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第一話「朝・誘われて」

06:10  スマホのアラーム音と共に、今日もまた均衡を保った平凡な一日が、始まった。  ついさっきまで、後輩のマコトが登場する、温かで幸せな夢を見ていた気がするけれど、目覚めた途端に散り散りになってしまう。  唇が触れあった柔らかな感触だけでも、記憶に留めたかった。けれど、夢は夢でしかないのだ……。  まだ半分眠っている身体を引きずってリビングへ行けば、母親がベーコンを焼いているいい匂いがする。 『朝食だけは一緒に食べる』  それが母と僕、二人で暮らすこの家のルールだ。 「おはよう、カナタ」 「おはよう」  リモコンに手を伸ばし、テレビのボリュームを上げる。 『6月25日水曜日。今日は一日、厚い雲に覆われそうです。特に午前中は、傘を持ってお出掛けになった方が、よいかもしれません』 「冷蔵庫のヨーグルト出してくれる?」 「うん」  僕は大きくあくびをしながら、朝食の準備を手伝う。  足元では真っ黒な飼い猫の「マコ」がミャーミャー言って餌をねだっていた。 06:20  母親は、小さな仏壇に手を合わせて「今日も一日よろしくお願いします」と頭を下げた。  その後ろ姿に聞こえるよう「いただきます」と告げ、目玉焼きの黄身に箸を突っ込んで、醤油をかけた。  つけっぱなしのテレビからは、東京のどこかの店で食べられるフルーツパフェの特集をしている。  行く機会はないくせに、つい熱心に見てしまった。 06:50  毎朝、保育士をしている母親のほうが、先に家を出る。  僕は習慣として玄関まで見送りに行く。  靴を履きながら母親が尋ねてきた。 「カナタ、今日の夜は?」 「今日はバイト。賄いが出るから夕飯はいらないよ。バイト代、今日振り込まれてるはずだから、帰りにファミレスにも寄ってくるかも」 「新作のパフェ、出てるんでしょ?」 「うん」 「今はなに?」 「メロンフェアだって」 「いいわねー。じゃ、学校もバイトも頑張って」 「母さんも車の運転に気をつけて。いってらっしゃい」 「行ってきます」  母を見送ってから、僕はシャワーを浴び、髪を乾かし、制服に着替えた。  少し伸びてしまった髪は、上手く纏まらず、それだけで憂鬱になる。  いくらセットしたって、自転車通学で風に煽られ、ぐちゃぐちゃになると分かっていた。もし雨が降り出したら雨合羽を着ることになるから、尚更だ。  それでも、朝の髪型が決まるか決まらないかは、僕にとってその日の運勢を示す占いみたいなものだ。  そうだ……。今日は朝から午後まで、クラス対抗の球技大会。正直、授業よりも面倒くさい。  でも、今年もマコトの活躍が見られるのはうれしい。  それ以外の時間は、図書館でやり過ごせばいいか。そう考え、鞄にこの県にある国立大学の過去問題集を突っ込んだ。 07:40  火の元と施錠を確認し、ミャーと見送ってくれる猫の「マコ」に挨拶をして家を出る。  小雨が降り出しそうだけれど、学校に着くまでは、ギリギリ大丈夫だと思いたい。  マンションの駐輪場で久しぶりに管理人のおばさんに出会ってしまい「しまった」と感じながら、挨拶を交わした。 「おはよう、カナタくん。あら、背が伸びたんじゃない?」  いや、伸びてない。僕はここに越してきた中学二年の春170センチだったけれど、そこで身長は止まってしまったのだから。 「何年生になったの?」 「高校三年です」 「あら、受験生じゃない。大学、受けるんでしょ?お母さんも女手一つで大変ね。勉強頑張って」  おばさんは生垣に綺麗に咲く紫陽花の手入れをしながら、センシティブな話題にも、平気で踏み込んでくる。 07:50  コンビニの前に自転車を止め、ATMで、入金されたばかりのバイト代から一部を下ろす。  