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第1話

 美しい光沢のあるウエディングドレスの裾をつまみ、カイトは自室の鏡を睨みつけた。  男の中では華奢な方だとはいえど、骨ばった肩が露わになるとあまりの無様な姿に目を逸らしたくなる。  ドレスを用意した従者は誰だろうと一人ずつ思い浮かべたが、すぐにやめた。誰が犯人だろうが同じだ。  カイトをよく思っていない人は多い。だがこんな嫌がらせで根を上げるほど軟弱な性格をしていない。だてにスラムで十九年も育っていないのだ。  鼻息荒くもう一度鏡を見返した。  カラスのように黒い髪は短く切り揃え、アメジストの瞳を縁どる睫毛はクジャクの羽のように上を向いている。我ながら可愛い顔をしていると思うが、これのせいで台無しだ。  カイトは牛革の首輪に手を伸ばした。  夫以外のアルファにうなじを噛まれないようにするものらしいが、もっと他のものに代用はできるのではないか。  これでは犬だ。オメガの存在を代弁しているような首輪に奥歯を噛んだ。  でも犬のように従順に飼われるつもりはない。   首輪を付けるときに誓った。  絶対にこの国を変えてみせる。  だからこの結婚を飲んだのだ。   ノック音に振り返ると従者がくつくつと笑いながら部屋に入ってきた。殺気を込めて睨みつけると男の笑顔は引っ込んだ。弱虫め。 その後ろには礼服に身を包んだニルスが立っていた。   「カイト、とても美しいです」   控室に現れたニルスーー王都ザガルアの第二王子である男をギロリと睨みつけた。   お辞儀一つでもニルスは王族らしい気品さに溢れている。艷やかな金髪を肩口で揃え、ブルートパーズの瞳は穢れを知らない宝石のように澄んでいた。純白の礼服は裾や袖を金色の糸で刺繍され、胸元には国の象徴である薔薇が立体刺繍を施されている。    国民を、ベータを飼い殺しにしている張本人を目の前にして、カイトはニルスの喉元を噛み千切ってやりたい衝動にかられた。   (まだその時期じゃない)   カイトは気持ちを静めようと深く細い息を吐いた。糸を吐き出して巣を作る蜘蛛のように、その糸をぐるぐるとニルスに巻きつけるイメージをする。   (これからこいつを俺のマリオネットにしてやる)   決意を繰り返すと気持ちが落ち着いていく。風が止んだ荒海はしんと静かな湖畔に姿を変える。  カイトは笑顔を浮かべた。   「これからよろしく。旦那様」  この国には男女の他にアルファ、ベータと呼ばれる第二次性がある。  アルファは頭脳や体格に優れ、貴族や王族のみに生まれる。政治を担い、法律を作り、国民から税を根こそぎ奪っている最悪な性だ。  ほとんどの国民はベータで、税を納める義務がある。だが年々税の負担率は増え、生活を苦しめられていた。だが医療を受けられたり、生活を保障される面も多く、最低限の生活は営むことができる。  そんな中、カイトは最下層のスラム街で生を受けた。  母親はスラム街で娼婦をしており、父親が誰かもわからないままカイトを産んだ。食い扶持が増えたと散々文句を言われていたが、カイトが五歳のときに性病で死んだ。  スラム街では犯罪が当たり前のように横行している。暴力や窃盗は日常茶飯事で、他人を蹴落としてでもみんな生きるのに必死だった。  だがニルスは国の資金を増やそうと奴隷制度を作り、主に孤児を奴隷として他国に売り始めた。  金になると目が眩んだスラムの大人たちはこぞって子どもを国に差し出すようになり、スラムの治安は地に落ちた。  ニルスは悪逆非道の鬼畜で、逃げようとすれば容赦のない暴力を振るうと有名だった。  だからカイトはスラムの子どもたちを守るために「希望の星団」を作り、そこのトップとして日夜走り回っている。  「ほら、今日の分」  アジトに戻って来たウィルは両手で抱えきれないほどの赤いリンゴをテーブルに置いた。  「お、リンゴじゃん。どうしたんだ?」  「そんなの盗んだに決まってるだろ」  ウィルは悪戯を咎められてもしれっとした子どものように笑った。  ウィルとは物心つく前からの友人で「希望の星団」の副リーダーを務めてもらっている。