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第3話
地図アプリから顔を上げて、僕は豪邸の前で止まった。かまぼこ板みたいな表札には達筆な字で「細貝」と彫られている。
黒い鉄柵の門の上には防犯カメラが二個ついており、侵入者をいまかいまかと待ち構えているようだ。
あまりに豪華な戸建てに僕はもう一度、細貝とのメッセージを遡った。
初デートの計画を立てた次の日から細貝は熱を出して部活を休んでいる。
具合いが悪いなら下手なことをしない方がいいとメッセージを送らないでいたが、、三日も続けばさすがに心配になってくる。
それに細貝が風邪を引いた原因は僕だ。
池袋で雨に濡れ、そのまま着替えもせずファストフード店で食べた。お店のクーラーが効きすぎていてすごく寒かった。
細貝は何度も腕を擦っていたのでジャージを貸そうとしたけどサイズが合わず、結局計画を練り終わるまでそのままでいたのだ。
(せめてタオルを貸してあげるとかすればよかった)
細貝と初デートの場所を考える時間が思いのほか楽しく、話題が尽きなかったのだ。
きっと細貝は僕に気を使って言わなかったのだろう。
後から後悔がどんどん出てくる。申し訳なさが積み重なってきて、限界を迎えた。
昨夜、見舞いに行きたいとメッセージを送ると細貝は律儀に住所と地図アプリのURLを送ってくれた。
だから部活のあとモトたちのプールの誘いを断り、こうして細貝の家に一人で来ている。
(別に具合いが悪かったら誰でも心配するだろ)
心の中のもう一人の自分にあれこれと言い訳をしてからインターホンを押した。
『……はい』
「あの、細貝くんと同じ部活の有馬ですけど」
『ちょっと待ってて』
少しダミ声だったけど出てくれたのは細貝のようだ。僕はドキドキとする胸を押さえようとしてビニール袋を持っていたことを思い出した。中には細貝への見舞い品が入っている。
ガチャと扉の施錠音の後に扉が大きく開いた。
おでこに冷えピタを貼ってマスクを付けた細貝が顔を覗かせている。目が合うととへらっと目尻を下げた。
「まじで来てくれたんだ」
「そりゃ来るでしょ」
「へへっ、嬉しいな」
「これ見舞い品」
僕は門を開けてビニール袋を渡した。
「うちこういうのないから助かる」
「じゃあお大事に」
「もう帰っちゃうの?」
「僕がいても邪魔でしょ」
明らかに細貝の顔色は悪い。それなのにここで立ち話をさせたら倒れてしまいそうだ。一秒でも早く布団に入って寝て欲しい。
「ちょっと上がっていってよ」
「でも……」
「いま家族いないし」
「余計入りづらいよ!」
僕がツッコむと細貝は目尻を下げた。でもいつもの元気はない。熱のせいか瞳が潤んで、立っているのも辛そうだ。
「じゃあ布団に入るところまで見送る」
「ありがと」
「なんで細貝が礼を言うの?」
「風邪で弱ってるときに、有馬の顔見られたら元気でるじゃん」
「熱でもそんなこと言えるんだね」
「理性というストッパーがない分、暴走するかも」
「それは勘弁して欲しい」
「嘘だよ。暑いし、中入りなよ」
「……お邪魔します」
一歩中に踏み入れるとい草の匂いが僕を出迎えてくれた。家の外壁はグレーで統一され洋風だと思っていたけど、中は和洋折衷な造りらしい。
靴箱の上にある盆栽が高級感を放っていた。
細貝は見たことのないジャージを着ているからパジャマなのだろう。よく見ると後頭部にぴょんと寝癖が跳ねている。いつも完璧な細貝の無防備な髪型に声も出さずに笑った。
「俺の部屋は二階ね」
細貝に案内され、目の前の階段を昇ると正面の部屋の扉は開きっぱなしになっていた。
中を覗くといかにも男子高校生らしい汚さだ。ここに来るまでモデルルームのように埃一つない室内だったので、逆に親近感が湧く。
「結構普通だね」
「一体どんな部屋想像してたんだよ」
「賞状とかトロフィーでごちゃごちゃしてるのかと」
「あ〜多すぎるから全部しまってる」
「自慢ですか」
「でもラビット出身じゃ少ない方。お茶でも飲む?」
「いいから寝てなよ」
