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第1話

 夏休み直前の教室はお祭り騒ぎだ。  受験のない高校二年生ともなれば、「夏休み」という単語だけで踊り狂えてしまう。  昼休みになると仲良しグループで机を寄せ合い、夏休みの計画を立てている人が多い。  それは僕たちも例外ではなかった。  中学からの友だちの本楽ーー通称モト、二年に上がり仲良くなった佐山、堺と僕ーー有馬悠聖(ありまゆうせい)の四人で弁当をつきながら、どこに行こうかと話し合いをしている。  だがなかなか話がまとまらない。  佐山は最近新しく彼女ができたため、そっちも優先したいという話からノロケに変わってしまったからだ。  彼女のいない僕とモト、堺は噎せたくなるほど甘い話を強制的に聞かされること数分。最初は文句を言っていたモトだが、次第に眼鏡の奥の瞳が羨望の眼差しに変わっていた。  「いいな〜オレも彼女が欲しい!」  モトが机に突っ伏してジタバタすると「だよな」と堺が同調している。  「わかる」  僕もすかさず共感の声を上げた。  本当は彼女なんて欲しくない。  でも輪を乱さないように話の流れを合わせた。そうするように僕の言動はプログラミングされている。  「有馬はどういう子がタイプ?」  彼女ができた余裕からなのか佐山に水を向けられ、僕は一瞬言葉に詰まった。  (ここでの正解は曖昧に濁すことだろうな)  芸能人やアイドルの名前を出したら最後。その人たちがスキャンダルを起こすと「おまえ見る目ないな」と莫迦にされるのだ。  中学のときに痛い目を見た僕は、慎重に言葉を探した。  「そうだな……かっこよくて、頭がよくてやさしい人かな」  「女でかっこいいって珍しいな」  目を丸くする佐山に僕の心臓が口から飛び出そうになってしまった。  僕は中学生のときからゲイだと自覚している。誰かに打ち明けたこともないし、同性に告白をしたこともない。僕が同性愛者なのは親でも知らないトップシークレットだ。  (大丈夫。バレたわけじゃない)  心臓の裏側に保冷剤を当てられているようにひやりとしているが、僕は笑顔を貼りつけた。  「そう?」  「かっこいい女、悪くないね。オレもそういう子好き! 背が高い子とか最高!」  モトが机から顔を上げると佐山の視線が僕からモトに移る。  「おまえは女子だったら誰でもいいんだろ」  「失礼だな。オレにだって好みはある」  「どんな?」  「おれを好きになってくれる子!」  「ありえねぇ~モトを好きになる子なんていねぇよ」  佐山が手を叩きながら大袈裟に笑うので場が一瞬静かになる。けれど佐山は気づいていない様子で「モトが彼女できるか賭けようぜ」と堺に提案しだした。  モトはむっと唇を尖らせたが、すぐに表情を変えて泣く真似を始める。  「有馬~佐山がイジメる」  「よしよし」  僕はモトの肩をポンポンとやさしく叩いた。さすがにいまの発言は酷すぎる。  ここはフォローをしよう。  「でも恋人は欲しいよな。来年は受験で遊んでられないから、今年が最後のチャンスじゃん。あ〜誰でもいいから恋人になってくれないかな」  思っていないことほど僕はスラスラと喋れてしまう。長年培ってきた処世術とでもいうのだろうか。  モトと堺は同調するようにうんうん頷いてくれた。よし、これで空気は変わるだろう。  話が一段落すると僕の視界に暗い影が落ちた。  大きな手のひらにだんと机を叩かれ、驚いて視線を上げると細貝陽(ほそがいよう)が僕を見下ろしている。  黒髪のセンターパーツから覗く目が鋭く光った。  「俺が立候補してもいいか」  「……な、なんのこと?」  「恋人の話」  僕がぽかんとしていると細貝はさらに言葉を重ねた。  「有馬の恋人に俺が立候補してもいいか」  「…………え?」  僕がようやく絞り出した言葉に細貝は小作りな頭を傾げた。  「恋人、誰でもいいんだろ? それなら俺でもいいじゃん」  「そんなこと言われても」  僕がしどろもどろに返すと、細貝の切れ長の瞳に鋭さが増した。  モトをフォローしてあげようとしただけで、本当に恋人が欲しいわけではない。  万が一、募集したとしても大嫌いな細貝だなんて願い下げだ。  だが現実、教室中の視線が僕と細貝に向けられている。好奇が存分に含まれている視線に僕はじとりと汗をかいた。  僕の答え方次第で、その後の人生まで変わってしまうような分岐点に立たされている。  