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第2話

 「デートしよう」  部活帰り、今日も駅までの道を細貝と自転車を押しながら歩いていた。三回目なのでだいぶ慣れてきてしまっている。  直前まで終業式の話をしていた。校長の話ってなんで無駄に長いんだろうね、と笑っていたのに、「デートしよう」という言葉に、僕は聞き間違いをしたのだと思った。  「新商品のお菓子の話?」  「なに言ってるんだよ」  「ゲームの技名?」  「変な技名だな。てか、有馬動揺しすぎだろ」  足を止めた細貝は口元に手を置いて、笑いを堪えている。  「え、だって。デートってカップルがお出かけする楽しいイベントだよね?」  「だいぶ思考が戻ってきたな」  僕の人生の中で一度も発生したことのないイベント名だ。僕は心の中で「デート」と言うと頬がじんわりと熱くなる。  細貝が先に口を開いた。  「明日から夏休みだし、部活も午前中で終わるじゃん。だからデートしよう」  「なんで僕と細貝が?」  「だって有馬と出かけてみたいし。俺ら一度も遊んだことないじゃん」  「そうだけど」  「俺には三か月しかないんだ。一日だって無駄にできない」  「それは細貝が決めたんでしょ」  「なら期限を延ばしていいの?」  「やだ」  「ならデートして学校とは違う俺を見て。好きになるかもしれないよ?」  「どこからそんな自信出てくるんだ」  細貝はかなりの自信家だ。自分の選ぶ選択肢は絶対に間違っていない、例え間違っていたとしても自分の思う通りにしてやるという気概を感じる。  嫌いなのに付き合ってしまった僕がいい例だ。  細貝の思惑の通りデートなんてしたら、ますますカップルっぽいではないか。  なんだか外堀を埋めようとしている気がする。  「明日はちょっと」  「予定がある? それなら別の日にしてもいいけど」  「てかずっと無理」  「それじゃ俺の気持ちが伝わらないじゃん!」  イヤイヤ期の子どものように首を振る細貝に目を瞠った。こんな風に感情を露わにするキャラだっただろうか。  細貝が教室で大声を出しているところを見たことがないし、というか笑った顔すらないと思う。  人形のようにただそこに存在しているだけ。それが細貝陽という人間だ。  (こんな風に感情を表す奴だったんだな)  確かに一緒にいる時間が長ければ細貝の新たな一面を知れる。  だからなんだ。  どれだけ細貝のことを知っても、僕の心にこびりついた嫌悪はそう簡単になくならない。  僕は大袈裟に溜息を吐いた。  「こうして一緒に帰って時間を作ってあげてるじゃん」  「それだけじゃ足りない。もっと可愛い有馬といたいよ」  「あ~はいはい」  細貝は毎日気持ちを伝える、と豪語して以来「好き」だの「可愛い」だのとたくさん言ってくれる。  だけど回数が多すぎる分、プレパラートのように薄っぺらいのだ。  細貝の言葉は嘘ではないのだろう。軽く言っているように見せかけて、僕の反応を窺っているのが目を見てわかる。  (きっと僕が細貝を嫌っているから、心が理解することを拒んでいるんだろうな)  嫌いなものを好きになるのは難しい。僕は小学生のときからピーマンが嫌いで、以来、一度も食べていない。  栄養がある、美味しいと言われても「嫌い」と印象づけてしまったピーマンは、毒々しいもののように見える。  僕からしてみれば細貝はピーマンと同じなのだ。  いくら細貝が言葉を重ねてくれても、僕の心にまで届かない。  最初の告白は驚いて動揺しただけだ。あれ以降、僕の胸は平穏を保っている。  「いいから帰ろう。遅くなっちゃう」  「遅くなるとマズイ?」  「まぁね。うちは門限とかあるし。てかラビットって何時から? そろそろマズイんじゃない?」  僕が訊くと細貝は目をぱちくりとさせた。  「俺のこと、心配してくれるの」  「別にそういうわけじゃ」  ただ思ったことを口にしただけだ。この後、ラビットがあるのは知っていたからで、深い意味はない。  ほら、あれだ。  明日の天気を訊くような、軽くて薄っぺらい会話と同じくらいの熱量だ。それなのに細貝は暗がりでもわかるくらい目を輝かせている。  