細貝の足元が段々覚束なくなっていた。ゆらゆらとやじろべえのように揺れるので、背中を支えてやると燃えるように熱い。
「うわっ、あつ! これ四十度くらいあるんじゃない?」
「そんなにないよ。ん~でも気持ち悪くなってきたから横になる」
「足元気をつけてね」
抜け殻のままのベッドに入る細貝に布団をかけてやった。サイドテーブルにはスマホしかない。
「飲み物ここに置くね。ゼリーは食べる?」
「うん。一緒に置いといて」
「朝、なにか食べた?」
今日の練習は一部で九時には終わったが、スーパーでお見舞い品を買ったり、初めての道に迷ったりしたので、ちょうど十一時だ。昼にはまだ少し早いかもしれない。
「昨日からなにも食べてない」
「え、そんなに食欲ないの?」
「まぁそんなところ」
「親はなにしてんの?」
「仕事してるんじゃない?」
どこか投げやりな言葉に僕は首を傾げた。あまりにも他人事過ぎる。
「俺んち、両親離婚してんだ。ここは父親のじーちゃん、ばーちゃんち。二人は自分たちの病院行ってる」
「二人とも細貝の風邪が移ったの?」
それほど重病なのだろうか。高齢者の風邪は命取りになると聞いたことがある。
だが細貝は首を振った。
「腰痛のリハビリ。もうすぐ戻って来ると思うけど」
「こんな熱がある細貝を置いていくなんて酷いじゃん」
「雨風凌げる家を提供してくれて、ラビットにも通わせて貰ってるから。これ以上贅沢は言えないよ」
細貝がそんな複雑な家庭環境に身を置いているなんて知らなかった。
テニスが上手くて、クールで、頭がいいという記号が細貝陽という血の通った輪郭を持ち始める。
そして細貝の口ぶりからあまり家が好きではないのを感じた。僕と一緒だ。
「細貝も結構苦労してんだね」
「なんだよ、それ」
「テニスが上手くて頭がよくてカッコいいサイボーグなのかと思ってた」
「有馬にとって俺、カッコいい部類に入るの?」
「気になるのそこ?」
「だって大事だろ。俺の容姿が有馬の好みならアドバンテージじゃん」
「別に好みってわけじゃ」
「じゃあどういうのが好きなの? 俺、合わせるよ。有馬の好みになりたい」
「おいおい、熱で考えがおかしくなってるよ」
僕は笑ってみせたが、細貝は真顔だ。僕が答えない限り譲らない腹積もりなのだろう。
ゲイと自覚したきっかけは、当時売れていた男性アイドルを好きになったからだ。切れ長の瞳と背の高いその人は、クールビューティーと呼ばれていた。
どことなく細貝と雰囲気は似ている。
確かに見た目だけでいえば、細貝は僕の好みのドストライクだ。でもそんなことを素直に口にするわけにいかない。
別れるつもりなのに期待させるような真似は酷だろう。
「特に好みはないよ」
「じゃあ性格は? やさしいのとか、オラオラ系とか束縛系とか弟系とか」
「そんなのわかんないよ」
だって初恋すらしたことないのだ。ずっと自制をして、誰も好きにならないようにしてきた。
それなのにタイプを訊かれたら困る。
でもやられっぱなしは面白くない。
「細貝はどういうのがタイプなの?」
「そんなの有馬一択」
墓穴を掘った。僕はどうしてこう考えが浅はかなのだろう。
細貝が僕のことを好きなら、好きなタイプも僕に決まっているじゃない。いや、なんかそんな考え自惚れっぽいな。
細貝は続ける。
「有馬みたいに目がくりくりってしてて、有馬みたいに俺の腕の中にすっぽり入りそうなサイズがいい。あと有馬みたいに努力してる人もよくて……有馬だったらなんでもいいや」
「熱あるとは思ないくらい饒舌に喋るね」
「本当はもうちょっといろいろあるんだけど、あんま上手く頭回ってないや。伝わってる?」
「……充分過ぎるくらい」
僕は熱くなった頬を冷ますように手で扇いだ。
(どうして僕みたいのなんか好きなんだろう)
僕は細貝と違って、平凡だ。どれだけ努力しても一流には敵わない、サブで、モブのその辺に転がっている石ころと同じくらいの価値しかない。
でも石ころ並みにプライドはあって、不相応だとわかっているけど月に憧れてしまっているのだ。
そんな恥知らずの僕を見つけてくれる月がいるなんて思わなかった。
「細貝……」