学級委員とテニス部部長としての肩書きを守るために、僕はどう答えを出すべきなのか。  瞬時に最適な答えが導けるはずもなく、頭の中のモーター音だけが虚しく響いた。  「いいじゃん、細貝かっこいいし!」  お調子者のモトがケタケタと肩を揺らした。それを皮切りに同調する頷きが波紋のように教室の隅々まで広がる。  多様性だのLGBTだの叫ばれている昨今のおかげか、男同士で付き合うことに対してからかうクラスメイトがいない。  だが逆を言えば、断ると僕が悪者にされる可能性を秘めている。  壁際に追い詰められたネズミの気分で細貝の顔を見上げると、なぜか細貝の両目はメトロノームのように揺れていた。  下ろされたこぶしがぎゅっと丸まり、痛みに耐えるように形のいい唇が結ばれている。  どんな窮地に追いやられても眉一つ動かさず平然とスマッシュを決める細貝が、僕の答え一つに怯えているように見えた。  その弱々しい表情に、不覚にも胸がきゅんと鳴ってしまった。  「……じゃあ付き合っちゃう?」  「まじで! やった!!」  細貝がガッツポーズを取ると万雷の拍手が教室に響き渡り、僕はその音で我に返った。  (大っ嫌い細貝と付き合うなんてあり得ない!)  「よ、彼氏持ちの有馬悠聖さん。いまの心境はどうですか?」  放課後のホームルームが終わり、僕がラケットバックに教科書を突っ込んでいるとモトは自分のこぶしを僕の口元に向けてきた。インタビューするアナウンサーのつもりなのだろう。  モトの両目は抑えられない好奇心で爛々と輝いている。  細貝と付き合うことになってしまった事実をまだ受け止められずにいるのに、どうしてモトはさらに煽るような真似をするんだろう。さっき佐山から助けた恩は忘れたのか。  それとも僕が先に恋人ができた腹いせだろうか。  モトを睨みつけるが屁でもないらしく、嫌みったらしく片頬を上げた。  「なんだよ、照れてるのか~」  「そういうんじゃないけど」  だが僕はそれ以上言葉を続けられない。  僕とモトの会話を盗み聞きしているらしいクラスメイトたちの視線が、チクチクと刺してくる。  そのせいで僕は「有馬悠聖」としての振る舞いを余儀なくされてしまうのだ。  取れかかった笑顔の仮面をつけ直し、クラスメイトの視線を躱した。  だがモトはそんなことに気づいていないようで、笑みを浮かべている。  「有馬の理想通りの恋人ができてラッキーじゃん。えっと……なんだっけ。かっこよくて、頭がよくてやさしい人だろ。もろ細貝じゃん」  どこがだ。  細貝がかっこよくて頭がいいのは認めるけど、やさしいとは対極にいるだろう。  自分勝手でわがままで、人の気持ちがわからない最低な奴だ。  「有馬」  耳障りな声に僕は教科書を入れる手を止めた。振り返ると制服にラケットバッグを背負い、帰り支度の済んだ細貝が立っている。  「部活行こう」  「部活?」  「うん」  僕は細貝をまじまじと見返した。細貝はこの二年間、一度も練習に顔を出したことがない。それがどういう風の吹き回しなのだ。  じっとみつめても細貝は感情をそぎ落としたような無表情なので、なにを考えているかわからない。  「彼氏の登場じゃん。いまのお気持ちは?」  モトはマイクに見立てたこぶしを今度は細貝に向けた。細貝は両目をまあるくさせたあと、モトを見下ろしている。そして僕に視線を戻し、少し屈んでこぶしに顔を近づけた。  「幸せいっぱいです」  「どこがだよ!」  細貝の棒読みっぷりに思わず突っ込んでしまい、慌てて口を押えた。危ない、危ない。  僕のツッコミに細貝は驚いたのか大きく二度瞬きをしている。  決まりが悪く、僕はそっぽを向いた。  (こんなのいつもの僕らしくない)  僕は常に肩書きに恥じない言動を心がけてきた。周りの視線に気を巡らせ、教科書に書かれたお手本のように立派であろうと努力をしている。  だが、いまのはなんだ。  クラスメイトの視線があるのというのに僕は本音をこぼしてしまった。  他人からなにを言われても「そうだね」「わかる」と流してきた、この僕が。  周りから穏やかでやさしいという毒にも薬にもならない評判の僕の足場が、細貝のせいでグラグラと揺れてしまっている。  (それもこれも細貝が恋人に立候補なんてするからだ)  責任を細貝に押しつけると、少しだけ溜飲が下がる。  細貝は多数のプロを輩出するテニスクラブ「ラビット」に在籍中の天才児であるが、テニス部にとって諸悪の根源である。  実力は折り紙付きでこの前の県大会ではシングルスで優勝し、関東大会ではベスト8にまでのぼりつめた。  