「有馬が俺に興味を持ってくれて嬉しい」  「……このくらい友だちでも聞くだろ」  「いや、大きな一歩だよ。あ~嬉しいな。有馬、大好き」  「なんでそうなるの!!」  細貝は目尻をめいいっぱい下げて笑うので、僕は罰が悪くて唇を閉ざした。  それから歩いて五分ほどで駅の駐輪場に着く。細貝は嬉しそうに「大好き」を連呼していたので、徹底的に無視していると「そういうツンなところが新鮮でいいな」としみじみしている。どこまでもお花畑らしい。  改札口は人で溢れている。細貝の家とは反対方向なので、ここでお別れだ。  「じゃあね」  「ちょっと待って。あと少しだけ」  「なんだよ、もう!」  細貝にラケットバックを引っ張られ、僕は渋々人の少ないみどりの窓口の前に連れて来られた。  「まだデートの日取り、決めてない」  「明日も明後日もずっと無理!」  「ちょっとだけでもいいからデートしようよ。せっかく付き合ってるんだし!」  「声大きいよ!」  僕は慌てて周りを見回した。帰宅ラッシュの駅は人で溢れ返っている。僕たちと同じ制服を着た生徒だけでなく、近隣の学校の子も大勢いる。  細貝は他校でも顔と名前が知られているくらい有名だ。すでに男の恋人ができたという噂は広まっている可能性は高い。でも相手が僕だということまでは知られていない、はずだ。  付き合って二日で船城のほとんどの生徒には知れ渡ったってしまったので、他校にまで広まるのは時間の問題だろう。  それでも最後の悪あがきというべきか、自分から口外したくない。  どうせ別れるつもりなんだから。  僕は辺りを見回し、誰にも聞かれていないことを確認してほっと胸を撫で下ろした。  「そんなに俺と付き合ってるの恥ずかしい?」  「恥ずかしいとかじゃなくて、僕の体裁の問題」  「よくわからん」  「細貝にはわからないよ」  なんでもできてしまう細貝には人を魅了する力がある。空っぽの僕は周りの視線に怯えながら求められる像を振舞わなければならないのだ。  細貝は大きく息を吸い込んだ。  「俺は! 有馬悠聖と……ぐふっ」  「大声でなに言おうとしてるの!?」  僕は慌てて細貝の口を押えた。なんだか前にもやったことがある気がする。  歩いていた人たちが、ぎょっとして僕たちの方を見ている。改札口横にあるガチャガチャを眺めていた小さな子に指まで差されてしまった。恥ずかしくて消えてなくなりたい。  もごもごと話している細貝を睨みつけると観念したのか両手をあげた。渋々、手を離す。  「じゃあ明日デートしてくれたら静かにする」  「……わかった。行くよ。だからもう大声出さないで」  「やった」  小さなガッツポーズをしてくしゃっと笑う細貝があまりに無邪気なので呆けてしまった。  「そんなに僕と出かけられて嬉しい?」  「当たり前じゃん」  なにを訊いているんだ、とばかりに細貝は首を傾げた。こういう感覚が僕にはわからない。  細貝は白い歯を覗かせた。  「まだ伸びしろがあるってことだな」  「ありません」  「じゃあ明日のことはあとで連絡するな」  細貝はさっさと改札口を通って行ってしまった。大きなラケットバッグが人混みに紛れて見えなくなる。でも周りより頭一つ分大きいからすぐ見つけられた。  細貝は階段を降りるとき、僕に向かって大きく手が振った。  目尻を下げて嬉しそうな表情に釘付けになってしまう。  (あんなだらしがなく笑っちゃって)  僕に暴言を吐かれても、何度突き離されても細貝はつくしのように立ち向かってくる。  不屈な精神だと感心する一方で、こんなに誰かに求めてもらったことがないのでむず痒い。臓器がぞくぞくするような変な感じがする。  僕はほとんど無意識に手を振り返した。それに気づいた細貝は目を大きく開いたあと、にかっと笑って階段を降りていった。  「なんで、手なんて振り返したんだろ」  自分の行動が信じられず、手を見下ろした。なんの変哲もない手をじっと見つめていると、なぜだか細貝の顔が浮かんでしまうのだ。  僕は風呂から出て自室でショート動画を見たり、友人たちのインスタにいいねをつけて回っていた。これといった趣味がないので、暇な時間があればいつもスマホを触っている。  それも終わってしまうとやることがない。  (明日、本当にデートするのかな)  ついインスタでおすすめのデートスポットを検索し、遊園地だの映画だのと文字を見て細貝の顔が浮かぶ。  細貝と遊園地で遊んだり、映画を観たりする像がうまく描けない。  きっと僕の脳が大嫌いな細貝の存在を拒否しているのだろう。  画面を適当にスクロールしていると、デートにおすすめファッションという画像が飛び込んできた。  (細貝はどういう服装で来るんだろ)  カジュアル系も似合いそうだし、襟のついたシャツで大人っぽくまとめているのも合う。それともヤンチャ系でタンクトップと短パンとか。ないない。  あれこれと脳内で細貝を着せ替えていて、はっと我に返った。  「なにしてんだよ」  まるでデートを楽しみにしているみたいじゃないか。でも変な服装で来られるのも嫌だしな。  てか僕も私服か! オシャレな服なんて持ってない。どうしよう。  クローゼットをひっくり返しているとスマホがぶぶっと震えた。細貝からのラインだ。  《明日は十二時にいけふくろう集合。昼は現地で食べよう》  絵文字もスタンプもない簡素なメッセージだ。しかも細貝のアイコンは初期設定のままである。いかにも細貝らしい。  (池袋ってことは映画でも観るのかな)  いま放映している映画を一通り調べ、流行りのアニメやアメコミの実写など興味がそそられる作品がいくつかある。  それかボーリング場、カラオケ、水族館、ゲーセン巡りもいいな。池袋はテーマパークのように遊び場に事欠かない。  「てかこういうのってどこに行くのか相談するんじゃないのかよ」  僕の都合などお構い無しの提案だ。細貝が一人で勝手に決めてしまうので僕は意見を挟む余地すらくれないらしい。  けれどなにをしたいか訊かれても困ってしまう。なら決めて貰えたほうが楽なのだろうか。  (でも一言でも相談して欲しかったな)  細貝らしい自己中さではあるけど。  「……さっさと寝よ」  僕はスマホをベッドサイドに置いて布団をかぶった。  夏休みの練習時間は熱中症対策のため朝が早い。七時から九時までを一部、九時から十一時までを二部と呼んで男女交互にコートを使うことになっている。  夏休み初日の今日は、男子テニス部が一部だ。  高校の最寄り駅から駐輪場まで歩いているだけでシャツが湿ってくる。  ダラダラと歩いていると見慣れたラケットバッグを見つけて、僕は駆け出した。  「おはよう、モト。電車同じだったんだね……てか寝癖酷いよ」  「はよ〜。直す時間もなかったわ」  「朝早いもんね」  「本当それ。せっかくの夏休みなのに五時半起きはきつい」  モトは目をしょぼしょぼとさせている。夏休み初日だと張り切って、夜遅くまでゲームをしていたんだろう。  学校まで自転車で向かい、コートに着くと一年生が率先してコート整備をしてくれていた。  辺りに視線を巡らせているとモトに脇腹を突かれてその手を叩く。モトは大袈裟に痛がる素振りをするので、一年生たちが驚いていたが僕は「気にしないで」と笑顔で返した。  モトがクツクツと肩を震わせている。  「相変わらず外面がいいことで」  「余計なことしないでよ。てかなに?」  「彼氏をお探しですか?」  「……別にそういうんじゃない」  「今日は来ないってグループライン来てたぞ」  「え、本当?」  僕はポケットに入れてあるスマホを取り出してラインアプリを開くと細貝が「スクールに行くので休みます」ときていた。こんなこといままで一度もない。  細貝が練習に来ないのはデフォルトなので、わざわざ連絡してくるとは驚くべき変化だ。  「細貝、すげぇじゃん。去年とは別人だな」  「でもなんで送るの? 別にいままで一度もなかったよね」  「そりゃ有馬に好かれようと必死なんだろ」  「なんでそうなるの?」  「戦略を変えたんだよ」  モトの含みのある言い方は細貝のことをよく知っているようだ。なんだか面白くない。  「モトは細貝のなにを知ってるの?」  「あれあれ? 嫉妬ですか?」  「違うってば!」  「わー怒った。逃げろ!!」  「ちょっと、モト!」  モトは脱兎のごとくコートに向かって走り出し一年生の影に隠れている。僕が人の目がある中、モトを叱れないことに気づいているのだろう。  