名前を呼ぶと細貝はうつらうつら眠っていたらしい。重そうな瞼を開けて、僕を見ると「ごめん」と起き上がった。
「せっかく有馬が見舞いに来てくれたのに寝るとこだった」
「いいよ。まだ本調子じゃないんだろ。もう帰るからゆっくり寝てなよ」
「目が覚めちゃったから、寝るまで手繋ぎたい」
「えぇ……」
「それ以上なにもしないから」
「なにかされたら怒るわ!」
細貝は布団の隙間から手を差し出したので僕はおずおずと長い指先を掴んだ。誰も見ていないから、恋人らしい振る舞いをする必要はない。
けれど、誰かに求められると嬉しくなってしまうのは、人間なら誰でもあることだと思う。
「ふふっ、有馬はやさしいな。だから俺みたいのにつけ込まれるんだよ……そういうやさしいところ大好き」
ぎゅうと手を掴まれたのに僕の心臓も鷲掴みにされたような錯覚を覚えた。
「毎日よく飽きないね」
「まだまだ言い足りないくらい。俺の気持ちが目に見えたら、有馬ビックリして逃げちゃうかも」
「……細貝って結構粘着質だよな。一歩間違たらストーカーになりそう」
ぴくり、と細貝の肩が跳ねた。瞬きもせず、僕を見つめている。なにか変なこと言っただろうか。
「細貝?」
「いや、なんでもない。ちょっと寝ぼけてるのかも」
「寝ておきな」
「有馬といられて嬉しいけど、いまはそうする」
細貝はよほど具合いが悪いのかゆっくりと瞼を閉じた。しばらくすると規則的な寝息が聞こえてくる。
それでも僕はしばらくの間、手を離すことができなかった。
部活が休みの土曜日は、朝から熱中症アラートが出るほどの灼熱だ。
涼しい電車から降りるとそこはもう地獄。サウナのように蒸し暑く、改札口に向かうわずかな距離でも汗が噴き出してくる。
だが細貝は正面から受ける熱風すら味方にして、爽やかに歩いていた。
「じゃあ最初は水族館な」
「やっぱりデートに水族館ってベタじゃない?」
「定番こそ王道だろ」
細貝に笑いかけられてしまい、僕は口を閉じた。
今日は以前決めたプランで初デートをするのだ。
細貝の服装は黒のナイロンシャツとスラックスにグラフィックTシャツで、全体的に黒で統一されクールな容姿と合っている。
(なんでいちいちカッコいいんだよ!)
この前の私服も似合っていたが、今回のもオシャレで細貝のためだけに誂えたようだ。
袖から見える腕の筋肉の張りとか、手の大きさとか細貝を構成するすべてに僕はどきまぎさせられている。
「さっきからジロジロ見て、なに?」
「……別に」
「俺に見惚れてた?」
「自意識過剰」
「そうかも。やっと有馬とデートできるから浮かれてるわ」
細貝は照れくさそうに笑いながら鼻歌まで歌っている。その様子を見ているとなんだか僕まで楽しい気がしてきてしまうから不思議だ。
朝九時前のサンシャイン通りは空いていた。信号の長い横断歩道にも引っかかることなく、目的地の水族館まで駅から十五分ほどで着く。
水族館の待合所には家族連れやカップルが多い。九時開園をいまかいまかと待っている。
僕たちは小さな子どもたちに混ざって、滝のオブジェを眺めていた。
「チケット買わないとね。売り場はどこだろう?」
「もう買ってあるよ」
細貝はにやっと笑って、スマホの画面を見せてくれた。電子チケットを示すQRコードが表示され、すでに支払いは済んでいるらしい。
「ごめん、金払う」
「これくらいいいよ」
「だめ」
僕が過不足なくお金を渡すと細貝は不満そうだったが、受け取ってくれた。
開園と同時に中に入ると、海の匂いに興奮を掻き立てられる。暗がりのなか展示されている魚たちは気持ちよさそうに泳いでいた。
僕は同じ水槽を眺めている細貝を見上げる。
「水族館って、いつ以来?」
「小学生の遠足が最後かな。有馬は?」
「僕も」
「男同士じゃ行かねぇもんな」
「そうだね」
それは言外にデートだから来る、というニュアンスを秘めているのだろうか。
さっきまで普通だったのに急に「デート」という単語が重くのしかかる。
手を繋がれたり、肩を抱かれたりしたらどうしようと不安はあったが、細貝は適度な距離感を保ってくれた。傍からすれば友人に見られるだろう。