カイトよりも一歳上の二十歳だが、「言い出したのはカイトだから」と支えてくれている。  ウィルは背も高く、肩幅もがっしりとして厚みがある。薄茶色の髪も短くて男らしい。娼婦たちが取り合うほどの美男子だ。  喧嘩の腕っぷしも強く、頭もいい。この国一帯の地理が頭に入っているので抜け道を網羅している。  だから狩りと称した盗みはウィルが担当になることが多い。  ウィルに気がつくと遊んでいた子どもたちがわらわらと集まってきた。  「リンゴ美味しそう!」  「ぼくも食べたい」  「わたしも!」  「ちゃんと切り分けるから待ってろ。でもその前になんて言うんだ?」  カイトが促すと、子どもたちはそろってウィルを見上げた。  「ウィルお兄ちゃん、ありがとう!」  「どういたしまして」  一人ずつ頭を撫でてあげるウィルは子どもたちの父親のようだ。やさしいウィルは子どもたちから慕われている。  人数分に切って渡してやるとみんなの顔に笑顔の花が咲く。その顔を見られるだけで幸せになれる。  「カイトは母親みたいだな」  「なんでだよ」  「狩りに出るのはだいたい俺だし、カイトは子どもたちの世話をしていることが多いだろ。役割的にさ」  「それはカイトがスラムから出るなってうるさいからだろ」  「仕方がないだろ。また時期がきたんだから」  ザガルアでは第二次性の検査を十歳になったら受ける義務がある。貴族も国民もスラム街の子どもたちも分け隔てなく受けなければならないが、実態は奴隷産業の延長だ。  スラム街の子どもで受けた奴は誰一人として戻ってきていない。  国に捕らわれたら最後。他国に売られ、奴隷として働かされるというのがカイトとウィルの共通認識だ。  だからカイトは自分の性がなんなのか知らない。だが国民のほとんどはベータだし、母親もそうだったので間違いないだろう。  けれど検査を受ければ食糧が貰えると聞いて、行ってしまう子も多い。それを見張るのも「希望の星団」の仕事だ。  だから春のこの時期はできるだけスラム街の奥地にあるアジトにひっそりとしている。わざわざスラム街まで好んでくる衛兵はいない。  だがなぜ国は第二次性の検査をしたがるのだろうか。王族や貴族はアルファ、それ以外の国民はベータと決まっている。まるでなにかを探しているかのような動きが不気味でならなかった。  「それよりアンジェはどうだ?」  「まだ熱は下がってない」  汚れた布と穴の空いたクッションだけの寝床には最年少のアンジェが横たわっている。 苦しそうな呼吸に胸が痛む。  「大きい病気かもしれない。やっぱり医者に見せに行こう」  「ダメだ。街なんて危なくていけない」  「でもこのままだったら……」  小さな身体ははぁはぁと短い呼吸を繰り返しながらうなされている。時折「ママぁ」と亡くなった母親を呼ぶ声にかつての自分を重ねてしまう。  カイトはこぶしを強く握った。  「……第二次検査を受ければ食糧をもらえたよな」  「まさか、カイト。莫迦な真似を考えるわけじゃないだろ」  「でもこのままってわけにもいかない。それに俺も十九だし、人身売買の旬は過ぎてるだろ。食糧を貰ったらささっと逃げるよ」  「だが……」  スラム街には医者なんていない。病気にかかったらすなわち死を意味する。  小さなアンジェを死なせるわけにはいかない。  「まだ夕刻の金は鳴ってないよな。行ってくる!」  「カイト!」  ウィルの制止を振り切り、カイトはアジトを飛び出してスラム街の入口へと走った。腐った汚物や吐瀉物、薬物に溺れた人間、朽ち果てた建物を尻目にぐんとスピードを上げる。  こんな場所早く抜け出したい。そうすればみんな幸せに暮らせる。  それがカイトの夢だ。  城の前には大勢の子どもたちが溢れていた。平民しかいないが、みんなカイトと違って真面目に仕事をしているので身なりは整っている。  薄汚れたシャツと穴の開いたズボンに何日も洗っていない身体は一目でスラム出身だとわかる。カイトが近づくと蜘蛛の子を散らすように人が捌けていった。  (これなら早く順番が回るな)  意気揚々と先頭に並ぶと見慣れた衛兵が立っていた。カイトが街へ行くと必ず声をかけてくる大男だ。  「おぉ、カイト。