「なんなんだよ、あいつ」  僕の独り言は誰にも聞かれることなく、青空に溶けていった。  「お疲れ様でした!」  「水分補給してから帰ってね」  「はい!」  練習終わりに僕が締めの挨拶をすると、気持ちのいい返事が返ってくる。  部員全員を見渡し、期待のこもった視線を向けられると部長としての責務が重くのしかかった。膝が折れてしまいそうになり、ぐっと奥歯を噛みしめる。いつものことだ。  女子と入れ替わるようにして僕たちは部室に向かった。  部室は全員が入れる広さはあるが、三十人弱が一気に入ると狭くなる。最初に一年生が着替えて、あとで二年生が使うというルールを設けているため、きっと今頃一年生たちが急いでいるだろう。  僕とモト、他の二年生三人で自販機横にあるベンチに座り、一年生の着替えを待っていた。  モトが炭酸のプルタブを開けるとぷしゅっと心地よい音がする。  一気に煽ったモトは「くーっ!」と声をあげた。  「なぁこのあとカラオケ行かない?」  「いいね!」と他の三人が頷く。  「フリーでダラダラしようぜ。なんてったって夏休みだし!」  九時に練習が終わったので一日はまだ始まったばかりだ。体力も気力もある若い高校生が、このまま真っすぐ帰るはずがない。  隣に座っているモトが僕の方を向いた。  「有馬も行くだろ?」  「僕は……」  「あ、もしかしてデートですか?」  ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべるモトを睨みつける。他の部員たちも「細貝と付き合ってるんだもんな」と乗ってきた。  (完全にネタだと思われてる)  ここでデートのことを言ったら本当に付き合ってると思われる。夏休み中にひっそりと別れて、新学期を迎える僕の計画がパアだ。  三か月と細貝に言われてるけど、そんな約束守る義理もない。  これ以上僕と細貝をセットで見ないで欲しい一心で、僕は口を開いた。  「僕もカラオケ行く」  「マジで約束してないの?」  「してない」  モトの問いに僕は力強く頷いた。  (そういえば昨日のメッセ、返事してないや)  細貝から池袋に集合、というメッセージを既読にしただけでスタンプの一つすら返していない。  僕が返事をしていないから、流れたと思っているだろう。どうせ向こうもそんなに期待していないはずだ。  「一年、着替え終わったみたいだな。おれたちも行こうぜ」  モトに言われるがまま僕たちは部室に向かった。  カラオケルームに入室するとモトが怒涛に曲を入れるので、強制的に歌わされた。しかも点数が悪い二人が奢りだと無理難題を押しつけてきた。みんな必死だ。  歌は得意ではないけど、苦手でもない。可もなく不可もなく歌い上げるとそこそこの点数は取れる。  ビリは免れそうだ。  「ちょっと休憩。メシにしよう」  言い出しっぺのモトがマイクをテーブルに置いて、代わりにメニューを広げた。空腹をずっとドリンクで凌いでいたが、そろそろ限界にきている。  「いま何時?」  「えっとね」  隣の部員に声をかけられ、僕はポケットからスマホを出した。十三時という文字を見て、冷水を浴びせられたように全身が冷えた。  細貝との約束から一時間過ぎている。  しかも細貝から怒涛のメッセージと着信がきていた。僕がスマホを見た瞬間にもきて、応答する前に充電が切れてしまう。  (やばい。行かないって返事してない)  カラオケに来てから、あれよあれよと歌合戦が始まってしまい、スマホを触る時間すらなかった。  いや、こんなのは言い訳だ。  僕は細貝よりモトたちを優先した。  (僕が来なかったら帰るよね)  連絡もせず、現地にも来なかったらさすがに細貝も呆れるかもしれない。もしかして向こうが嫌になって別れを切り出してくる可能性もある。  (このままにするのも悪くない選択なんじゃないか)  僕がスマホを睨みつけたまま固まっていると部員が首を傾げた。  「どした?」  「ううん、なんでもない。いまは一時過ぎだよ」  僕はスマホをポケットにしまってメニュー表に視線を向けた。いつもは気にならないスマホの存在を嫌でも意識してしまう。  「俺はジャンボカツカレー」  「ラーメンとチャーハン」  「焼きそばとフライドポテト」  部活後ということもありみんなよく食べる。