ずきり、と胸の奥に針が刺さったような痛みが走る。
(なんで痛いんだろう)
痛みの正体がわからず、僕は首を傾げた。
細貝は水槽に向けていた視線を僕に向け、ふふっと笑っている。ちょっと莫迦にしたような笑いに僕は眉間を寄せた。
「なに?」
「有馬の私服初めて見た」
「変だった?」
僕はオーバーサイズの黒Tシャツにタックワイドデニムを合わせている。白いキャップにはスポーツブランドのロゴが入っていた。
僕の背は一六七センチとあまり高くないので、服装は慎重に選ばないと中学生に見られてしまう。自分的には無難なものにしたつもりだったが幼過ぎただろうか。
シャツの裾を摘まんでいると細貝は鼻の穴を膨らませながら、ぐいっと顔を近づけた。
「めっっっっちゃ可愛い!!」
「そんな力んで言わなくてもいいよ」
「だってすごい似合ってる。有馬のよさを最大限に表してると言っても過言じゃないね」
細貝は僕の頭のてっぺんからつま先までまじまじと見てから、唇を湿らせた。
「このオーバサイズ感が絶妙。ダボっとした感じが、逆に有馬の細さを強調してる。それにキャップも似合うな~小顔だもんね。部活でも被ればいいのに。あ、でも他の奴らに見せるのは嫌だな。そいつの顔面にスマッシュ決めちゃうかも」
僕への賛辞をじゃぶじゃぶと浴びせられて、穴に埋まりたいほど恥ずかしい。反論する気力もなく、正面から受けているとふと細貝は目元を和らげた。
「本当可愛い。独り占めできて嬉しい」
キャラメルみたいな声音に僕の襟足が熱い。
自己肯定感が低い僕にとって細貝の言葉は水だ。干からびた自尊心に水をくれ、僕を励ましてくれる。
ちょっとだけ、本当にちょっとだけ、服装を褒めてもらえて僕の背筋に一本細い芯が入ったように背骨が伸びる。
「……ありがと」
「うん。その顔も可愛い、大好き」
「こんなところで言うなよ」
「だって言いたくなったんだもん」
「「もん」とか可愛くないし」
「照れてるんだもん」
見上げると細貝の頬がわずかに赤くなっていた。目が合うと同じタイミングで逸らし、もじもじと下を向いてしまう。
いつもド直球ストレートを投げてくるくせに、こんな変化球はズルい。
いままで何回も「好き」と言われてきたのに、今日はいつもより胸に響いた。
「お、ペンギン可愛い」
細貝は屋外エリアの水槽で泳いでいるペンギンにスマホを向けた。
(てかペンギンと同じかよ)
可愛いと特別な響きに聞こえたのは僕の勘違いだったのかもしれない。
一瞬変な空気になったのも僕が意識し過ぎたせいだ。
「有馬」
名前を呼ばれて顔を上げるとカシャリとシャッター音が響く。
「有馬の写真ゲット」
「それ盗撮だ!」
「いいじゃん。彼氏の特権でしょ」
細貝はへらっと笑った。まったく悪びれる様子もないので、今度は僕がスマホを細貝に向ける。
「じゃあ僕も細貝を撮るからな」
「どうぞ」
大きな水槽の前で細貝は両腕を高くあげた。グリコのようなポーズなのに手足が長いせいか様になっている。悔しい。
シャッターボタンを長押ししていると細貝はくしゃっと笑った。
「いつまで撮るんだよ」
「細貝のブサイクな顔が撮れるまで。あー連写してたのに半目が一枚もない!」
写真を確認したがどれも表情が決まっている。フォルダにはモデルのような爽やかな笑顔の細貝で溢れていた。
「俺ばっか撮ってないで一緒に撮ろう」
細貝はレンズを向けて僕に近づいた。触れるか触れないかぐらいの絶妙な距離感に僕の心臓は大きく跳ねる。
(いい匂いがする)
柔軟剤なのか香水なのか細貝から柑橘系の香りがした。甘く煮詰めたようなレモンの香りは僕好みだ。
「ほら、カメラ見て。撮るよ」
シャッターボタンを押して二人で画面を確認した。
細貝が爽やかな笑顔なのに対し、僕はちょっと不貞腐れたような顔をしている。恥ずかしさを隠しきれていない。
「めちゃくちゃ可愛い! 初めてのツーショット、待ち受けにしよ」
「やだ、消して!」
「それは無理」
細貝はスマホを高く掲げてしまうので僕の身長では届かない。恨みがましく睨みつけていると、細貝は勝ち誇ったように笑みを深くさせた。
