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〔2〕 猫神様
〈シオン! シオン、しっかりしろ!〉
いつもの苦しみ方とは明らかに違う詩音の様子に、ミクは必死で呼びかけた。けれどベッドの上で悶 え苦しむ詩音は、低い唸りのような嬌声 を漏らしながら頭を掻きむしっている。
「う……ぁああ! ミク、ミク、は……っ、あ……どこ……!」
〈俺はここにいる、いるよ!〉
「ミク……! ミクぅ……ミク……ッ……!」
〈シオンッ!!〉
ミクが何度大声を張り上げても、詩音は涙で濡れた顔をぐちゃぐちゃにして〝ミク〟を求めている。荒い呼吸を繰り返し、そのたびに何かに抗うように頭を抱えて叫ぶ詩音は助けを待っているようだった。
〈どうしたんだ、ミク〉
外廊下から、古賀峰が飼っている三本脚の黒猫──ゴマの声が聞こえた。どうやら夜中の散歩中だったらしい。
ミクは詩音から離れる事をためらったが、玄関まで走り廊下に面したキッチンの窓越しに訴える。
〈シオンがいつもより、すごく苦しそうなんだ! 俺の声も聞こえないみたいで……!〉
そう伝えると、部屋の中で詩音の呻き声が響いた。その苦悶を聞いたゴマも、ただごとではない、と察してくれたようだ。
〈どうしよう、ゴマ!〉
〈えっと……病院っ……病院は!?〉
〈ダメだよ、シオンは動けないし俺も動かせないっ〉
泣きそうになりながら叫ぶミクだったが、頭は意外と冷静だった。外のゴマに、そうだ、と提案する。
〈大家さんは!?〉
〈それが……うちのご主人、一度寝ると絶対に起きないんだよ……〉
〈何だよそれ……!〉
思わず悪態をつきたくなるのを堪え、もう何も策はないのか、と考える。
詩音は意思疎通ができない。自分は彼を動かす事ができない。
頼ろうとした古賀峰は寝ているらしい。
その他の策? 全く思いつかない!
「ミク……ッ……!」
焦るミクの耳に、詩音の泣き声が届く。
その切なげな響きに、できる事なんてない、と諦めたら詩音が……。
〈そうだ!〉
ゴマが外で大きな声を上げた。
〈ミク、猫集会に行ってみよう!〉
〈猫集会……?〉
猫集会の事は、ゴマ以外の猫からも聞いていた。
そこには何でも願いを叶えてくれる猫神様がいる、と。
ミクは正直半信半疑だったのだが、ゴマは真剣だ。
〈猫神様に、どうしたらいいか聞いてみるんだ!〉
〈でも……シオンを一人にするのは……〉
ためらうミクに、ゴマが冷静な声で言う。
〈もうわかったじゃないか、猫の俺たちには何もできないって〉
その言葉は、ミクの胸にグサッと刺さった。
猫でいる以上、自分は詩音を助ける事ができない。それを現実として突きつけられたミクは、ゴマと共に猫集会へ行く事を決める。
しかし、一番大事なことを忘れていた。
〈ここから出られない!〉
すると、ゴマが〈大丈夫〉と言う。
〈そこ、鍵も窓も緩いんだよ。頑張れば出られる!〉
ゴマの言葉に、窓に肉球を張り付けてみる。すると、確かに自分の手でも動くかもしれない、という感触があった。ミクは引き下ろすように窓の鍵を器用に開けると、再び窓に肉球を添える。
左側の窓を全力で引っ張ってみたら、ガラッとあっさり開いた。窓の外にある柵は頭が通ったのですり抜ける事ができた。とんっと地面に下りると、外にはゴマがいた。
〈行こう!〉
二匹そろって、アパートの階段を駆け下りる。
〈いいか、道順を覚えるんだ。道順を間違えたら集会には辿り着けないし、家にも戻ってこられない!〉
〈わ、わかった!〉
家にも戻れない、となったら詩音のために走っている意味がない。幸いゴマが走るスピードは三本脚ゆえに少し遅いため、道を覚えるのにさほど苦労はしなかった。
しかし、複雑な道順だ。
家の隙間や塀の上を行けば最短ルートなのに、わざわざ人間の道通りに左折を繰り返して遠回りの道を通らねばならない。ゴマが言うには、帰る時はこの逆順の道を通らないと又旅ハイムには帰れないらしい。
二分ほど走った頃、急に開けた場所に出る。
詩音がいない間に自分も又旅ハイム周辺を散歩するが、こんなところに広場なんてあっただろうか。
そう不思議に思うのに、目の前には大きな一軒家が建つくらいのスペースが現実としてある。
しかも、その円形状の広場には多くの猫が集まっていた。数十匹では足りないかもしれない猫が輪を作り、その中心に座る青年を取り囲んでいる。
白い狩衣のような装束をまとった青年は、銀糸の長い髪を地面に広げてあぐらを組んで座っていた。彼は青い瞳で目の前に座る白猫を見つめ、何事かを話している。
本来ならその場を乱すような事はしてはいけなかったのだろうが、焦っていたミクは猫の輪を掻き分けて中央に飛び出した。
〈おいミク! まずいって!〉
遅れて横に来たゴマが、ミクを引き戻すように青年との間に入る。だが、その制止を振り切って青年に大声で呼びかけた。
〈あんたが猫神様か!?〉
ざわっと猫たちが騒々しくなる。それは緊張感に満ちたどよめきで、何て罰当たりな、という声も方々から聞こえてきた。
しかし、青年は冷静な瞳でミクを見つめ、穏やかに呟いた。
「君は……初めましてだね」
〈そ、そうだよ〉
神気とも呼ぶべき青年の雰囲気に、後ずさりたくなるのを必死で堪える。ミクは震えている脚で彼の前に進み出ると、気圧されそうになりながら改めて彼の姿を眺めた。
この青年が〝猫神様〟なのだろう。
銀髪の隙間からはミクたちと同様の白い耳がピンッと伸びており、よく見れば二股の長いしっぽがゆらゆらと揺れていた。
広がる動揺を鎮めるように、猫神が狩衣の袖を翻して柔らかく腕を振る。
しゃりん……──
清らかな鈴の音が響く。
猫神の姿に見惚れるように固まっていたミクは、その音で正気に戻った。
ぼんやりする頭を振って、改めて猫神に向き直る。
「確かに私は、ここで猫神と呼ばれているよ」
〈なら話は早い! 頼みがあるんだ!〉
すると、猫神は青い瞳をスッと細めた。その瞬間、ビクッと体が凍り付くような感覚がした。
(負けちゃダメだ!)
