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〔1〕 捨てられた一人と一匹-1

 一年前──。  日中の晴天は、あっという間に崩れた。  梅雨にも入っていない五月上旬のゲリラ豪雨。  歩いて十五分ほどの駅前まで発情抑制剤を買いに行っていた詩音は、ずぶ()れで帰路に就いていた。 (……番を解消するって……簡単なんだ……)  オメガである詩音は今日、二年番ったアルファに関係を解消された。  理由は詩音の不妊症だ。  番になって半年が経った頃、発情期にセックスをしても妊娠に(つな)がらない事に気付いた。最初はそんな事もあるだろう、と相手とも話していた。  しかし、さすがに一年が経っても妊娠の兆候がなかったので産科を受診。慎重に検査を重ねた結果、詩音は不妊症だと診断された。  アルファはアルファでオメガと番わなければ子を成せない。何度も繰り返した話し合いも、その自然の摂理には敵わなかった。 (……あいつ、すごく子どもほしがってたもんな……)  元番には、どうしても子どもを作らねばならない家庭の事情があった。詩音の事は大切に思っている。でも……と言い(よど)みつつ、彼は躊躇(ためら)いもせず詩音との番関係を今日の昼に終わらせた。  終わらせるといっても、元番だけでどうにかなるものではない。  しかし、番の解消方法は至って簡単だ。  ただオメガもアルファも病院に行き、番を解消するための薬をお互い別室で点滴してもらうだけだ。遺伝子レベルで()かれ合ったはずなのに、たかだか一袋の点滴液で全てが終わる。 (本当に……あっという間……)  番関係にあった時は外せていたオメガチョーカーを首に巻き、詩音は点滴の痕が残る腕を雨の中でジッと見つめた。関係が解消されれば相手への気持ちも冷めるのかと思っていたが、決してそんな事はなかった。  残されたのは、点滴の小さな傷と彼への大きな未練。そして、番以外のアルファにも発情する性質が再び宿る感覚だけだ。 「……ふ……ぅっ……」  ざぁざぁと頭の奥にまで届くような大きな音を立てて降る雨の中、詩音は涙で濡れる顔を押さえてうずくまった。 (どうして……どうして……っ? 僕が何をしたのっ……!?)  元番の事が好きだった。本当に愛していた。  自分は子どもができなくてもいいから、彼と一緒にいたかったのに。  行かないで、と何度も叫んで、必死で引き止めたのに。  彼の意思は固く、詩音よりも両親や家の都合を優先させて部屋を出て行った。その背中が目に焼き付いて忘れられない。  無情に閉まったドアの、ガチャンという音さえ鮮明に覚えている。  捨てられたんだ、という思いで、詩音はその時も泣きやむことができなかった。 (何で、この体は……妊娠できないんだろう……? 僕のせい? そうなの?)  元番への愛憎と、自分自身への怒りで混ぜこぜになった感情が(あふ)れて、なかなか立ち上がれない。  手にしたドラッグストアのビニール袋を握り締めて地面に伏せている自分を見る者は、大雨のせいか誰もいなかった。  しかし。  ……みぃ  雨音で麻痺(まひ)していた耳に、甲高くも弱々しい微かな音が届く。聞こえたのが不思議なくらいの小さな音が、何なのか最初はわからなかった。  気のせいかも、と思った詩音だったが、身を起こして耳を澄ませる。  また、み、と雨音の隙間を抜けてくるように音が聞こえ、ようやく何か動物の鳴き声だと思い至った。  その場でへたり込んでいた詩音は、でも、と思う。 (僕には関係ない……)  のろのろと立ち上がり、その場から詩音が立ち去ろうとした時だ。ほんの僅かな雨音の合間を縫って尾を引くような低い(うめ)き声が響く。 「ん……なぁあ……っ……」  残った力で喉から絞り出しているような、悲痛な叫びだった。 『行かないで』  詩音には、そう聞こえた。  自分が元番に叫んだ言葉と同じ響き。