水族館を一通り周り、お腹も減ってきたので早めのランチを取ることにした。カフェに向かうと運良く室内席が空いたので、そこに荷物を置いて席を確保する。
「空いててラッキーだね」
「だな」
ガラス張りの店内から外の様子がよく見える。近くの滝の上部からミストがでており、小さな子どもたちがはしゃいでいて楽しそうだ。
「有馬はなに食べる?」
「ん〜ボロネーゼにしようかな。細貝は?」
「俺も同じのにしよう。んじゃ行って来る」
「僕も行く」
「いいから、ここで荷物見てて」
細貝はさっさとレジで注文を済ませ、トレーを持って戻ってきた。
「これ有馬の分な」
「お金ちゃんと払うから、あとでレシート見せて」
「これくらい別にいいよ」
「だめ」
「有馬は律儀だな」
僅かに目を見開いた細貝は僕の行動が信じられないらしい。僕からしてみれば細貝の行動のほうがあり得ない。
でもこんなことばかりではお互い疲れてしまう。
「ちゃんと意見を擦り合わせておこうよ」
「なにを?」
大きな口でボロネーゼを食べる細貝はリスみたいに頰を膨らませている。モグモグ咀嚼してて可愛い……じゃなくて、僕はごほんとわざとらしい咳払いをした。
「付き合う上での約束事というか、価値観を合わせておきたい」
「なるほど」
「僕は奢られたくない。自分の分は自分で払いたい」
「俺は全部出したいけどな」
「まだ学生だからお金に関してはフェアでいこうよ」
「じゃあ学生じゃなくなったらいいんだ?」
テーブルに肘をついた細貝はにんまりと笑った。つまりこの先も付き合っていくという未来を指しているのだろう。
じわりと首の後ろが熱くなる。そういうつもりで言ったわけではない。でも悪くないな、と一瞬思ってしまった自分を恥じた。
「そ、そういうわけじゃないけど」
「まぁいいよ。有馬が前向きに検討してくれてるようで嬉しい。他は?」
「いまのところはそれだけかな。逆に細貝はないの?」
「え、俺?」
「だってお互いの価値観を合わせるには細貝の意見も大事でしょ」
「有馬やさしすぎるよ。俺は有馬のことが好きで、言わば俺の立場が下なんだよ。俺を制限して、自分が過ごしやすいようにしたっていいのに」
その言葉に僕はむっと唇を尖らせた。
「それはフェアじゃない。確かに気持ちの差はあるけど、もうあんな思いはしたくないし、させたくない」
細貝との約束をなかったことにして、モトたちとカラオケに行って後悔したのだ。細貝をどれだけ傷つけたのか想像するだけで胸が引き裂かれるように辛い。
だからもうあんな思いをするのはこりごりだ。
「俺の彼氏、かっこよすぎる……惚れ直しちゃう」
「そういうのはいいから、ほら、早く言ってよ」
細貝が照れるので僕の頬も熱い。
顔を手で覆っていた細貝が指の隙間からちらりと視線を寄越してきた。
「……どこまで手出していいの?」
「そそそそそそれはどういう意味で!?」
ぼんっと僕の頭上からマグマが噴火したような気がした。正面に座る細貝をまじまじと見つめ返す。
「手を繋ぐとか、キスするとか、ハグするとか……それ以上とか」
「無理無理無理!!」
僕は慌てて細貝の口を押さえた。大声を出してしまったせいで周りの視線が矢のように僕を刺す。
すかさず店員さんが来て「静かにしてください」と注意されてしまい、頭を下げた。
僕は一度水を飲んで気持ちを落ち着かせた。
「触られるのはちょっと」
「わかった」
「いいの?」
「それ目的と思われるのもしゃくだしね」
「……じゃあ手を繋ぐとか言うなよ」
「価値観を合わせるんでしょ?」
自分の言葉を返されてしまえばなにも言えない。元々僕が言い始めたことだ。
僕はさっきよりも声のトーンを押さえた。
「細貝は……ゲイなの?」
これが一番気になっていたことだ。
瞬きもせずに答えを待っていると、細貝はばくりとまたボロネーゼを食べた。
「ふぁふぁんふひ」
「なんて?」
「……わからない。有馬以外好きになったことない」
「それって僕が初恋ってこと?」
「そうなるな。光栄だろ?」
「……どこが」
自信たっぷりな細貝に照れるより先に呆れてしまった。
