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〔1〕 捨てられた一人と一匹-3
詩音はオメガ専門の高等学校で、歴史の教科教諭として勤めている。
大学を卒業してからなので、同じ高校でもう四年が経とうとしていた。
体調が安定していた時は、一年生から三年生までの歴史の授業をほとんど担っていた。今は非常勤なので全授業の半分も担当できていない。
その代わり、詩音が生徒に伝えたくて定期的に行っている授業がある。
主なテーマは『番を解消されたオメガが陥る状態、またその対処法』だ。
全人類の少数派であるオメガの中でも、番を解消された事のある者と出会う機会は滅多にない。それをわざわざ口にする必要はないからだ。
そのため、専門書でも番解消状態のオメガがどうなってしまうのか。詳しく書かれている物は少なく、一般的にはあまり知られていない。あるのはネットやSNS上に散在している体験談くらいで、それも個人の差が大きい。
つまり詩音は自分の現状を話す事で、オメガであるハンデをどう克服すべきかを生徒たちに考えてもらう授業を行っているのだ。自らの傷に塩を塗り込むような行為ではあったが、オメガ専門校にいるからこそできる事でもある。
まだまだ生徒の鋭い質問に戸惑う事も多いが、詩音としてはこの授業を行う意義はあると思っていた。
しかし、この授業を行った日と翌日は、詩音の体調が悪化する。
「はぁ……」
詩音は授業が終わった後、込み上げてくる吐き気を堪えながら職員室近くのトイレに入った。けほっと嘔 吐 の前兆があり、詩音は持っていた教科書などを洗面台に置くとしばらくえずいた後で胃の中身を吐き出した。
しかし、朝に食べたのはグラノーラとヨーグルト程度。あとは胃液が出てくるばかりで、腹の奥が痛くなるだけだった。それでも胃を空っぽにしてしまうと、少し落ち着いた。
蛇口をひねって汚物を洗い流し、持っていたハンカチで口元を拭う。
(水か何か、おなかに入れなきゃ……)
そう思って、少し離れた所にある自動販売機でスポーツドリンクを買う。
それをちびちび飲みつつ、今日は四限目が終わったら帰ろう、と決めた。
幸い二限目は空いているので、職員室にある非常勤教諭の机で束の間の休息を取る。
ただ、その残りの授業枠でもオメガ性について語るので、考えるとまた吐き気が襲いかかってくる。追加で飲んだ薬が効くのを願いながら、詩音は人の少なくなった職員室で授業で困った質問の資料を作り始めた。
その後で三限目、四限目を無難にこなした詩音は、少しくらくらしつつも午後一過ぎには添削などの作業を終え学校を後にする。
まっすぐ帰りたかったが、そろそろミクの餌を追加しないといけない。自分の食事などは何とでもなる。けれど、詩音があげないと餌にありつけないミクの事を思うと買い物は済ませなければ。
まだ明るい午後三時前、やっとの思いで又旅ハイムに帰ってきた詩音をねぎらうように庭でミクが鳴いた。
「んにゃーん」
古賀峰宅の方に目をやっても、そこに彼自身はいない。ただ、猫たちが日なたぼっこをしているので、ミクもその輪にいたのだろう。
ミクは早速にゃおにゃおと詩音の足下にすりよってきた。
しっぽを脚に絡ませ、にゃー、と鳴き続ける。
どうやら足音で詩音が帰ってくるのがわかるらしく、ミクは飼い始めて三カ月でこうして出迎えてくれるようになった。
「ミクー……っ」
ミクを強く抱き締めると、彼は詩音が弱っているのを理解しているかのように静かにしていてくれる。ミクを抱き締めたまま部屋に戻り、そのまま崩れ落ちるように座り込んだ。
「にゃー……」
「ミク……ちょっと休憩……」
心配そうなミクのおなかに顔を埋めて深呼吸を繰り返すと、お日様と若い草のような香りがした。
オメガ性についての授業をすると、トラウマが刺激されるせいなのか。
詩音はかなりの確率で体調を崩してしまう。できる限り学校に迷惑がかからないよう頻度や日にちを考えているが、不調が定期的ではない事もありなかなか上手くいかない。
今回は週末だったため、学校も休みなのが幸いだ。
土曜日の朝、調子が悪く重い体を引きずってミクにごはんをあげた後の記憶がない。