相手にもう届かなくても、一人で繰り返した「行かないで」という声は喉が掠れても止められなかった。  自分の叫びと、聞こえてくる微かな鳴き声が脳内で重なる。 (だめ……僕と同じ気持ちの子を、見捨てたら……だめだ)  こんなに痛い想いを抱えた何かが近くにいて、必死で助けを求めている事に体が自然と動いた。  自分以外の事を考える余裕なんて全くなかったのに、詩音は胸を締め付けられながら辺りを見回す。 「ねぇ、どこにいるの……っ?」  雨に負けない程度の声を出そうと思ったが、泣き尽くした後の喉ではろくな呼びかけにならない。雨に濡れて冷えた体を震わせながら探していると、今までで一番近くに鳴き声が響いた。 「…………みぃ…………」  すると今は空き家になっている近くの元動物病院の前に、ダンボールが置かれている事に気が付く。  荒れ果てた家の玄関前に、ダンボールはひっそりと置かれていた。  駆け寄ってみると、箱がガムテープで何重にも封をされている事に鳥肌が立った。豪雨のせいで形が崩れた箱の前に、詩音が膝を付く。  ……み……  声は、辛うじて聞こえる。ただ今にも消失してしまいそうな弱さに、詩音は頑丈に貼られたガムテープを()がし始めた。  怒りを覚えながら、、指先が痛むのもかまわずダンボールの箱を開けていく。濡れているといってもダンボールとガムテープを引きちぎるのは大変だった。蓋が開いた時には詩音は知らずうちに息切れしていた。  箱の中では小さな猫がぐったりと横たわっていた。  どれだけの間、閉じ込められていたのだろう。片手で包めてしまいそうなほどの華奢(きゃしゃ)な体を震わせ、詩音の存在にも気付かないで目を閉じている。  その湿った体毛はミルクティーに似た色をしていて、詩音はそれに気が付いて大粒の涙を零した。  元番も、こんな髪の色をしていたのだ。  少し長めに伸ばした髪は太陽に当たると金色に輝いて、その様を見るのが大好きだった。  ベランダからの景色を見られる位置に置いたソファに寝ている元番は、詩音が見つめているのがわかると優しく頭を撫でてくれた。柔らかく微笑んだ口元は慈愛に満ちていて。  まさか、こんな事になってしまうなんて欠片も思っていなかった。 「……にぃ……」  猫の声にハッとなる。  この大雨だ。  ミルクティー色をした猫は冷え切っていて、鳴き声は徐々に弱くなっている。ここで自分が見捨ててしまったら、もう助からない。  命を見捨てる事の罪悪感が、大きくふくれ上がる。  それから目をそらす事などできなかった詩音は、崩れ落ちそうなダンボールを抱えた。ボロボロの蓋を閉め、せめてもの雨よけに持っていたビニール袋を上に広げる。  詩音は小走りで自身が住むアパート──(また)(たび)ハイムへと走り始めた。無我夢中でアパートに辿(たど)り着くと、まっすぐ大家が住む一階の奥にある部屋に向かった。寒さに震える指で、何度かインターホンを鳴らすと「はーい」と返事がある。  がちゃ、と音がしてドアを開けた彼は、びしょ濡れで立っている詩音に驚きの声を上げた。 「立花さん、どうしたの!?」  大家である赤髪の男性が動くと、しゃりんっとスマホに付けている鈴が鳴る。詩音は滴る雨粒もそのままに、ぎゅっとダンボールを抱き締めた。 「…………猫を、拾ったんです」  その一言で、詩音が抱えているダンボールの中身が何だかわかったらしい大家──古賀(こが)(みね)は表情を険しくしかめた。  その足元には、目が片方ない三毛猫がちょこんっと座っている。さらに、前右脚が失われた三本脚の黒猫、老いて素早くは動けないキジトラが廊下の奥から玄関の様子を(うかが)っていた。 「とりあえず、その子を預かるから。立花さんは着替えておいで」 「はい……」  緩慢な動作でダンボールを古賀峰に渡し、詩音はアパートの二階にある自宅へ戻った。  