どうして僕なのだろう。与えられた役割をこなす生真面目さは自負しているが、僕は細貝のように目立つようなタイプではない。
平凡過ぎて漫画だったらモブに扱われるほど存在は地味だ。
好きになってもらえた理由がわからない。
ランチを終えて、僕たちは水族館内にあるお土産ショップに行くことにした。
そこで初めて店の回り方に個性が出ることを知った。
モトとの場合は店に入ったらそれぞれ行きたい方に別れ、店内で会うと「どれにする?」とか「そろそろ出ようよ」と声をかけ、それまで自由に見て回れる。
けれど細貝は自分が見たいところにはいかず、忠犬のように僕の後ろにぴったりとくっついているのだ。
僕が足を止めるたびに細貝も足を止め、「それ可愛いな」とか感想をくれた。
こういう店の回り方もあるらしい。いままで周りにはいなかったタイプだ。
「細貝も好きなところ見て来ていいよ」
「有馬のそばにいたい。だめ?」
「楽しいの?」
「すっげぇ楽しい!」
にっと白い歯を見せる細貝は確かに楽しそうではある。僕が見ているのはガラスの置物とかぬいぐるみとかばかりだけど、細貝は意外とこういうのが好きだったのだろうか。
「あ、これいいいな」
僕は二色ボールペンを手に取った。本体にはイルカやクラゲ、シャチ、ペンギンなどのイラストが描かれている。
そろそろインクがなくなりそうだったし、せっかく水族館に来たからにはなにか買いたい。
「それも可愛いな」
「このペンギンの顔が細貝に似てる」
動物たちはデフォルメ化されて愛らしいものもいるが、ペンギンだけ目元がしゅっとして凛々しい顔をしている。その横顔が試合中の細貝に似ているのだ。
「有馬から見た俺ってこんな感じ?」
「試合中ね」
「これはいいこと聞いたな」
「普段は違うからね!」
「何度も念押さなくてもわかったよ」
「そうかなぁ?」
「じゃあ有馬はこっちのアザラシのぬいぐるみに似てる」
細貝はあざらしのぬいぐるみストラップを取って、僕の顔の横に並べた。
「うん。そっくり。目がくりくりしてるところとか、白い肌とか」
「え~これ可愛すぎない?」
「俺の中の有馬はずっとこんなだよ」
「もっとこう、カッコいいのがいい」
「じゃあクラゲ」
「表情わかんないよ!」
僕たちが商品を見ながら笑っていると小さい男の子がじっと見上げてきていた。はっと気づいて辺りを見回すと周りから視線を向けられている。
今日で二度目だ。
いつもの僕ならあり得ない失態が続いている。常に周りの目を気にしていた僕はどこにいってしまったのだ。
「もう行こう」
「先行ってて。俺、もうちょっと見てたい」
「……わかった」
僕は気恥ずかしくなって足早に店を出た。
(最悪!)
さっきまでの会話を思い出し、顔から火が出そうだ。
しばらく悶々としながら土産店の外で待っていると細貝が戻ってきた。
「ごめん、レジ混んでて。はい、これ」
「なに?」
「開けてみて」
水族館の名前が書かれた紙袋を開けると僕がさっきいいなと思ったボールペンが入っていた。
「今日の記念に取っておいて」
「さっき意見をすり合わせただろ。奢られたくないって」
「じゃあプレゼント。有馬の誕生日、祝えなかったからさ」
僕の誕生日は五月だ。そのときはまだ細貝とほとんど話したことがなく、ただのクラスメイトだった。
「……いいの?」
「もちろん。それに俺はこっち買ったし」
細貝はアザラシのぬいぐるみストラップを出した。
「恋人に似たのを持ってるって、なんかカップルっぽいよな」
「……ボールペンはもうすぐインクなくなりそうだったからで」
「言い訳しちゃって」
「そういうんじゃないし」
僕がしどろもどろしている間、細貝は夏の空のように笑った。
水族館のあとはサンシャインシティの中を散策した。宝石箱のようなショウウウィンドウは圧迫感がある。スポーツ用品店しか行かない僕にとって敷居が高く、自然と足が重たくなる。
でも細貝はショーモデルのように堂々と見入り、指をさした。
「ここ入ってもいい?」
「……うん」
「いらっしゃいませ、なにかお探しですか?」
「えっと秋物見たくて」
「それでしたらこちらのーー」