やっと来たか」  「ちっ……食糧が必要になったんだよ」  「俺んとこに来ればそんな汚ねぇとこすぐ抜け出せるぜ」  衛兵はにやにやと黄ばんだ歯を覗かせた。なぜかこの男はカイトに惚れ込み、こうした誘いをしてくる。  「誰がお前のとこに行くかよ」  舌をべっと出したが、それでも男は恍惚とした表情でこちらを見てくる。気持ち悪いったらない。  大男を追いやると順番がきて、白衣を着た医者に注射器で血を抜かれた。結果はすぐに出るらしい。  「食糧の他に薬ももらえるか?」  「おまえたちスラムの奴に渡すもんはねぇよ。食糧だけでもありがたく思え」  ちっと舌打ちをして医者から食糧を受け取ったが、布袋はずしりと重たい。  (これを売ってその金で薬を買うしかないな)  次へ行く場所を考えていると子どもの悲鳴が広場に轟いた。  「やだぁ!!」  城門前に小汚い身なりをした少年がいままさに衛兵に捕らえられている。見慣れた赤茶色の髪にはっとした。   (あれが誘拐!?)  人混みを掻き分けて、カイトは衛兵の腕を掴んだ。  「そいつを離せ!」  「おまえには関係ないだろ!」  「俺たち「希望の星団」の仲間だ!」  「はっ、いつまでそんな子ども騙しをやってるんだか。スラムらしく泥水でも啜ってろ!」  衛兵に鳩尾を蹴られると目の前が一瞬真っ白になる。カイトが痛みに悶えている隙に少年は城へ押し込まれてしまった。  「待て、待ってくれ!」  無慈悲に門が閉まり、カイトは伸ばした手を虚空に彷徨わせた。  子どもたちが甘い言葉に釣られてスラムから出さないように目を光らせていたのに。あまりの空腹に耐えられず出てきてしまったのだろう。  だがそもそも孤児というだけでどうして奴隷として売られなければならないのだ。  建国記念祭の日に見た、ニルス王子を思い出す。私利私欲のために子どもたちの未来を奪う諸悪の根源。  カイトは石畳にこぶしを突きつけた。  「ぜってぇに許さねぇ!!」  カイトの慟哭は誰にも届かない。飼いならされた国民は蜘蛛の糸で首を絞められるように少しずつ死に向かっていても気づいていないのだ。  変えなければならない。国も、人も。  カイトの中で国への怒りの炎が燃え上がっていた。  「それは本当か?」  医師たちが集まり、輪になってこそこそと話している。  その一人と目が合うと来いと手招きされた。  「んだよ! 俺はいまそれどこじゃねぇんだよ」  「こっちも重大なんだ。いいから早く来い!」  「離せよ!!」  医者に腕を掴まれそうになり、顔にパンチをお見舞いした。だがそれを見ていた衛兵たちに羽交い締めにされるとさすがのカイトでも身動きがとれない。  全身を使って暴れてもびくともしないので、衛兵に唾を吐きつけるとばんと頰を叩かれた。頰がじりじりと熱を持つ。  「大人しくしていろ!」  岩のようなこぶしを再び鳩尾に入れられ、カイトは大人しく連れて行かれるしかなかった。  そのまま牢屋行きかと思っていたが、カイトは城の応接室に通された。豪華絢爛な城は贅沢の限りを尽くしている。シャンデリアには宝石が使われ、ソファはふかふかと弾力がある。棚に置かれた壺や絵画もカイトを見下しているように感じた。  王族が私腹を肥やしているのかが見てとれて胸糞悪い。  (こんなものになんの意味があるのだ)  痛む脇腹を撫でたカイトが辟易としながら室内を見て回り、再びソファに腰を下ろした。  シャツをまくると殴られた鳩尾は青紫に腫れていた。一切手加減されなかったから仕方がない。骨が折れてないのが不幸中の幸いだろう。  くそっと零すと廊下から声が聞こえてきた。  『本当に間違いはないのか』  『はい。何度検査しても結果は同じでした』  『まさか……そんな』  二人の慌てた会話に首を傾げる。一体なにが起こっているのだろう。  (もしかして死刑か)  医者を殴り、衛兵には唾を吐きつけた。低く見積もっても禁錮三十年というところかと思っていたが甘かったのかもしれない。  死ぬ覚悟は常日頃からできている。  だがアジトで苦しんでいるアンジェと連れて行かれた髪が赤茶色の子はどうなってしまうのだろう。  スラムに残した家族のことを考えていると胸が痛む。