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第1話 猫、途方に暮れる
「ヤバい……。ヤバ過ぎる」
まん丸な月が煌々と輝く満月の夜。国立魔術研究所の独身寮もほとんどの窓の明かりが消えているほどのド深夜。
僕は、自室の鏡の前でひとり、途方にくれていた。
鏡の中には立派な毛並みだというのに耳もヒゲも尻尾も力なく垂れて、可哀想なくらいしょんぼりとした長毛の猫が映っていた。
僕だ。
とある事情で古の魔術を調べに調べ、やっと目当ての変化の術を探し当て猫になったはいいものの、戻す呪文は載っていなかった。浮かれて解除の方法を確認する前に魔術を使ってしまった、信じられないほど初歩的なミスだ。
必死でページをめくろうとするが、モフモフにゃんこの手ではそれすらも困難だ。
ウロウロと部屋を歩き回ってすでに半日が過ぎているが、元に戻る気配すらない。完全に詰んだ。
腹も減ったしもうトイレに行きたくて仕方ない。トイレや風呂の扉は開けられず、そこら辺や外でするのは人としての何かを失ってしまいそうで怖い。
またしばらく部屋の中を行き来して、僕はついに決意した。
トルスに助けを乞うしかない。
そもそも猫になろうと思ったのだって、無愛想で挨拶すらろくに返さないと評判のアイツが、野良猫に餌をやっているところを見てしまったからだ。気にかけて見ていたら、なんとアイツは猫好きらしく、猫を見かけるたびに相好を崩して撫でたり餌を与えたりしていた。
普段の鉄面皮からは想像できない。僕にはあんな顔見せない。今のところアイツの中では猫の圧勝だ。
僕にはいつだって塩対応なのに、猫にはあんなに優しいんだったら、ちょっと猫になって甘えてみたっていいんじゃないかと思ったんだ。変化の魔術とか面白そうだし、研究対象としても申し分ない。
研究は、趣味と実益を兼ねて行うのがもっとも効率よく成果が出やすい、なんてもっともらしい事を言いながら、ノリノリで研究した結果がコレだ。
恥ずかしくて情けないが、こうなってしまってはトルスになんとかして貰うしかない。
今の僕は猫だ。
トルスも悪いようにはしないだろう。
トルスは僕に並ぶくらいの魔術オタクだ。深夜といえどこれくらいの時間ならまだ起きている可能性が高い。僕は寮の廊下をひた走る。体が軽く、足音が立たないのは便利だ。
トルスの部屋の前まで来たものの、立ち上がってもドアノブに何とか手が届く程度で、にゃんこの手では開かなかった。カシャカシャと何度かドアノブを引っ掻いてから諦めた僕は、仕方なく扉の前でひっそりとトルスを呼ぶ。
変わったのは姿だけで、人語を話せることが救いだった。
「トルス、トルス、開けてくれ」
たしたしと扉を叩いてみたが、人の姿の時ほど大きな音が立たない。このぷにぷにの肉球がいけないのだろうか。めっちゃトイレいきたい。早く気づいて欲しくて、一生懸命にトルスを呼ぶ。
まさか寝てるんじゃないだろうな。
「トルス、頼む。僕だ。ローグだ、開けてくれ」
「鍵は開いている。自分で入れ」
無用心だな。今度夜這いにこよう。そんな出来もしない事を考えつつ、僕は声をひそめて懇願する。
「今は開けられないんだ。すまないが、開けて欲しい」
「仕方ないな、いいところなのに……」
さすが魔術の開発に於いては三本の指に入ると言われるトルス。やっぱり絶賛研究中だったようだ。
キィ、と扉が開いてヌッと大きな体が半身を現す。短いクシャッとした黒髪をかきあげて、面倒そうに出てきたトルスは、「あれ?」と呟いて廊下を見渡す。その隙に、追い出されないように足元をするんとすり抜けて部屋に入り込んだ。
「トルス、こっちだ」
部屋の中から声をかけたら、トルスは驚愕した顔で勢いよく振り返り、そしてやっぱり「?」な顔をする。僕の顔があるであろう辺りばかり見るから死角になっているんだろう。しっぽをファサッと振ってやったらやっと足元に目を向けてくれた。
「おわっ!? 猫!? でかっ」
率直な意見ありがとう。確かに僕も、猫としてはかなりデカいと思ってる。試しに後ろ脚で立ち上がってタシッとトルスにのしかかってみたら、太腿の上の方まで前脚が届いた。危うくトルスの大切なところに触ってしまうところだ。
「え、カワイイ……触ってもいいのか……?」
恐る恐る触ってこようとするトルス。
さてはお前、猫を前にして僕の事すっかり忘れてないか?
「後で触ってもいいし詳しく事情も話すから、とりあえずトイレを貸してくれないか?」
「ひえっ、しゃべった……って、ん? あれ? その声」
「こんな姿でアレだが、僕がローグだ。ごめん、本当に限界なんだ。トイレのドアを開けてくれ」
呆けようとするトルスの太腿をたしたしたしたしっと連打して正気に戻す。とりあえずはこの生理現象をなんとかしないと落ち着いて話すなんて無理だ。
わけも分からず言われるままにトイレのドアを開けたトルス。どうしたらいいのか分からずにそのままそこに立ってるから、僕はしっぽを振って追い払う。
「見た目は猫でも中身は僕だから。恥ずかしいから向こうに行っててくれ」
いきなり訪ねて来てトイレを貸せだの向こうに行ってろだの勝手な話で申し訳ない。でも人間の尊厳がかかってるんだ。許して欲しい。
スッキリしてやっと気持ちが落ち着いた僕は、自分の部屋なのに所在なさげに座っているトルスに、事情を話すことにした。
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