各々食べたいメニューを叫ぶので僕はタブレットで注文した。  「有馬はなに食う?」  「僕は……」  モトに問われてメニューに視線を向けると昼は現地で食べようとメッセージをくれた細貝の顔が浮かぶ。  頬を赤らめて照れくさそうな顔を思い出し、呼応するように胸が締めつけられる。  僕はタブレットをモトに渡した。  「ごめん、用事思い出したから帰る! 金は明日払う」  「有馬!?」  「本当ごめん!」  ラケットバックを持って僕は駅に向かった。  外は運悪く雨が降っていた。通り雨だろう。雲はどんよりとした鼠色をしていて、湿度の高い風が吹いている。  カラオケから駅までの僅かな距離を走っただけで、シャワーを浴びたようにびしょ濡れだ。  電車に飛び込むと今度はクーラーの風が直に当たって寒い。ラケットバッグからタオルを出して乱暴に拭いていると、隣に立っていた女の人に迷惑そうな顔を向けられてしまった。  (いるわけない。絶対もう帰ってるだろ)  でももしかしたら待たせているかもしれない。不安が僕の背中を急かす。  電車内で走り出したい衝動を抑えながら、雨が降り続けている窓の外に視線を向けた。  扉が開くと同時に電車を転がり降りた。ホームの時計は三時を指している。  中央口を出て、いけふくろうまで走った。平日でも人通りが多く、何度も人にぶつかる。重たくてかさばるラケットバックが邪魔で仕方がない。  ようやく着いたいけふくろうの前にはたくさんの人がいた。カップルや友人同士、家族連れが誰かを待っている。どこか期待を滲ませた横顔は、なぜかみんな似ている。  細貝も同じように待ってくれていたのだろうか。罪悪感で胸が苦しい。  (細貝、細貝……)  いけふくろうの周りをぐるりと一周したが細貝の姿がない。背が高く、嫌でも目立つ細貝を見逃せるはずがない。 諦めきれずにもう一周したけど、やっぱり細貝の姿はなかった。  (さすがに呆れて帰っちゃたかな)  嫌われてよかったじゃん。元々細貝のことが嫌いで、別れるつもりだったのだ。   望んだ通りになった。だと思うのに、僕の心がぴしぴしと音をたてて亀裂が入る。  どうしてこんなにも痛むのだろう。  自分でもわからなくて、胸元のシャツをぎゅうと握りしめた。  「有馬?」  振り返ると黒のシャツとハーフパンツ姿の細貝が立っていた。いや、グレーのシャツだ。裾と肩の部分が不自然なグラデーションになっている。  細貝の全身はびっしょりと濡れていた。毛先に水滴がつき、ポタポタと床に吸い込まれていく。  「細貝  僕っ……」  目が合うと細貝は僕の両肩に手を置いた。ぐっと掴まれる力は骨が軋むほど強い。けれど身体は小刻みに震えていて、目には薄っすらと涙の膜が張っている。  「……近くで交通事故があったって聞いて……有馬が無事でよかった」  細貝の声は風で吹いたら消えてしまいそうなほど小さい。掴まれた肩は氷のように冷たく、細貝の不安を切実に訴えてくる。  「スマホの充電切れちゃって」  「うん」  「返事できなくてごめん」  「うん」  「電話もいっぱいかけてくれたのに、出れなくてごめん」  「うん」  「本当に、ごめんね」  「来てくれたからもういいよ」  細貝はへらっと目尻を下げた。涙は乾き、雨上がりの虹みたいな笑顔に僕の胸はとくんと鳴る。  僕の酷い行いをすべて許してくれようとしていた。いま、初めて細貝の深い愛情を見たような気がする。  (本当に僕のこと、好きなんだ)  細貝は三時間以上、連絡もない中ずっと待ってくれていた。どれほど寂しい思いを抱えていたのだろう。  一人、一人と待ち人が来た人を見送るとき、どれほど胸が痛んだだろう。  それなのに僕は細貝を裏切ったのだ。  (最低じゃん)  なにが僕に呆れて別れてくれるだ。細貝はずっと僕を信じてくれた。雨の中、事故が遭ったところまで見に行ってくれるくらい深い愛情を注いでくれていたのだ。  細貝の気持ちを考えるだけで息をするのも辛い。息苦しさに喘いで、ようやく声を絞り出した。  「ごめん。モトたちとカラオケに行ってた」  「楽しかった?」  「それなりに」  「ならよかった」  「怒らないの?」  