我が校の学食では、未だに現金しか使えないのだ。  バイト代は、それなりの額が振り込まれていて、何か小さな贅沢をしてもいいかもしれない、と思えた。  ただ、僕がバイトを続けられるのも、来月まで。夏休みは夏期講習の予定でびっちりと埋まっている。 「おはよう、先輩!」  聞き慣れた大好きな声が背後から聞こえ、うれしさを隠しつつ振り向けば、眩しい笑顔が僕に向けられていた。 「おはよう、マコトくん」  焦茶色でチェック柄のズボン、長袖の白シャツ、グレーのニットベストに、革靴。僕と同じだけど、ネクタイの色が一学年下だと示している制服。  同じものを着用していても、僕より10センチは背が高いマコトは、よく似合っていて、誰よりも絵になる。 「先輩の自転車が止まってるの見かけたから、俺も寄り道」  ニッコリと笑いかけてくれる。  僕は自分の髪の乱れを手櫛で直しながら、彼を好きだとバレぬよう感情を抑えて、返事をした。 「あ、うん。バイト代振り込まれたから」 「俺も俺も。先月は結構頑張って働いたから、それなりの金額になってたよ」  マコトとは同じショッピングモールの、隣同士の飲食店で働いている。  控室や更衣室が同じで、いつしか会話をするようになっていた。  ……ということに、なっている。  誰から見ても格好よく人目につく男の子、マコト。彼が焼肉屋で働いているのを知っていて、わざと隣のパスタ屋でバイトを始めたなんて、誰にも言えない。  けして同じ焼肉屋のバイトに申し込まなかったところが、奥ゆかしいのではなく、情けなくて、とても僕らしい。 07:55  コンビニを出て、二人とも自転車に跨る。 「面倒くさいね、今日の球技大会。小雨なら雨でもやるだろうし。マコトくんは何かに出るの?」  このままコンビニの前で、彼と喋り続けていたい気分だった。 「俺は、サッカーとバスケ。もしかするとバレーにも駆り出されるかも」 「うわっ、大変。運動神経良さそうだもんね、マコトくん。僕は一つも出ないよ。学校、サボっちゃおうかな」  マコトの活躍する姿を見たいからサボる訳がないのに、少し悪ぶってしまった。  そのとき、マコトが手を伸ばしてきて、僕の腕を掴む。  彼は見たことない、真剣な顔をしていた。 「それ、本気にしてもいい?」 「え?」  マコトはじっと黙ったあと、口を開く。 「俺もサボる。ねぇ、俺と駆け落ちしよ、先輩」 「へ?駆け落ちって、あの駆け落ち?」 「うん。日帰りの駆け落ち。ね?」 「ごめん、少しも意味がわからないよ」  僕は「駆け落ち」という言葉の意味を覚え間違えているのだろうか?  恋人同士が、親に結婚を反対されて夜行列車で逃げる。そんな昭和の出来事が思い浮かぶのだけれど。  首を捻っていると、マコトは僕の自転車の前カゴから通学鞄を盗むかのように、自分の前カゴへ移す。 「さぁ、行こう先輩!」  その声は弾んでいた。  なぜか今朝見ていた夢の断片を思い出す。  マコトは学校とは逆方向、駅の方に向かって自転車を漕ぎ始めた。 「え、ちょっと待って」  彼を追いかけるしか、僕にできることはない。  突然やってきた非日常感に気持ちを動かされながら、ペダルを漕いだ。 08:05  駅前の有料駐輪場に自転車を止めたマコトに続き、僕も駐輪の手続きをした。 「もう、いきなりなんだよー」  鞄を持ち逃げした彼に対し、大袈裟に膨れてみせる。  けれど、外は小雨がポツポツと降り出していて、学校へ戻るなら雨合羽を着用しなくてはならないだろう。  過去、学校をサボった経験は一度もない僕だけれど、段々と一日くらい休んでもいいかもしれない、という気になってきた……。  だってマコトと一緒に過ごせるのだから。 「先輩、鞄重いね。中身は駅のコインロッカーに預けておこうよ。