ショップ店員さんに声をかけられても細貝は笑顔で対応している。流行りの色や形を話している横顔は学校にいるときとより、生き生きとしていた。
(そういえば細貝って、よく笑うよな)
どうして学校だとあんなに愛想がないのだろうか。
それに一年生への態度も褒められたものではない。
「教えて欲しい」と請うた山本が細貝に断られ、泣きそうになっていた姿が浮かぶ。夏休みに入っても練習に来てくれているが、あまり元気がなさそうに見える。
「それ欲しいの?」
僕がサンダルを手に持ったまま固まっているのを見て、細貝が首を傾げた。
すかさず男性店員さんが来る。
「サイズご用意しますよ」
「い、いや大丈夫です! 僕、外で待ってるね」
僕は慌ててサンダルを棚に戻し、店を出ると細貝は追いかけて来てくれて僕の顔を覗いた。
「あんま趣味じゃなかった?」
「オシャレの次元が違いすぎてよくわからない」
「俺、あそこのブランド好きだから有馬も気に入ってくれたらいいなと思ったんだよね」
「気に入るとかの以前の問題だよ」
「無理やりだったよな。ごめん」
へらっと笑う細貝に胸の奥がざわざわする。
どうして学校だと仏頂面なんだろう。部活に顔を出さないのだろう。
湧き出る疑問が泡のように次々と生まれてくる。
「ちょっと休憩しない?」
「そうだね。ジュース買おう」
僕たちはコンビニで同じ炭酸飲料水を買い、近くのベンチに座った。
蓋を開けるとぷしゅっと小気味良い音をたてた。それだけで気分が上がる。
喉を通り過ぎる炭酸の泡が気持ちよくて、一気に半分ほど飲んでしまった。
その様子を見ていた細貝が目を丸くしている。
「よく炭酸を一気に飲めるな」
「結構好き。このシュワシュワが癖になる」
「なるほど。どれどれ」
細貝も一気飲みしようとしていたが、二口くらいで音を上げていた。喉元を押さえて、炭酸の泡に溺れている。
「炭酸苦手?」
「苦手ってほどじゃないけど、あんま飲まないな」
「じゃあなんで買ったの」
僕たちが買ったジュースは普通のより炭酸がきついのがウリの新商品だ。
「有馬が好きなもの知りたいから。昼飯もそう」
細貝は僕と同じボロネーゼを食べていた。てっきり好きなのかと思っていたが、どうやら違ったらしい。
「どうしてそこまですんの?」
「だって有馬の好きなもの知りたいじゃん」
「知ってどうするの?」
「こういうのが好きなのか、って自分の中に入れておきたい。有馬の感覚を知っておきたい、的な」
炭酸きっつ、と笑いながら細貝はもう一口飲んでいた。あまりにも無垢な純粋さに僕の足裏から、温かいものが全身に流れてくる。
(細貝に大切にされてるんだ)
友だちや家族とは違う、恋人というカテゴリーは僕にとって未知のものだ。
でも細貝は手探りながら僕のことを知ろうとして、そして教えてくれようとしている。不器用で遠回りをしているけれど、細貝がどれだけ僕を想ってくれているのか、ひしひしと伝わる。
(僕も細貝のことをもっと知りたい)
僕は水滴のついたペットボトルを撫でた。
「学校だといつも一人なのはなんで?」
「あ~あれね。元々誰かとつるむってのも好きじゃないけど、リスペクトしてる女優がいんの」
「え、誰?」
「黒岩えみり」
「ダブル不倫して、不倫相手の子を妊娠して芸能界追放された元アイドル?」
「さすが詳しいな」
細貝はくしゃっと笑った。
僕がどうして黒岩えみりを詳しいかというと、中学の時タイプだと言った人だからだ。だけどスキャンダルの多さから芸能界を追放されてしまった。
「黒岩えみりってグループの誰とも仲良くしなくてクールだったじゃん。有馬がこういう子が好きなら、俺も同じことをしようかと思って」
「なんじゃそりゃ」
まったく呆れてしまう。それで学校では一人でいたのか。
ただ周りと関わるのが面倒なだけと思っていた。
「じゃあ部活も黒岩えみりを意識して来なかったの?」
細貝は小さく息を飲んだ。驚いた表情に、訊かない方がよかったのかもいれないと後悔した。
でもここを有耶無耶のままにしちゃだめだ。
細貝はキャップを閉め、ボトルを両手で包んでいる。
「元々テニス部じゃない」
「え?」
