チュニックと着物の中間のような、前合わせがある黒い麻の服だ。腰を締めている幅広のベルトには短刀が挟んであった。
まるで海外の歴史映画か、ファンタジー映画のコスプレみたいだ。立派な体格であることも相まってよく似合っているが、なんでそんな格好をしているのか、考えれば考えるほど混乱は大きくなってゆく。
頭痛をこれ以上悪化させないように、視線だけを動かして周囲の状況を見る。
「ここは……」
頭痛を堪えて、なんとか状況に追いつこうとする。
──僕は、どうしてここに?
必死で思い出そうとするのだが、うまくいかない。
自分が日本人で、獣医師で、〈深浦動物病院〉の院長をしていたことは覚えている。経営が順調で、多くの患畜とその飼い主に頼りにされていたことも、覚えている。チームメイトである動物看護師たちの顔ぶれや、病院で飼育していた動物たちのことも思い出せる。
けれど、こんな場所で目を覚ますことになった経緯は思い出せない。さらに言うと、昨日のこと、先週のこと、先月のこと──と具体的な記憶を遡ることもできなかった。
記憶障害を伴う脳梗塞……嫌な可能性が頭に浮かぶ。
もしかして、仕事中に倒れて、どこかの病院に運ばれたのだろうか?
……いや。どうやら違うらしい。
まず、病院に天蓋付きのベッドなんてあるわけがない。誠治が着ているガウンも刺繍 入りのシルク製だ。患者にこんなものを着せる病院はない。
部屋の中に目を向けると、壁を埋め尽くす勢いで並んでいる棚や、そこに詰め込まれた本や謎の道具が見えた。金属やガラス、鉱石でできた、研究道具のようにも見える。カーテンがひかれた窓の傍には、地球儀と天球儀が合わさったような装置や、大きな望遠鏡が置かれていた。
病院ではないのは確かだけれど、謎は深まるばかりだった。目に入るもの全てが非日常的だ。まるで遊園地のアトラクションの内部か、映画のセットか、そうでなければ別世界のようだ。空気の匂いさえ違う気がする。
「ここ、は……どこですか……?」
誠治は苦労しながらも、なんとか口にした。自分の思い通りにならない身体を、無理やり動かしているような感覚だった。
なんだか、借り物の肉体に入っているみたいだ……と考えておいて、自分でゾッとする。
男──ラシャは、微かに震える声で言った。
「ここは、あなたの屋敷の寝室です。ガイウス様」
誠治は眉を顰 めた。
「ガイウス……って、誰……?」
ラシャの表情が凍り付く。心臓をひと突きされたと言わんばかりの表情だった。
「まさか、記憶を失われたのですか」
ラシャは縋 るような声で尋ねてくる。
「ち、違う、そうじゃない……」
記憶はある。少なくとも、自分が何者かは覚えている。
そのはずなのに、誠治の中で、怖ろしい違和感が存在感を増してゆく。
別人の名で自分を呼ぶ見知らぬ男。見たこともない景色。借り物のように、思い通りにならない身体。
「ちょっと待てよ──」
まさかと思いつつ、誠治は自分の手を持ち上げて、見つめた。それから左腕の袖をまくって、そこにあるはずの傷を探した。これが自分の身体なら、名誉の勲章──患畜の治療中に負った無数の噛 み傷や引っ掻 き傷が残っているはずだった。
「ない……」
何もなかった。どれだけ腕まくりしても、そこには傷一つない滑らかな肌があるだけだ。
その時ようやく、誠治は眼鏡をかけていないことに気付いた。眼鏡無しでは足元さえ見えないほどのド近眼だったのに、今はくっきり周囲が見えている。
──そんな馬鹿な。そんなはずはない。そんなはずは……。
「あの、か、鏡。鏡をください」
鏡をとりに行ったラシャはすぐさま戻ってきた。ベッドの傍に座り、恐る恐る手鏡を差し出してくる。誠治はそれを受け取り、覗き込んだ。
鏡の中から、全くの他人がこちらを見返していた。
「嘘 だろ……」
これは……骨格も顔立ちも、自分のものとはまるで違う。三十五年間生きてきた深浦誠治という人間の面影が、どこにもない。日本人の顔ですらない。
自慢ではないけれど、人相は良い方だった。獣医師にとって、患畜の飼い主と打ち解けやすい外見や雰囲気を備えていることは、ある種の才能と言ってもいい。
誠治は美形ではなかったけれど、目尻の笑いじわや穏やかな目元──「いい人そう」な第一印象には自負を持っていたのだ。
ところが、目の前にある顔はどうだろう。
白い肌。青い目。金の髪。瞬きするたびにバサバサと音が鳴りそうな濃い睫毛 まで金色だ。
唇は薄めで、笑うことを忘れてしまったかのように素っ気ない。表情筋が乏しいのかもしれない。これほど驚愕 しているにもかかわらず、わずかに強ばった表情が浮かんでいる程度だった。
モデルみたいに整った顔を見れば、怜 悧 という言葉が脳裏を過る。怖ろしく美形だが、温かみを感じる人相ではない。
「嘘だろ」
指先で頬 をつねり、顔を顰 め、口を開けたり閉じたりしてみる。が、全てその通りに映し出された。
「これって……」
結論が浮かびかけたけれど、考えをまとめる余裕はなかった。さっきまで優しい顔をしていた男が、急に誠治の肩を掴 んできたからだ。
「お前!」
「痛っ! 何を──」
誠治の言葉を遮って、彼は唸るように言った。
「お前は、何者だ!」
誠治は呆然 としながらラシャの顔を見返した。そこに痛々しいほどの切実さが現れていたとしても、気にかける余裕はなかった。
「あ、え……僕は、深浦誠治……です」
ラシャは、穢 らわしいものに触れたとでも言うようにぱっと手を放し、誠治には聞き取れない言語で悪態らしき言葉を吐き捨てた。
彼は立ち上がると、「おい、秘術師!」と怒鳴りながら足音荒く部屋を出て行った。それから、見知らぬ男の胸ぐらを乱暴に掴んで、半ば引きずるようにベッド脇に戻ってくる。
「おいおいおい、何すんだよ!」
そう文句を言った男は、ラシャの服とは雰囲気の違う、ゆったりとした服を着ていた。指輪に腕輪、ピアスにネックレスをこれでもかと身につけ、クルクルとした巻き毛をド派手な絹のターバンでまとめている。はっきり言って、胡 散 臭い見た目をしていた。
「これを見ろ、バシル!」
怖ろしい剣幕のラシャに言われるがまま、バシルと呼ばれた男はしげしげと誠治を見る。そして、不満げに言った。
「何が気に入らないんだよ。あんたのご主人様はちゃんと生き返ってる。大成功だ!」
すると、ラシャはバシルの頭をがしっと掴んで、誠治の方に顔を向けさせた。
「別人だ、この馬鹿者!」
ラシャは牙の生えた歯を剥 き出しにして、バシルに詰め寄った。
「ガイウス様のお身体に、お前は別人の魂を呼び戻したんだ!」
「……は?」
一瞬、呆気にとられる。この男は何を言っているんだと思うと同時に、もの凄く腑 に落ちる。
──身体に魂を呼び戻す? 別人って……僕のことか?
この状況に、ようやく納得がいった。と同時に、脳の処理能力が限界を迎えた。
これ以上は、とてもじゃないけれど耐えられなかった。
誠治は気を失い、全てが闇の中に消えた。
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