きっと大口叩いたくせに捕まったカイトにウィルは呆れているかもしれない。  思考を巡らせていると施錠が開き、ふわりと香るコロンにカイトの警戒心は引き上げられた。  国王と第一王子のシバが胸を張って入室してくる。まるで見えない壁に押されるような圧迫感に喉が詰まった。  国王の髪は真っ白で長く、富の象徴である髭を生やしている。兎の毛で作ったローブを靡かせ、胸元に薔薇が金糸で刺繍されていた。  「君が……カイトか」  低い声にぴりりと産毛が毛羽立つ。まるで喉元に刃物を押し当てられたような気迫だ。  「そうだ」  「なんて口のきき方だ! 国王の前だぞ!!」  隣に控えるシバが怒鳴ると国王は手を上げた。そう躾けられているかのように彼は口を閉ざすが、じとりとこちらを睨むルビー色の瞳は殺気が滲んでいる。  「第二次検査の結果、君にオメガという判定がくだった」  「……オメガ?」  第二次性はアルファとベータのみのはずだ。オメガなんて性、聞いたことがない。  国王は長い顎鬚を撫でた。  「オメガは何十年かに一度しか生まれない稀有な第二次性だ。その存在は秘匿とされ、王族と貴族のみ知らされている」  「なにが秘匿だ。国民に嘘吐いてたってことだろ」  やはりアルファは卑しく、穢れた性だとカイトは眉を寄せた。  だがカイトの小言が聞こえないのか国王は淡々と続ける。  「オメガはアルファと番える唯一の存在だ。産まれた子どもは繁栄のアルファと呼ばれ、国を導く神子となる」  「俺は男だぞ! 子どもなんて産めるはずがない」  「オメガなら可能だ」  がんと頭を殴られた気分だ。オメガは男でも子どもが産める? そんな嘘を信じられるはずがない。  だが国王のブルーサファイアの瞳に翳りがない。嘘ではないのだと長年の経験からわかってしまい、途方に暮れた。  (つまり、俺がここにいる理由は)  城に連れ攫われた理由は学がないカイトでもわかる。  「……俺に子どもを産めってことか」  「物分かりがいいな。もちろんおまえに拒否権はない」  「冗談じゃねぇ」  まさかこの爺と? いや、そんなわけない。シバに視線を向ける。  確か結婚して子どもが一人いるはずだ。目が合うとシバはふんとそっぽを向いた。  「入って来い」  国王が声をかけると再び扉が開いた。  春の日差しを受ける金髪を肩口で揺らしながら入室したのは第二王子のニルスだ。  (まさか、こいつと番えっていうのか)  カイトがいま最も嫌っている人物。  泣き叫んでいた子どもの顔を思い出すだけで怒りが込み上げてくる。ぎろりと睨みつけるとなぜかニルスはふわりと笑った。  (なんだ、こいつ。気持ち悪い)  肩透かしを喰らった気分でカイトはすぐに視線を国王に戻した。  「こっちと結婚してもらう」  「はぁ? 冗談じゃない」  「決定事項だ。我が国の繁栄のために励めよ」  そう言い残すと国王とシバはさっさと出て行ってしまった。  部屋にニルスと残されてしまう。  上背のあるニルスは値踏みするようにこちらを見下ろしている。毛虫に身体を這われたような気持ち悪さがあった。  一歩後ずさると壁にぶつかってしまい、逃げ場はない。万事休すか、とニルスを睨み続けた。  「初めまして、カイト。私はニルスと申します」  恭しく頭を下げるニルスに目を瞠った。王族が国民に頭を下げるなんてあり得ない。ましてやカイトは最下層のスラム出身だ。 カイトが返事をしないでいるとニルスはさらに続けた。  「いきなり連れて来られて不安ですよね。大丈夫です。あなたのことは私が守ります」  一体なにを言っているのだ。そっちが勝手に連れて来たくせにいけしゃあしゃあとよく言えたもんだ。  文句がたくさんありすぎで言葉に詰まってしまう。  「オメガの説明は受けましたか?」  「……男でも妊娠できるとかどうとか言ってたけど」  カイトがようやく返事をするとニルスは目尻をわずかに下げた。  「その通りです。オメガは発情期があります。そのときにアルファにうなじを噛まれて番となります。番になったら生涯離れることはできません」  「……奴隷じゃないか」  奴隷として買われると背中に焼印を押される。二度と元の生活に戻れないという地獄の契約だ。  