玄関のドアを開け、全身からポタポタと雨を滴らせながら脇のバスルームで服を全て脱ぐ。 「くしゅ……っ!」  不意に飛び出たくしゃみに、慌ててタオルで全身を拭う。  子猫を助けたい一心だったが、自分の体も冷えて爪まで真っ青だ。  下着とラフな服を身につけると、詩音は古賀峰の部屋へと向かった。  古賀峰は保護猫活動に熱心で、先ほど玄関に集まっていた猫たちも保護された子たちだ。障害や老齢を原因に引き取り手が見つからず、結局は古賀峰が正式に飼っている、と聞いた事があった。  だから頼ってみた。古賀峰なら、消えかけている命も助けてくれるかもしれない。そう思ったから。 (僕だけじゃ、あの子をどうしたらいいかわからなかったな……)  ピンポーン……。  インターホンを再び鳴らすと、大きな声で「入っていいよ」と反応があった。  お邪魔します、と廊下の奥にある部屋に足を踏み入れた。  くたくたになったダンボールが部屋の隅に落ちていて、詩音が拾ってきた子猫は違う箱の中にいる。思わず走り寄ると、古賀峰は詩音に場所を譲り子猫の状態を教えてくれた。 「冷えてるし弱ってるけど、ヒーターで温めてるから大丈夫。歯が生え始めてるし、乳離れする頃かな。でも今はミルクも飲めないかも……」 「じゃあ……どうしたら」  ミルクが自力で飲めない、となればこの子はどうなるのか。最悪の展開を考えて青ざめる詩音に、古賀峰は棚からいろいろと取り出した。 「子猫用のミルクがあるから、それをガーゼに染みこませてあげてみよう。それで飲むようなら朝イチで病院。無理そうなら今すぐ救急病院に連れて行く。猫風邪っぽくて目やにが出てるけど、癒着はしてないから安心して」 「そう、ですか……」  子猫はまだぐったりしているが、ふわふわのタオルの上でペットヒーターに温められている様は先ほどより命を感じられる。  生きている。  ただそれだけでここに連れてきた意味はあったのだ、と実感した。  猫を見つめたまま反応がない詩音に、古賀峰が呼びかけてくる。 「立花さん?」  その声に、(せき)を切ったように涙が溢れた。 「よかっ……た……! ほん、とに……どうしようかって……っ……」  元番の髪色に似た体毛が、詩音を突き動かしたのは確かだ。けれど、懸命に生きようとしている命に毛色なんて関係ない。  詩音はこれでよかったのだ、と安心して泣きじゃくった。  号泣している詩音に、古賀峰がぽんぽんっと背中を(たた)いてくれる。  そして、その泣き声は子猫にも届いたのだろう。  僅かに目を開けた猫は、こちらをちらりと見た。すぐに目を閉じてしまったから、それが本当かはわからなかった。  気のせいだったのかもしれない。 「……大家さん、明日までこの子に何をしてあげたらいいですか……?」  涙ながらに尋ねる詩音に、まず古賀峰はミルクの飲ませ方を教えてくれた。  ミルクを染みこませたガーゼを口元に持って行くと、子猫は滲んでいる液体を一舐めした。 「こうやって何度かミルクをあげて、ちゃんと飲むようになったら病院は朝イチでいいよ」 「はい……」  涙で濡れる顔を手の甲で拭いながら頷く。  詩音がしっかりしてきた事を確認した古賀峰は、先ほど言った事を改めてメモに書いてくれた。ペンを走らせ、真剣に言い聞かせてくる。 「……可哀想でつい拾ってきたのかもしれないけど、連れてきた以上は立花さんが責任を持たないといけない。わかってる?」 「……は……はい……」 「だから、泣いてる暇はないよ。命を守るのは大変なんだから!」  明るく笑い、古賀峰はメモを詩音の手に握らせる。  詩音は涙を懸命に堪えながら、「頑張ります……っ」と大きく(うなず)いた。  その声に反応したのか、子猫が「み」と甲高く鳴く。  先ほどより明瞭な声は、詩音を逆に励ましているような気さえした。

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