「ん~連絡は欲しかったなと思うけど、スマホの充電切れてたなら仕方がないかな。それに俺も昨日返事もらってないのに勝手に待ってたしさ」  「ちゃんと昨日返事をしなかった僕が全面的に悪い。ごめんな」  濡れている細貝の前髪が額に張りついていた。それを指で掻き分けてあげると、純度の高い宝石みたいな瞳と目が合う。  じっと僕を見下ろす細貝は瞬きすら惜しい様子で、僕の姿を焼きつけているように感じた。  (細貝の目に動画機能が付いてなくてよかった)  もしそんなものが搭載されていたら、きっと僕の情けない顔が未来永劫残ってしまう。  消してと頼んでも細貝なら喜んでバックアップを取りそうだ。  「ちょっとは俺の気持ち、伝わった?」  細貝は悪戯っぽく僕の顔を覗いた。じわりと頬に熱が持つ。  細貝の言葉がスマッシュのように僕の胸に刺さった。  恋人に立候補されたときよりも、細貝の想いが重みを増して僕の中に落ちる。  「僕を殴ってくれ」  「なんで?」  「細貝の約束をブッチしたから」  「有馬を殴れるわけないだろ」  「じゃあ償わせて欲しい。なんでもするから!」  「なんでも?」  細貝の吊り目が細められる。僕の心を探るような鋭さに怯みそうになったが、大きく頷いた。  「じゃあデートのリベンジさせて」  「……そんなんでいいの?」  「それがいい! 今日だってすげぇ楽しみにしてたんだからな」  「だったら、一緒に考えようよ」  細貝は僕に相談もなく、初デートの場所を池袋に決めてしまった。どんなプランを計画してくれていたかわからないけど、せっかくならどこでなにをするか一緒に考えたい。  全部任せてしまうのは、なんか違う気がする。うまく言葉にできないけれど。  細貝は呆気に取られている。  「考えてくれるの?」  「二人のことだろ」  僕がそう言うと細貝は目を見開いたあと柔らかく細めた。口元がニヤけていて、イケメンが台無しだ。  (でもそんな顔は僕しか知らないんだよな)  自分だけ満点を取ったように誇らしい。学校ではクールな細貝が、僕の言動一つでこんなにも感情を露わにするとは誰か想像できようか。  細貝はぽんと手を叩いた。  「じゃあ初デートの場所をいまから考えようよ」  「それってデートにならない?」  「プレデートだからノーカウント」  「なんだよそれ」  僕が笑うと細貝もくしゃっと笑ってくれた。けれど楽しい空間に茶々を入れるように僕の腹の虫が騒いでしまい、慌てて押さえる。  細貝にも聞こえてしまったようで、目を丸くしていた。ここは開き直るしかない。  「お腹空いた」  「俺もさすがに腹減ったわ」  「お詫びとして僕が驕るよ。待たせちゃったし」  「そんなこと気にしなくていいよ。これから何度も付き合ってくれれば」  恥ずかしげもなくさらりと言ってしまう細貝を肘で突いた。羞恥心をなくした男は無敵である。  地上に出るため階段をのぼると雨は止んでいた。濡れたアスファルトに夏の青空が反射している。  雨に洗われたビルや信号機の彩度が上がったように色がくっきりしている。  見慣れた街並みの違う顔に僕は目を細めた。  「きれい」  「お、日差しも出てきた」  雲の隙間から陽光の梯子が下りていた。そこから天使が現れそうな幻想的な風景にしばし見惚れてしまう。  隣を見上げると同じようにビル群を見渡していた細貝と目が合った。視線が絡むと首を傾げている。  その小さな仕草一つとってもムカつくくらいカッコいい。  誰もが細貝を見て振り返っていた。あのイケメンは誰、と噂している声も聞こえてくる。でも細貝の視界には僕しか映っていない。  (細貝が好きなのは僕なんだよ)  僕は青になった横断歩道を力強い足取りで渡った。  「すげぇ楽しそうじゃん」  「別に。ただきれいな風景を見れて得したなって思っただけ」  「有馬と一緒に見られて嬉しいよ」  「またそういうこと言う」  「だって想いは口にしないと伝わらないって思い知ったからさーーあ」  半歩先を歩いていた細貝は立ち止まって振り返る。  「今日も有馬が大好きだ」  虹を背負った満面の笑顔に、僕の心臓が止まってしまうかと思った。

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