「そう捉えられても仕方がありません」  ニルスは舞台俳優のように芝居がかった仕草で首を振った。  「オメガはあなた一人。城には大勢のアルファがいます。これはカイトが他の誰かと番わないようにするお守りです」  手渡されたのは黒い牛の皮で作られた首輪だ。かなり分厚くナイフでないと切れないだろう。だが中央に南京錠がついており、鍵があれば取り外し可能のようだ。  「犬になれってことか」  「あなたを守るためのものです」  「はっ、信じられるかよ」  ニルスは思案顔で顎を指に置いた。小さい頭がものすごい速さで回転しているのがわかる。  「発情期にはフェロモンを出して、アルファを誘うんです。フェロモンを嗅いだアルファは理性を失い、獣のようにオメガを襲うと言われています」  「俺は腕っぷしには自慢がある。負けるわけねぇだろ」  ふんと鼻で笑うとニルスは眉を寄せた。  「これでもですか」  ニルスのまとう空気が変わった。いきなり冬がきたように室内の温度が下がり、身体が震える。  本能が警告してくる。  ーーアルファには逆らってはならない  だがそれは瞬きをするより一瞬でニルスはまた張りつけたような笑顔に戻った。  「いままで下半身がうずうずして誰彼構わず関係をもったことはありますか?」  「ねぇよ!」  怒りでどうにか震えがおさまるが冷や汗は止まらない。  反射的に噛みつくとニルスは困ったように眉を寄せた。  「すいません、さすがに失言でしたね。どうかお許しください」  王族が謝罪するなんてあり得ない。例え王族に非があろうとも、彼らの行いはすべて正しいと書き換えられる。そんな世の中だ。  「おまえ、王子なのにそう何度も頭下げていいのかよ」  「相手を傷つけたら謝る。当たり前のことです」  顔を上げたニルスは首を傾げている。まるでカイトの常識がないような物言いにふっと緊張が緩まった。  (まだ信用してるわけじゃないが、こいつは一度も嘘を吐いていない)  カイトと真摯に向き合おうとしているのがわかる。  「わかった。首輪は貰っとく」  「付けた方がいいです」  「犬みたいな真似はできるかよ」  「困りましたね」  ニルスは腕組みをしてまた考え込んでしまった。  (噂で聞いていたのと随分印象が違うな)  悪逆非道で人身売買を斡旋している悪党だと言われているニルスだが、いまのところその欠片が見当たらない。終始穏やかな様子で拍子抜けしてしまうくらいだ。  スラム街では腐る程悪人を見てきた。  いい顔をして騙す者、罵詈雑言を浴びせてくる者、暴力をチラつかせ言うことを聞かせようとする者。  そのお陰でカイトは嘘を見抜く力がついた。だからニルスが一貫して偽りのないのがわかってしまう。  でもより強固に固められた嘘でカイトを騙そうとしているだけかもしれない。  この国は腐っている。アルファ至上主義でベータはどんどん隅に追いやられ、平穏な暮らしとはほど遠い生活を強いられてきた。  反乱の気力を奪われた国民は飼い殺しにされ続けている。  そんな国を再生させるためには根元を変えるしかない。枯れた植物を生き返らせるのに土を変えるのと同じだ。  どうすれば内側から変えられるかずっと考えていたが、これはチャンスではないか。  オメガだとよくわからない性のお陰でこうして城に入ることができた。中から変える大きな一手になるはずだ。  (こいつを上手く利用してやる)  第二王子とは言え、ニルスも王族だ。政治に関わっている部分は多いだろう。  ニルスにうまく取り入って、カイトの思うままに操れればいい。  こんなアルファ至上主義なんて莫迦げている、と王子が言えば国は揺らぐだろう。  カイトは手の中にある首輪を見つめ、決意と共に自分の首につけた。  ずしりとした重みはこの国の命運と同じだけ肩にのしかかる。  「やっぱり付けておくよ。おまえ以外と番になるのは嫌だし」  「そうですか……よかった」  いきなり手のひらを返したカイトを疑問に思うことなく、ふわりと笑うニルスの顔に内心では舌を出していた。

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