そんな実力のある細貝がテニスの名門校ではなく、ただの公立校である船城高校に入学してしまったのだ。  当然、細貝のレベルで渡り合える選手は部内ではいない。練習に来ても意味がないと思っているようで、大会のみに参加する幽霊部員の上位版になってしまっている。  いまでこそ細貝の特別待遇には慣れてきたけど、入部当初はいざこざばかりだった。もう思いだしたくもない。  その恨みもあるので、僕は細貝が嫌いだ。  だから二年生に上がり、同じクラスになったけど一度も話したことがない。  大会に行っても、顧問の日村先生が細貝にべったりとくっついているので、声をかけたこともない。  そのせいで細貝は部内では浮いていた。  本人も理解しているようで、僕たちに歩み寄る素振りは一度も見せてこなかった。  そうした関係が二年目に入り、僕たちの間にある亀裂は深まっていくばかりだったのに、なにを血迷ったのか細貝が僕の恋人に立候補をしてきたのだ。  細貝がなにを考えているのか、僕にはまったく理解できない。  「でも放課後はいつもラビット直行だろ? 部活に顔出す時間あるのか?」  モトのナイスアシストに、眼鏡を拭いてあげたくなった。周りの空気を読めるところがモトのいいところである。  「ラビットはあるけど、夜からだし。たまには部活にも顔出そうかなっと」  「なるほど、なるほど」  モトが意味深に頷くと細貝は首の後ろを擦り始めた。  「それに部活に行けば、有馬と一緒に帰れるじゃん」  首に手を当てる、いわゆるイケメンポーズをする細貝はわずかに頰を赤らめた。釣られて僕の顔も熱くなってしまう。  (急に変化球を投げてくるなよ!)  僕たちの様子を見ていたモトは、眼鏡の奥の瞳をきゅっとさせている。  「いや〜お熱いことで。ならオレは先に部室棟に行ってるよ」  「待て待て待て。同じ場所に行くんだから一緒に行こう」  僕は先へ行こうとするモトの肩を掴んで引き戻した。  「おれのやさしさを踏みにじる気か!!」  「そんな気遣い、僕たちの中ではいらないだろ。テニス部同士、三人で仲良く行こうよ!」  僕があまりに必死な顔をしていたのかモトは折れてくれ、三人で部活棟へと向かうことになった。  しばらく押し問答をしている僕たちを細貝はつまらなさそうに見ているのが視界のすみに映り、背筋がひやりと冷える。  (なんで怒ってるんだ)  でも怒っているならなおさら、二人きりにならなくてよかった。細貝と話すことなんてなにもない。気まずい空気のままでは窒息していただろう。  昇降口で外靴に履き替えていると、佐山と堺にぽんと肩を叩かれた。  「二年四組の名物カップルじゃん」  「おめでとう、お幸せに!」  「あはは……どーも」  僕は苦笑いを浮かべながら何度も頭を下げた。だが細貝は無視を貫いている。  元々クラスに溶け込めておらず、親しい友人もいない細貝だから当然の態度なんだけど、もう少し喜んでいる素振りをしてくれてもいいんじゃないか。  (って、僕は嬉しいわけじゃないし!)  つい流されそうになっていることに気づき、僕は慌てて気持ちを切り替えた。  じとりと睨み上げるとわずかに細貝の耳が赤くなっている気がする。でも昇降口はクーラーの冷気が届かないので暑いせいかもしれない。  僕たちのやり取りを見た他クラスの子たちが何事だと訊き、佐山がベラベラと話すのであっという間に僕と細貝が付き合っていることが知れ渡ってしまった。  (なんの罰ゲームだよ)  生温かい視線を向けられるたびに吐き気がした。あれは売り言葉に買い言葉みたいなもので恋人ではない、と豪語できればどんなに楽だろうか。  だが本音を隠すことになれてしまった僕は当然言えるはずもない。たくさんの祝福を苦笑いで受け流した。  隣の細貝をちらりと見上げる。  細貝は学年一背が高い。確か一九〇近くあるはずだ。  おまけに顔が恐ろしく小さく、これまた嫌味ったらしく手足が長い。  顔のパーツも神に采配されたとしか思えない精巧な作りの、いわゆるイケメンだ。  それに容姿のスペックだけでなく頭もよく、運動もできるとなれば、当然女子からもモテる。よく告白されているらしいが、付き合ったという噂は聞かない。  どんな美人から告白をされても靡かない細貝は、堅牢な城のように難攻不落だ。  だからどんどん価値が上がり、いまではすっかり学校のアイドル的存在にのぼりつめている。  それなのに平凡を擬人化したような僕と付き合うとなったなら、噂は光より早く伝わるだろう。  