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〔1〕 捨てられた一人と一匹-2
詩音の部屋に戻った子猫は、温められて鳴き声が増えてきていた。
しかし、立ち上がって体勢を保つ力はないようで自力でミルクは飲めない。
それでも今は、箱の中でカイロに温められながら穏やかに眠っている。息をしているのか心配になるくらい静かだ。
しかし触れたら壊れてしまいそうな子猫をタオルごと持ち上げると、子猫は小さな手足をバタバタと動かし体を捻った。
どうやら詩音から逃げようとしているようだ。
「大丈夫だよー」
優しく言い聞かせながら、温めたミルクをガーゼに染みこませる。それを子猫の口元に添えると、滲 んできた液体をぴちゃぴちゃと舐 め始めた。
ホッとしたところで、子猫はまたジタバタする。
仕方なく箱に戻してあげて、ふぅ……と一息。あまり明るいと落ち着かないかと思い、箱を半分だけバスタオルで覆う。
いつの間にか、詩音は自分の肌が汗ばんでいる事に気が付いた。緊張の汗もあるが、子猫のためにエアコンも使っていないからだ。
五月ともなると、蒸し暑い日も増えてくる。
今日が不幸にもそんな日だったのでシャワーを浴びたいと思うものの、その間で子猫に何かあったら怖い。
詩音は古賀峰に言われた「責任」という言葉を思い出した。
それはつまり、この子が虹の橋を渡るまで、という意味だろう。
確かに衝動的に拾ってきてしまった事は否めない。
ただ、執拗 に封をされた箱に閉じ込められていた子猫を、詩音は見捨てられなかった。
それが無責任なのだ、と責められればそうなのだろう。
また、そうした理由が毛色が元番と同じだった事も関係しているなんて、自分でもどうかと思う。
ただ詩音自身の未練がきっかけとはいえ、子猫と自分の縁は結ばれた。
その縁を、途切れさせる気はない。
「だとしたら、名前……付けた方がいいよね」
詩音がバスタオルの隙間からダンボールを覗き込むと、サッと入り込んだ部屋の明かりで子猫が照らされた。
一瞬、そのミルクティー色の体毛が薄い金色に見える。
胸がズキリと痛み、詩音は「ミク」と呟いていた。
それは、元番の愛称だ。
こんなに未練が残るほど、自分は彼を愛していたのだと痛感する。出会って付き合い始めてから、数え切れないくらいケンカをした。別れてやる、と思った事も何度あったか覚えていない。
けれど、詩音を抱き締めてくれる腕は優しくて、見つめる瞳も温かかった。家事はしないけど、記念日などは細かに覚えていた元番。誕生日やクリスマスには、欠かさず花などを贈ってくれた。そんな事でほだされるのも悪くはなかった。
だから彼の番になりたいと願って……夢は叶 ったように思えた。
自分の体質に問題があるとわかるまでは。
「……ミク……っ、ぅ……ふ……う、うぅ……」
ボロボロと涙が零れ、子猫の横に滴った。先ほどまで雨に打たれていたせいだろう。小さな体をビクッと跳ねさせた子猫に、ごめんね、と謝っても涙は止まらない。
喉を引きつらせながら泣いている詩音を、子猫はジッと見上げている。また濡らされては困る、とでも言っているような視線。
怖がらせるかも、噛 まれるかも。
そうは思ってもミルクティー色の毛に触れてみたくて、恐る恐る指を伸ばす。詩音の震える指先が、ちょん、と子猫の額に届いた。
(さわらせてくれた……)
柔らかくふわふわとした触感は、元番の髪とは全く違う。驚いたのは、子猫が逃げなかった事だ。
額に触れられて不満げにはしているのに、威嚇も逃亡もしない。
ただ泣き続ける詩音を睨 みつけている。
「……ミクって、呼んでもいい?」
尋ねてみると、子猫が額で指を押し返してきた。そのまま首を傾げ頭を擦り付けてくる子猫は、その許可をくれたかのようだった。
「ミク……」
本当なら違う名前を付けてあげるべきだとわかっていたし、この子を自分の未練に巻き込むのも間違っている。そのために助けられた命ではないのだから。
「……ミク、ミク……」
未練がましい自分の呼びかけに、
「にー……」
子猫は明らかに低い鳴き声を漏らした。
それでも詩音の指から離れない様に、ありがとう、という言葉が唇から零れた。子猫は、仕方ないな、という呆 れ顔で詩音から離れると、またタオルの上で体を丸める。
「ミク」
当たり前だが、呼んでも返事はない。
人間のエゴで捨てられ、拾われた子猫はどこまで事態を理解しているのだろう。ぱたんぱたん、とタオルが敷かれた箱を叩 いている尻尾は不満げだが、詩音にとっては癒やしの音だった。
翌朝。
連れて行った動物病院で大いに暴れたミクは、獣医から「絶対大丈夫」とのお墨付きをもらった。
何度か病院には連れて行ったが、その度にミクは獣医と詩音の腕を傷だらけにした。ただ血液検査の結果、猫風邪以外の大きな病気は持っておらず古賀峰の事も安心させた。
ミクは小さな体で懸命に貪欲に生き続け、気付けば一年が過ぎていた。
・ § ・
「にゃぅあー、にゃあー」
早朝、ミクが鳴き始める。
動物の体内時計は実に正確で、ミクの声が聞こえたら大体五時過ぎだ。
ごはんの時間である。
「ミク……ちょっと待って……」
うっかり閉じようとしてしまう目を懸命に開きながら、詩音は部屋のカーテンを開けた。