俺も体操着とジャージは置いていきたいし」  そう言って僕の鞄を持ったまま姿勢よく歩くマコトの後ろを「ねぇ、どこに行くつもり?」と問いかけながら、ついて行く。 「駆け落ちに相応しいところ」  彼からは、そんなふざけた答えしか返ってこなかったのに、結局僕は過去問題集も、英単語帳も、雨合羽も、コインロッカーに閉じ込める。  マコトは通学鞄につけていた真っ白い犬、たぶんサモエドのぬいぐるみキーホルダーまで外し、ロッカーへ仕舞った。  結局僕は、流されるように身軽になることを選んでしまった。 08:10  マコトは僕に行き先も言わず、東海道新幹線の券売機で、この駅からの乗車券と、新幹線駅からの特急券を二組購入しようとしている。  その手つきはたどたどしく「えーと」と迷いながらボタンを押していた。  大丈夫なのかと後ろから覗き込んだ僕に、マコトが言う。 「東京に行こう、先輩」 「え?今から?」 「うん。今から」 『切符とお釣りを取り出してください』  戸惑っている間に、券売機から発券されてしまった。  購入を終え振り向いたマコトは、遠足に出掛ける子どものような期待に満ちた笑顔で、僕に乗車券と特急券を差し出してきた。乗車券の行先は「東京都区内」と記載されている。 「さぁ、急ごう。電車が来ちゃうよ、先輩」 08:16  タイミングよくホームに六両編成の在来線が、到着する。  これを逃していたら、30分は次の電車が来なかっただろう。  通勤通学の時間帯で車内は混み合っていて、マコトに詳細を問うことはできないままだ。  車窓には、さっきより雨足が強まった水滴が、ポツポツと当たっている。  次の駅で降りて引き返し、急いで自転車で学校へ向かえば、多少の遅刻で済むだろう。  でも僕は「マコトと一緒にいたい」だけじゃなく、「雨合羽を着たくない」という都合良い理由を見つけることができ、このまま電車に乗り続けることを選んだ。  現実はあのコインロッカーに置いてきた。  今日という日を楽しんでみようと決めてしまえば、心に眩しい光が差し込んだように感じた。 08:24 「先輩、乗り換えるよ」 「あっ、うん」  マコトにとっては不慣れな旅だろうに、僕をアテンドしてくれる。その頼もしさがうれしく、笑顔が溢れてしまった。もう戸惑いはない。 「やっと笑ってくれた」  降りたホームで僕の顔を覗き込んで、彼が笑う。 「一応、確認するよ。新幹線に乗っちゃったら引き返せないけど、どうする?先輩」  彼の綺麗な奥二重の目が、真っ直ぐに僕を見ている。 「行く」  コクリと頷いて、そう答えた。  乗換口から新幹線乗り場へと、移動する。 「トイレに寄りたいんだけど、時間ある?」 「うん。大丈夫。俺も行く」  トイレの鏡の前で、乱れてしまった髪を必死に手櫛で整えるけれど、梅雨らしい湿度で、どうにもならない。  マコトの髪はナチュラルで、特別には手を加えてなさそうなのに、似合っているし、格好いい。  そんなことを思っていると、横からマコトの長い手が伸びてきて、僕の前髪を触った。 「髪、少し伸びたね。先輩」  鏡の中で、同じ制服を着た僕らの目が合う。 「う、うん」  何気ない仕草。何気ない会話。マコトにとっては何でもないことかもしれないけれど、僕の心臓はドキドキと跳ね上がる。  マコトはコンビニの前で「駆け落ちしよ」と僕に言った。  彼の冗談のセンスは良く分からないけれど、本当にこのまま二人で東京で暮らせたら、どんなにいいだろう。  今の生活に大きな不満があるわけじゃない。  それでも、同性が好きという感情を隠したまま、この地味な街で平凡な生活を維持し続けるのは退屈だと、予測できた。  僕だって、新しい扉のようなものに、手を伸ばしてみたい願望はあるのだ。

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