明日には全校生徒に知れ渡っているかもしれない。  (それで僕がすぐ振ったら、女子たちからの反感を買いそうだ)  ただでさえ僕はこれといって目立つキャラじゃない。  九月に行われる生徒会総選挙で生徒会長に立候補する予定で、いたって真面目な一生徒として認知されているはずだ。  でもここで女子から|顰蹙《ひんしゅく》を買えば投票してもらえず、僕が生徒会長になれるか雲行きが怪しくなってしまう。  それだけは絶対に避けなければならない。  生徒会長に就任することは、僕にはマストなのだ。  不幸中の幸いか明後日は終業式で夏休みに入る。  一か月以上冷却期間があれば、噂なんてすぐに消えてくれるだろう。たぶん。  中庭を通り、部活棟に向かっていると「おーい」と頭上から声が降ってきて、三人同時に顔を上げた。  「細貝、ちょっと来い」  二階の窓から顔を出したのは日村先生だ。細貝と同じくラビット出身で、インターハイで優勝経験を持つ実力者でもある。そのため男子テニス部の顧問をしてくれているが、ほとんどコートに姿を現さないので僕たち部員からの評判はすこぶる悪い。  きっと僕が新部長ということも知らないだろう。遠くからでも日村先生の視線が細貝にだけ注いでいるのが嫌でもわかる。  日村先生を見上げた細貝は目を眇めた。  「面倒なので行きません」  「つべこべ言わずに来い」  「行きません」  「そんな態度取っていいのか? おまえの秘密、バラすぞ」  「……くそっ、タチが悪い」  顧問に対しても細貝は横柄な態度は崩さないらしい。ちっと舌打ちをすると「聞こえてるぞ」とすかさず日村先生のヤジが飛んでくる。  細貝は僕たちに顔を戻した。  「ごめん、先行ってて」  「頑張れよ〜」  モトが答えると、細貝はちらりと僕を見てから校舎へと戻って行った。心なしか右肩が下がっているように見える。  日村先生に握られている秘密も気になるけど、細貝の露骨な態度も引っかかった。  僕たちと一緒で日村先生が嫌いなのだろうか。  「有馬と部活行けなくて、細貝、相当落ち込んでるな」  「日村先生のところに行くのが面倒なんじゃなくて?」  「どうしてそうなる。好きな人と部活に行ける絶好のチャンスを邪魔されて、不貞腐れてるんだろ」  「誰が誰を好きなの?」  「細貝が、有馬を、だよ」  「えぇ~それは違うでしょ」  僕は首を振った。  細貝が僕の恋人に立候補した理由はいまだよくわかってないけど、その場のノリだろう。クラスになかなか溶け込めないから無理やりにでも輪に入ろうとしたに違いない。  もし失敗しても明後日には夏休みに入り、みんな忘れてしまう。  そういう大博打をしたのだと思っていた。  モトはずれた眼鏡を直そうともせず、僕をじっと見返している。  「おまえ、マジで言ってるの」  「だって僕と細貝、今日までまともに話したこともないんだよ」  「そうだけどさ」  「好きになってもらえる要素が全然思いつかない」  いたって平凡の僕はモテる要素が皆無だ。背も低く、髪は栗色の猫っ毛でぺったりとしている。唯一誇れるとすれば母親譲りの大きい目だろうか。でもくりっとした瞳は男らしくないので、あまり好きじゃない。  モトはやれやれといった感じで首を左右に振った。  「細貝が可哀想になってきた」  「どうしてそうなるの?」  「有馬って、恋愛に関しては昔からポンコツだよな」  「酷いな。僕は真面目な生徒だよ」  「だから論点ズレてるんだよな」  モトはくしゃくしゃと短い髪をかき混ぜた。なんとなく会話のキャッチボールができていない感はあるが、モトとはいつもそんな緩い感じだ。  部室に着くとユニホームに着替えた一年生たちとすれ違った。新品の白いユニホームが夏の日差しに反射して眩しい。  僕たちに気づいた一年生たちが揃って頭を下げてくれた。  「先輩、お疲れ様です!」  「お疲れ。倉庫からボール出しておいてくれる?」  「はい!」  僕は一年生に倉庫の鍵を渡し、部室に入った。  男子テニス部の部室は二階建てのプレハブの一階だ。教室の半分ほどの広さがあり、三年前に建て直したのでまだ新築の匂いがほのかに香る。  コートに出払っている人数は多いようで、なんとなく決められている定位置には各々のラケットバックが立てかけられていた。  僕が制服からユニホームに着替えている間もモトの弾丸トークは止まらない。  「じゃあなんで細貝と付き合ったんだよ」  「あの雰囲気じゃ断れないでしょ」  「確かに。