気が付けば部屋は薄暗く、夕方になっていた。
ずっと寝ていたらしい。
大きくため息を漏らして、詩音は浮かんだ涙を止めるように両手で顔を覆う。
体がつらいと、心も引きずられる。
どうして自分がこんな目に遭わなければいけないのだろう。
確かに、自分の不妊が原因の番解消ではあった。どうしても子どもを作らなければならない、元番の事情も頭ではわかっている。
けれど、やはり捨てられたのだとしか思えなかった。家の事情も何もかもを投げ打って詩音を選ぶほどの愛情が、向こうにはなかったのだ。
相手の家柄を思えば、高望みだったのかもしれない。
それでも詩音は、詩音だけは本当の愛を誓っていたのに。
「ミク……つらいよ、助けて……」
涙を堪えながら呟くと、寝そべっていた猫のミクが側で顔を上げた。
「んなん?」
「……あぁ、ごめんねミク。お前の事を言ったんじゃないよ」
「なぁあ」
ミクはいつもより控えめに鳴いていて、それは詩音を心配しているような声音だった。しかしベッドからは離れず、起き上がる事さえできない詩音の頬に顔を擦り付けてくる。
みゃあみゃあ、と鳴き続けているミクに「心配してくれてるの……?」と掠れ声で尋ねる。
ミクを布団の中に誘導すると、するりと入ってきた。
「んにゃん」
満足げな声を出し、詩音の腕にすっぽりと収まるミク。
こうなると抱いている側は動く事ができなくなるのだが、猫の高めの体温を感じて撫でていると落ち着くのは事実だ。
特に胸が潰れるような息苦しさが楽になる気がして、猫の不思議な魅力に感心してしまう。
アニマルセラピーという言葉があるくらい、動物は人にとって重要なパートナーだ。存在するだけで癒やしをもたらす動物たち。
詩音にとってはミクがそうだが、側にいてくれると本当に落ち着く。
「ミク……ごめんね、遊んであげられなくて……」
「みゃー……」
「でも、ミクがいると……息が吸える感じがする……」
うつらうつらしながら呟いていると、ミクが腕から抜けて腹の辺りで体を丸める。その体温で余計に熱が上がる感覚はするが、体を仰向けにする事ができたのは助かった。
布団の中でミクを撫で続けていた詩音は、不意にぞわっとした寒気に襲われた。さらに発熱する前兆かとも思ったが、そうではない。
(発情……!)
詩音の場合、今は体調の変化で発情期が左右されるらしい。特に番を解消されてからは周期も乱れており、発情抑制剤が効かない事も増えた。
本来は三、四カ月に一度来るサイクルで今まで過ごしていたのだが、現状ではいつやってくるかわからないほど頻繁に来ている。
抑制剤への耐性もできているので、使う薬もどんどん効果が強い物になっていた。当然副作用も強く、眠気、嘔 気 、脱力感などに日々耐えなければいけない。
「はぁ……っ、はぁ……う……薬……」
詩音は息を乱しながら、枕元に置いてある薬箱に手を伸ばした。
朦朧 とする意識の中で目的の薬を探すが、目眩 もありなかなか見つけられない。その間にも、じりじりと体の奥底で欲望は燻 り続ける。
「にゃあ、なあん!」
ミクが鳴いている。
飼い主の危機を察知しているのかもしれないが、今はその声に応える余裕もない。
「っ、はぁ……あ……」
このまま死んでしまうのでは、と思うほどの動悸 。弾む呼気を繰り返し、やっとの事で頓服の発情抑制剤を手にする。パッケージから錠剤を出して口に含むが、飲み込む前に渇望の波にさらわれた。
「けほっ……」
息が詰まり、錠剤が唾液と共に唇から吐き出される。
「にゃぁあー!」
意識を失いかけている自分に、ミクが叫ぶように鳴いた。
その声はかろうじて聞こえたものの、詩音を現実に引き戻すほどの力はなかった。ぷつりと命綱が切れるような感覚がして、真っ暗闇に落ちる。
「にゃ! んなー!」
薄れていく意識の中で、ミクが何度も繰り返し鳴いていた。
ただ欲情に支配されていく体の苦しみが強く、その叫びに応えられない。
詩音は愛欲で埋め尽くされる頭を抱え、苦 悶 の悲鳴を部屋に響かせた。
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