ミクは、その強張りを体を震わせる事ではねのけた。
猫神が、ほう、と楽しげな表情を浮かべる。
「──わかった。話を聞こう」
そう頷き、先に話していた白猫に「今夜はすまないね」と謝る。
猫神が狩衣の袂 を広げると、しゃらんっと音がした。改めて目を合わせてきた猫神は、ミクの頭の中を見透かすように見つめてくる。
沈黙に耐えきれず、ミクが先に口を開いた。
〈俺はミク。猫神様、俺の話を聞いてくれ〉
「そう慌てるものじゃない。まずは君の事を……」
〈そんな暇はない、俺の事はどうでもいいんだ! シオンを助けないと!〉
「……シオン、というのは君にとってどういう存在なんだい?」
静かに問われ、ミクは少しずつ落ち着きを取り戻してきた。はぁ、ふぅ、と深呼吸をしてから、自分の恩人である詩音について話し始める。
〈シオンは……箱の中に閉じ込められて捨てられていた俺を助けてくれたんだ。最初は全然、ほんと全然好きじゃなかった……だって、俺と母さんを引き離したのもヒトだったから。すごく怖かった。だから暴れて、爪痕だって何度も付けてやったよ〉
「それはひどいね」
くすりと笑う猫神に、うん、と頷く。
〈俺はひどい事した。なのに、シオンはいつも笑ってごはんをくれて……一緒に寝てくれた。それが温かくてホッとして……だから、今は俺……〉
「……今は?」
〈シオンが大好きなんだ〉
そう誰かに言い切るのは初めてで、妙な熱で体がくすぐったくなった。しかし、そんな感覚に惑わされている場合ではない。
ミクは猫神の前で佇 まいを直すと、改めて口を開いた。
〈シオンがいなかったら、俺は死んでいたと思う。そのシオンが、今ものすごく苦しんでる。なのに俺は、猫だから……何もできないのが悔しい!〉
「本当に、猫だから何もできないと思っているの?」
淡々と問われ、一瞬だけ言葉に詰まる。確かに、猫だから、というのは言い訳なのかもしれない。
けれど、自分は実際にできない事が多すぎる。
自分を奮い立たせて、猫神の静かな迫力に負けないよう強く続けた。
〈この体じゃ、シオンを病院に連れて行く事もできないんだ。ごはんも作れない、一生懸命にゃあにゃあ鳴いて慰めてもシオンは泣きやまない!〉
「猫には猫の役割があると思うけど?」
猫神が静かに言うのを遮るように、ミクは言葉をかぶせた。
〈俺がシオンと同じヒトだったら、シオンを病院に連れて行ける。シオンがしてくれたみたいに、俺が助けられるんだよ!〉
必死に訴えるミクに、猫神は口を閉じた。そして、またこちらの本音を探るようにまばたきもせずに見つめてくる。
猫神の「では」という言葉が、凜 と広場に響いた。
「君は私に何を願う?」
体が凍り付きかねない神気が、再びミクにまとわりつく。ぞわぞわとした蟻 走 感 を振り払うように体を震わせたミクは、大きく叫んだ。
〈俺を、シオンと同じヒトにしてほしい!!〉
ひっ、という悲鳴が猫の輪の一部から漏れる。自分が言った願いがどれだけ非常識なのか、そんな事はどうでもいい。
ただ詩音を支えるには、自分も同じヒトにならなければならない。猫のままでは、詩音に潰されてしまうだけだ。
「ヒトに……」
猫神が思案するように黙り込む。その様子を見て、まさか本当に無茶な頼み事なのか不安になる。
しかし、猫集会を知っている猫たちは口を揃 え言っていた。
《私たちの願いを何だって叶えてくれる》
その言葉を信じて猫集会にやってきたのに、それが無碍 にされるのは納得ができない。ミクは猫神に詰め寄ると、苛立ち混じりで訪ねた。
〈できないのか? 俺をヒトにする事はできないのか!?〉
「できる。私は猫たちの願いを叶える事が絶対だからね」
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試し読みはここまでになります。
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