おまえは昔っから周りの目ばかり気にするもんな」  びくりと僕の肩が大袈裟に跳ねた。やっぱり気づかれていたのか。  でも中学時代の僕を知っているモトなら仕方がない。  中学の僕はいまよりいろんなことができなかった。クラスをうまくまとめられず、不満ばかり言われたし、部活に至っては誰も言うことを聞いてくれなかった。  そういう失敗をしてきたから、僕は肩書きに恥じない人間になろうと努力しているのだ。  きっと中学時代の僕とは、かなり違って見えるのだろう。  モトはようやく腰をあげ、のんびりと着替え始めた。副部長なんだからしっかりしてくれ。  「さっき鍵渡したのも、一年生が自主練できるようにだろ?」  「去年までの先輩たちとは同じことをしたくないだけ」  「そういうところが気にしすぎなんだよ。いい先輩として見られようとしちゃってさ」  モトの指摘に今度こそ僕は口を閉ざした。  モトは脱いだ制服をぐちゃぐちゃにラケットバッグに放り込んでいる。  「そういや中学のときも似たようなことあったよな。有馬がラケット貸してやったことあっただろ」  「あったね、そんなこと」  僕は二年前の夏大会を思い返した。  中学三年生だった僕は奇跡的に市大会を準優勝し、県大会に出場したことがある。  だが初戦相手は優勝候補の強豪校で、一ゲームも取れずに負けた。  試合を終え、ラケットを片付けているとまだ隣のコートでは試合をしていた。ユニホームの赤と黄色と黒の炎がいかにも強そうだったのを覚えている。  だが弾丸のようなラリーの応酬の途中、僕側の選手のラケットからバンと嫌な破裂音がした。ガットが切れてしまったらしい。  その子は慌ててラケットバッグを探したが、サブのラケットを忘れてしまったようで固まってしまっている。  ラケットがなく、試合が続行できなかったら棄権をするしかない。  会場にいる人の視線がすべて男の動向に向けられていた。  (これはチャンスだ)  僕の足は自然と男に向かった。  『よかったら僕のラケット使っていいよ』  『……いいの?』  『うん、もう試合終わったし』  『ありがとう』  黒の大きなキャップを目深にかぶっていたけど、彼の白い歯がとても印象的だったのを覚えている。  男は見事、僕のラケットで勝利をした。  しかもあれよあれよと決勝まで駒を進め、本来なら午前中で帰れるはずだったのに僕は最後まで一人会場に残ったのだ。  とんだ貧乏くじである。  だがラケットを貸した僕を部員と顧問は褒めてくれたので、目的は達成できた。  (あの子、まだテニスやってるかな)  顔も名前も忘れてしまったけど、すごく上手かったということだけは覚えている。テニスを続けていれば、どこかで会えるかもしれない。  でも、きっとあの子は幻滅する。  僕はやさしい人間だからラケットを貸したんじゃない。周りから褒められたくて、やさしい人間のふりをしているだけだと。  出来のいい兄ちゃんを持ったせいで、僕は人一倍プレッシャーを強いられた。  勉強も運動もリーダーシップもある兄ちゃんとなにかと比べられ、僕が失敗するたびに両親は落胆していた。  僕も褒めて欲しい。  たったそれだけのために、善行な行いをして、自分の評価を上げているだけなのだ。  僕はそういう小狡い人間である。  「細貝とはすぐ別れるよ。どうせネタだし、向こうも本気にしてないだろ」  「いやいや、それはどうでしょう」  「それにあの細貝だし。やっかみ多そう」  「確かにそれはあるな」  「でしょ。もうすぐ生徒会総選挙があるし、変な噂は困るもん」  夏休みに入れば、そこで噂は一端途絶えるだろう。その間に別れてしまえば、新学期になったら誰も覚えていないはずだ。  そうすれば僕は元の平穏な生活に戻れる。  「有馬部長、終わりました」  声をかけられて僕ははっと意識を取り戻した。一年生たちが不安そうに僕を見ている。  コートの外で一年生に素振りを教えている途中だったと思いだし、僕は慣れた笑顔を浮かべた。  「オッケー、それで完璧。グリップの持ち方は覚えてるかな? 肩の力を抜いて腰を回すイメージで振ってみて。次はバックハンドを三十回やってみようか」  「はい!」  僕が指示すると一年生たちは素振りを始めた。フォームを細かくチェックしながら適宜指導をするとみんな素直に従ってくれる。 素振りを終え、部活開始時刻から三十分経っていた。  (それにしても細貝遅いな)  日村先生となんの話をしているのだろう。  (って、僕には関係ないことだし)  僕は犬のようにぶんぶんと頭を振って雑念を追い払った。  