「ラビットの練習は毎日あるからな。さすがにオーバーワークになるし、入学する前から入部しないって決めてたんだよ。まあ他にも理由はあるけど、一番はそれかな」
身体の出来上がっていない僕たちは、まだ発展途上中だ。この時期に無理をして、肩や肘を壊してプロを諦めた選手の話は聞いたことがある。
「でも日村先生が大会だけでも出ろってうるさくて」
「確かに言いそうだね」
大会に出れば必ず賞を獲って帰って来る細貝に肩入れするのも無理ない。
きっと細貝が勝てば勝つほど、日村先生の評価も上がるのだろう。
「まぁそもそもラビットのヤツらはそんなのばっか。成績だけ欲しいから大会だけ出るの。でも俺はそういうのなんか嫌でさ」
そこで一度区切った細貝は言葉を探すように視線を下げた。
「だから入部しなかったのに、先輩たちには来いってやっかまれるし、連帯責任で有馬たちは走らされてるし。最悪だったよ」
「……なんで言ってくれなかったの?」
僕たちは細貝が来ない責任としてラケットを握らせて貰えない日々が続いた。それは同時に僕が細貝への嫌悪を膨らませている要因でもあった。
でもきちんと事情を話してくれれば、なにか力になれたかもしれない。
「言えねぇよ。なんかそんな奴、鼻につくだろ」
苦笑交じりの細貝は少し前屈みになった。いつもピンと伸びている背筋が揺れている。
「まぁどっちにしろ大会に出ちゃった手前、俺はもうテニス部だな。いやいや言っときながら結局一番なりたくないヤツになっちまったよ」
細貝の横顔に暗い影が差す。口をへの字にさせて屈辱に耐えているように見えた。
「俺、ラビットのなかじゃ全然上手くねぇの。スクール内のランキング戦じゃ下から数えた方が早いし」
「でも関東大会八位だよ」
「それは有馬が応援してくれた力かな」
「……っおまえな」
僕が頰を赤らめると細貝はくすぐったそうに笑った。だが雲に隠れる太陽のように表情が暗くなる。
「同年代でプロになってる奴もいるし、アマチュアでスポンサーがついてる奴もいる。そんな奴らばっか見てるから、自分がテニス上手いだなんて思えない。だから教えて欲しいって言われても、困る」
「山本……一年生に教えなかったのって」
「俺じゃ役不足だよ。有馬が教えた方が絶対、力になる」
僕からすれば細貝は天才テニスプレイヤーだ。でもそんな彼にも敵わない人がいて、自信をなくしている。
僕より厳しい環境に身を置いている細貝は、どんどん先を行く仲間たちを見て絶望していたのかもしれない。
努力が必ず報われる世界ではないからだ。
だから頑張ってきた分、結果が出なかったときの後悔は大きい。
(その気持ち、わかる)
僕はどれだけ肩書きに合わせた言動をしても、敵わない人はいる。
その人が前に居続ける限り、僕の努力は日の目を見ないのだ。
でも、細貝は僕とは違う。
「そんなことないよ」
僕は細貝の顔をじっと見つめた。
「今年の一年生は細貝に憧れてテニス部に入ってくれた子が多いんだよ」
「そうなん?」
「そうだよ。だからあの日、めちゃくちゃ勇気を出したんだと思う。それなのにあんな言い方 」
「やだよ」と返された山本の青くなった顔が見ていられないくらい可哀想だった。
思い出したのか細貝の眉間に後悔の皺が寄る。
「さすがにあの言い方はなかったよな。まさかそんなこと言われなくて焦っちゃった」
「うん、あれは酷い」
「悪かったよ」
「僕じゃなくて山本に謝ってあげて」
「明日の練習のときに言う」
「ん」
細貝が肩を竦めるのでかなり深く反省してくれているようだ。
「僕も付き合うからさ。一緒に謝ろう」
細貝の髪を無意識に撫でた。柔らかくて手のひらにすっと馴染む髪質だ。
何度も撫でていると細貝の耳が段々赤くなっている。
「ちょっ……これ以上はマジやめて」
「なんだよ、照れてんの?」
「俺が手出せないからって調子に乗って。こんなのフェアじゃない」
「はいはい」
ぶつくさ文句を言いながらもされるがままの細貝が面白くて、本気で怒られるまで頭を撫でていた。
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