足下をうろつくミクを伴って彼の餌が入っている棚の前に座り込む。するとミクはそこにごはんがある事をわかった様子で、棚の中を覗いている。
「昨日は何あげたっけー」
「んーにゃ」
ミクはグルメだ。
グルメ過ぎて餌を食べない事もあるので、最初はそれが食欲不振かと思い病院に駆け込んでいた。しばらくして、ただのワガママだとわかり拍子抜けしたものだ。
「ミク、今日はどれにする? まぐろ、ささみ、かつお……」
「にゃ!」
詩音が選んでいると、かつおの餌缶を持ったところで大きく鳴かれた。今日はどうやら、かつおの気分らしい。
台所に立って準備をしている間も、ミクはしっぽを立てて詩音の周りをうろうろとしている。それはごはんを待っているのか、それとも詩音に甘えているのか。少しわかりづらい。
「はいはい、ミク、ごはーん」
「にゃーぁ」
たたっと、ミクが餌場である窓辺に走って行く。明らかにワクワクした顔で、詩音が餌皿を持って来るのを待っているのが可愛らしい。
太陽光の中で透け、ミルクティー色の体毛がキラキラと輝いて見える。
フードが入った皿をミクの目の前に置くと、うにゃうにゃとうなり声を上げながら食べ始める彼に思わず笑ってしまう。
「今日も食欲旺盛で何よりです」
微笑んでミクの頭を撫でてから、自分の用意を始める。
とはいえ、あまり食欲がない。
朝食は適当にグラノーラとヨーグルトで済ませて、毎日必須の薬を飲む。
メインは発情抑制剤とホルモン剤で、あとは対処療法のものが多い。
番を解消されて一年が過ぎようとしているが、体調の悪さは一向に治らない。知識として、バイオリズムやホルモンバランスが崩れて心身ともに苦しむとは聞いていた。
それは番っていた相手への想いの強さに比例するものなのか。
詩音はいまだに仕事に行けない日が多く、今は非常勤職員の立場だ。
幸い勤務先がオメガ専門の高等学校なので一定の理解は得られているが、それでも肩身の狭い思いは消えない。
何とかならないか、と専門病院のセカンドオピニオンも受けてみた。しかし解決には至っていない。最善策は新たな番を見つける事と言われたが、まだそんな気にはなれなかった。
「はー……行きたくない、仕事……」
服薬が終わり、ローテーブルにゴトッと頭を置く。
早く身支度をしなければいけないのだが、それを体が拒否していた。まだサマーシーズンではないのでジャケットを着なければいけないし、それも何だか気が重い。
「にゃー」
ミクが、座り込んでいる詩音のもとにやってくる。
ひょいっと抱き上げて、ソファの上にミクを置く。
「みゃーう」
「ミクー、仕事行きたくないよー」
ソファに突っ伏しながら、ミクのしっぽをいじった。文句を言われるかと思ったが、ミクは自分を見つめてジッとしている。その緑の瞳をきらめかせている彼は、詩音を諭しているようでもあった。
「……そうだよね、ミクのためにも働かないといけないよね……」
動物を飼うのもお金がかかるのだ。動物病院の診察費に保険料、毎日の餌代やオモチャなどなど。ミクを拾ってきた責任は果たさなければならない。
「よしっ、用意しよ!」
不思議なもので、ミクのためと決めると頭のスイッチがオンになる。
それはミクに対する責任もあるが、やはり誰かのために、という気持ちが強い詩音にとっては救いでもあった。
「ミク! ミクのために頑張ってくるね!」
重さ六キロのミクを床に置くと、詩音は今度こそ家を出る準備を始めた。
「にゃぁー、んにゃあぁあー」
ミクが甘えるように鳴き出す。
詩音の足下をうろちょろして何かを訴えているが、ごはんもあげたし、トイレもきれいに掃除してある。
どうしてミクが鳴き続けているのかわからない。
「ミク、今日は頑張ってくるから。留守番お願いね」
「んな、なー」
体調が悪くて二日間ずっと一緒にいたので、ミクが寂しがるのも無理はなかった。けれど、調子がいい時は詩音も人間として生きていないといけない。
詩音はミクの頭を撫で回すと、ふわふわと漂う猫の体毛がくっついたジャケットに粘着クリーナーを転がした。
コロコロとミクの毛を取ったそれを着て、詩音は玄関のドアを開けた。
すると、ミクはささっとドアの隙間から外に出て行く。
「あ、ミク! ダメだよ!」
階段を降りていく彼を追いかけるが、その脚は早い。ミクは階段を降りて建物前の庭で落ち着き、まだ日の当たらないそこで毛繕いを始める。
顔を洗っているので雨だろうか。迷信めいた事を考えていると、古賀峰が早朝の掃除のために自宅から出てきた。
「あ、立花さん。おはよう」
「おはようございます。ほら、ミク。帰ろう?」
「ううにゃー」
詩音が抱えようとしても、ミクは不満そうに唸 って古賀峰の足下まで逃げてしまった。古賀峰がそのやり取りを見て笑う。
「もしよければ、帰るまで面倒見とくけど。ミクくん、たまに立花さんが連れてきてくれるでしょ。だからウチの子と遊ぶのも楽しいみたいなんだ」
「いいんですか?」
「うん。ウチの子も庭からは出ないから遠くにも行かないしね」
それなら、と納得して詩音はミクに視線を合わせるようにしゃがんだ。
「じゃあミク、行ってくるね」
「にゃー……」
ミクの声は寂しげで後ろ髪を引かれる思いはあったが、このままだと電車に乗り遅れる。詩音は改めて古賀峰に礼を言うと、駅の方に歩き出した。
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