「じゃあ二年と交代してラリーやろうか。モト!」  「オッケー。じゃあオレたちは外周行くぞ!」  モトがラリーをしていた二年生たちに声をかけると、ぞろぞろとみんなコートを出て行く。  今日は水曜日なので三面あるコートのうち一面しか使えない日だ。残り二面は女子テニス部が使っている。  男子だけで三十人ほどいるため、学年ごとに分けて練習をしないと全員がボールを打てない。  僕たちの代で古き因習をなくした結果だ。三年生がいないいま、下級生たちはのびのびしている。  一年生たちにラリーを見ながら指導していると「きゃあ」と黄色い歓声がコートに響いた。  入口に視線を向けると、ラビットのユニホームを着た細貝が僕らの方へ歩いて来る。入口側の女子部員がモーゼの如く細貝に道を譲り、歓喜の声をあげた。  「人数これだけ?」  細貝が僕たちの元まで来ると、一年生の背筋がピンと伸びた。  県大会でさらりと優勝した細貝は一年生の憧れの的だ。テニス経験者で細貝を知らない子はいないだろう。羨望の眼差しを受けても細貝は無表情のままだ。  「二年はいま外周走ってる。おまえも行って来いよ」  「でも有馬はコートにいるんでしょ?」  「一年生に教えないといけないからね」  「ふ~ん」  細貝は興味なさそうに一年生を見回し、肩にラケットをかけた。  細貝がコートに立っているだけでも迫力がある。張りのある二の腕とふくらはぎが、スポーツ選手としての貫禄を示していた。  気怠そうな姿勢なのにどこか様になっているのは本物の王者だからだろうか。  「あの、細貝先輩!」  一年生の山本が声をかけると細貝はちらりと視線を向けた。  「いまラリーしているんです。よかったら……細貝先輩にも教えて欲しいです」  顔を真っ赤にさせながら訴える姿はさながら小動物のようだ。  山本は細貝に憧れて船城に受験を決めた。小学校からテニスをしていて、一年生の中で一番上手い。というか僕より実力はある。まだランキング戦はやってないけど、山本の腕前ならすぐレギュラーを取れるだろう。  だが細貝はじっと山本を見たあと、後頭部を掻いた。  「やだよ」  水を打ったように僕たちの周りだけ静かになる。誰もが息を潜めていた。  赤かった顔が瞬時に青ざめてしまい、山本は肩を震わせた。  「……すいません」  俯いてしまった山本の表情は見えない。けれど僕より小さな身体を縮こませていた。  勇気を出して言ったのだと誰が見てもわかる。  「もうちょっと言い方があるだろ!」  僕の怒声に切れ長の目を丸くさせた細貝は首を傾げた。  「事実を言っただけだ。どうして非難するんだ」  「言い方に気を付けろって言ってるんだよ。山本が傷ついてるのわかんないの?」  「あ~うん、ごめん」  薄っぺらい細貝の謝罪は心が籠ってない。僕が注意したから仕方なく言った、というのが目に見えてわかる。  山本を始めとした一年生全員の視線が異物を見るように細貝に向けられていた。  細貝は転がっていたボールを拾い、ラケットに乗せぽんぽんと跳ねさせている。まるで気にしていない。  空に飛ぶボールは美しすぎる直線を描き、ラケットに戻っていく。  二、三回それを繰り返しフェンスより高くボールを飛ばし、細貝は長い腕を伸ばしボールを掴んだ。  「これ、返す」  「まだ話は終わってないよ!」  「……俺の気持ちは変わらない」  ボールを僕に渡した細貝はさっさとコートを出て行ってしまった。  残された僕たちは呆然と細貝の背中を見送るしかなかった。    「酷いと思わない?」  部活終わりの部室で、モトに細貝とのいざこざを話した。さすがに部長という立場上、細貝に対する不満を他の部員に聞かれるわけにはいかず、部室には僕とモトの二人だけだ。  話を聞いてくれたモトはうーんと腕を組んでいる。  「確かに言い方は悪いよな」  「でしょ? 山本かわいそうだったよ」  「スポーツ推薦を蹴ってまでうちに来たもんな」  「だからあんな態度されたから、すごく傷ついてると思う」  細貝がいなくなったあと山本を慰めたが、彼の心にまで届いたかわからない。憧れの人から拒絶は辛いだろう。  「今日、細貝は外周に参加してた?」  「そういや来てないな。荷物もないしもう帰ったんだろ」  部室には細貝の荷物置きスペースはあるが一度も使われたことがなく、他の部員が占領していた。その部員の荷物がそのままあるので、細貝は部室には来ていないのだろう。  というか部室の場所すら知らない可能性がある。  はぁと僕は大袈裟に溜息を吐いた。このムカつきも一緒に消えてなくなればいいのに逆に増えていく。  (やっぱり細貝は嫌いだ)  思ったことをはっきり口にして、周りの空気などお構いなしにやりたいことを貫き通す。小さな子どものようにわがままだ。  それでも実力があるから見逃されてきた。特に大人たちからは、神輿に担ぎあげられている気がする。  日村先生がいい例だ。  日村先生は僕たちの練習を見に来てくれず、放置している。けれど大会では細貝にべったりとくっついて、まるで二人三脚で練習してきたという雰囲気を出すのだ。  そんな日村先生に先輩たちは呆れ、細貝への当てつけが強くなる気持ちは理解できてしまう。  実力がある分、タチが悪いのだ。  僕がどれだけ努力しても細貝のようにはなれない。  求められる「有馬遊聖」としての存在価値を確立させるために、僕は死ぬほど努力をしてきた。  やりたくないことを進んでこなし、周りからいい人と評価されるような言動をしている。  細貝のようにわがまま三昧でいたら、実力のない僕はすぐにそっぽを向かれてしまうだろう。  細貝への嫌悪が増す。それは同じくらい自分の内側にも向かっていき、風船のように膨らむ。  息苦しくて僕は喘ぐように口を開いた。  「……別れたい」  「いいんじゃね。別れても」  「そこは止めないんだ」  「止めて欲しいの?」  「全然、まったく、これっぽっちも」  「なんだよ、それ」  「早く別れて昨日までの僕に戻りたいよ」  細貝、という目の上のたんこぶのことなど気にせず、部長として学級委員として応えられる自分でありたい。そうやって安心感を得て、自分の存在価値を確かめたいのだ。  モトはペットボトルをぐいっと煽ってから口を拭った。  「でもさ、細貝って冗談でも誰かと付き合うような性格じゃないだろ。もうちょっとあいつのこと知ろうとしてもいいんじゃない?」  「それは僕の得になるの?」  「わからん!」  「なんだよ、それ」  無責任なモトの言葉に笑ってしまった。でもその羽根のように軽い言葉は、僕の気持ちを持ち上げてくれる。  (でも細貝を知って意味があるのかな)  僕にはそれがわからない。  まだまだ話足りなかったが、モトは塾があるのを忘れていたと帰って行き、僕は部室を施錠してから駐輪場に向かった。  最終下校時間を過ぎてしまったので駐輪場には誰もいない。だから嫌でもその存在は目についてしまう。  「……細貝」  自転車の荷台に座っていた細貝は僕の気配に気がついて、スマホから顔を上げた。  「遅かったじゃん」  「どうしているの?」  「一緒に帰ろうって言っただろ」  「知らないよ」  勝手に細貝が決めていただけで、僕は了承していない。  頭を抱えたくなったがなんとか耐えた。  「ラビットは?」  「まだちょっとだけ余裕ある」  「……わかった。一緒に帰るよ」  二人きりなら別れ話をしやすいかも。  モトには細貝のことを知った方がいいと言われたけど、どれだけ細貝のことを知っても胸の中のわだかまりがなくなるとは思えない。  僕たちは自転車を押しながら駅まで向かった。自転車なら十分ほどの距離なのに歩くとその倍はかかる。  六時を過ぎてもまだ空は明く、吹く風は熱気を孕んでいた。  隣を歩く細貝の短い髪が清流のような煌びやかさで後ろに流れていく。  僕は決意を込めて顎を引いた。  「あのさ、話があるんだけど」  「別れ話なら聞かないよ」  つんと唇を尖らせる細貝は僕を非難するように目を細めた。  どうやら僕の思惑に気づいていたらしい。  「まだ俺のことなにも知らないくせに」  口が悪くて、態度がデカくて、テニスが上手い。細貝を表す言葉はそれだけで十分足りる。  だがそんなオブラートにも包んでいない本音を言えるはずもない。  細貝は続ける。  「教室でちゃんと言えなかったんだけど、俺は有馬のこと好きだよ」  「は?」  「有馬のことが好き。恋人に立候補したのはその場のノリとかじゃない」  まっすぐに向けられる黒い瞳は、強い光を放っていた。だから逸らせない。縫いつけられたように細貝と視線が絡み合う。  『有馬の恋人に俺が立候補してもいいか』  教室での細貝は確かに顔を赤らめていた。クールな細貝が照れているギャップに、僕は不覚にも可愛いと思ってしまったのだ。  二度目の胸の高鳴りは、さっきよりも大きく鳴っている。  「どうして僕なの? いままで話したことないよね?」  「話すと長くなるから小出しにする」  「ちゃんと言ってよ」  「えぇ〜ちょっと待って」  歩くのを止めて俯いてしまった細貝のつむじを見上げた。イケメンはつむじの形まで整っているらしい。  (てか冷静に考えたら、恋人に「僕のどこか好きなの?」て訊いてるバカップルみたいじゃん)  じわじわと僕の耳が熱くなる。そんなつもりじゃなかった。別にどこを好きになったとか聞きたかったんじゃなくて、どうして好きになったのか理由を知りたいだけだ。  (いや、それも同じ意味だ!)  墓穴を掘った。  今更ながらとんでもないことを細貝に言わせようとしている。  「ごめん、やっぱいいーー」  「日に焼けた少し茶色い髪と大きな目が好き。真面目で頑張り屋のところが好き。面倒見がいいところも好き。笑顔が可愛い。顔がタイプ。それに子どもみたいに笑うところ。笑ったときに見える小さい八重歯がいい」  「え、ちょっと待って」  「それに声も好き。高すぎず低すぎず聞きやすい。クラスをまとめるリーダーシップがあるところもが好き。いつも背筋をピンと伸ばしてるところも好き」  「ちょっと待ってってば!!」  僕は慌てて細貝の口を押さえた。支えを失った自転車が、がしゃんと倒れる。それでも構わず僕は細貝を睨みつけた。  「勘弁してください」  モゴモゴと口を動かされるたびに、吐息が手のひらに触れてくすぐったい。それでも僕が離せないでいると細貝が僕の手首を掴んだ。  長い指が僕の手首を一周してしまう。皮が厚く、ごつごつとしたマメがあるのが皮膚越しに伝わる。  ずっとテニスを頑張ってきた人の手だ。  「ふふんひふ」  「くすぐったい! わかった、もう変なこと言わないでよ」  僕はゆっくりと手を離すと非難するように細貝の両目が細められた。  「有馬がちゃんと話せと言ったんだろ」  「そうだけど……なんか告白されてるみたいで恥ずかしい」  可愛いだの、好きだのと言われて平然としていられるほど僕は図太くないのだ。  顔が熱い。心臓は嫌な鳴り方をずっとしている。  嫌いな奴にこんなときめいているなんて最悪だ。  「なるほど、有馬はそうやって照れるのか」  新しいイタズラを見つけた子どものように細貝は意地の悪い笑みを浮かべた。  どうやら弱味を握られてしまったらしい。  恋愛経験が皆無の僕にとって、細貝のアプローチは刺激が強すぎた。  「顔真っ赤で可愛い」  「だからそういうのやめてよ!」  「思ってることはそのまま言った方がストレスないだろ」  「……細貝に恥ずかしいという感情はないのか」  「ないね」  「どうしてそこまで強気なんだよ」  こんなたくさんの賛辞、親にすら言われたことがない。  初めての感覚に心臓の裏を猫じゃらしで撫でられたようにそわそわしてしまう。  「よし、決めた。これから毎日有馬に告白する。そして俺を好きになってもらう」  「無理です、勘弁してください」  「俺は本気だ。でもずっと、というのもあれだよな……じゃあ三か月と期限を決めよう」  「なんの期限だよ」  細貝の思考回路が読めない。ただでさえこっちは羞恥心に煽られてまともに考えられないのだ。少しは落ち着く時間が欲しい。  細貝はゆっくりと唇を開いた。  「今日から三か月、毎日有馬に気持ちを伝えて、俺を好きにさせてみせる。けど三か月経っても好きになれなかったら振っていいよ」  「てかいますぐ別れたいんだけど」  「それはだめ。俺がどれだけ有馬を好きか知って欲しい」  「知っても僕の気持ちは変わらないよ」  「有馬が俺のこと嫌いなのは知ってる。教室であんな風に言われたら断れないこともわかって言った。だから俺なりの譲歩だよ」  つまり細貝なりに僕の気持ちを尊重してくれて、三か月という期限を設けてくれたということなのだろうか。随分上から目線の提案だけど。しかも嫌っていたことも気づかれているし。  (嫌われているのを知ってて、よくここまで強気に出られるよな)  改めて細貝の気の強さに感心してしまう。  細貝のこと嫌いじゃないよ、といつもの僕なら言えるだろう。でも今日の山本への態度とか、いままでの言動を思い返すと僕の唇はそう簡単に開いてくれない。  僕が返事をできないでいると細貝は勝手に続けた。  「じゃあ今日の気持ち。そうやって驚いた顔も可愛い」  「聞きたくない!」  「照れちゃって可愛いな」  「やーめーてー!!」  細貝の口説き文句は駅に着くまで続いて、僕の心臓は鳴りっぱなしだった。

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