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第2話
カイトの居住地は城の南側に宛てがわれた。陽の光がたくさん入る温かな部屋は調度品も衣類もなにもかもが豪華だ。
だがシャツに針が刺さっていたり、ベッドには動物の毛が付けられていたり、食事は味が濃かったりと子どものような嫌がらせがここに来た日から半月ほど続いている。
スラムでは命を狙われるのが常だったので屁でもない。
だがさすがに国民全員が見ている中で男の自分がドレス姿を晒すのは恥ずかしさがある。
(こんなことなら礼服をって言えばよかった)
でも一体誰に? ここにカイトの味方はいない。
気持ちが滅入りそうになり、カイトは窓の外を見下ろした。
(アンジェは元気かな)
高熱でうなされていたアンジェのことを思うと胸が痛む。検査場からそのまま王室に囲われてしまったので、彼女がどうなったかわからない。
ニルスに薬を渡して欲しいと頼んだが、悪逆非道と名高い彼が本当にやってくれているかは不明だ。
ニルスは不思議な男だ。
初日から同室の予定だったが、ニルスは頑なに部屋に入ってこなかった。もしかして夜這いに来るかもと一晩中起きていたこともあったが、ドアは一度も開くことなく朝を迎えた。
使用人に訊けば公務が忙しいとのことだったが、本当のところはどうだろう。単にロキに興味がなかっただけかもしれない。
もっと追及したかったが、使用人の態度はいちいち棘があるので、必要最低限しか話さないようにしている。
(そりゃ最下層のスラムがいきなり妃として選ばれれば面白くないよな)
従者のほとんどが下級貴族出身だ。もちろんアルファが多く、カイトは目の敵にされている。
どうしてスラムの奴を自分たちが世話をしないといけないんだ、という不満がひしひし伝わってくる。
「カイト、とても美しいですね」
「……嬉しくねぇ」
控室に来たニルスは気を使って褒めてくれたが、男の身体でマーメイドドレスはあまりにも不格好だ。廊下で使用人たちがクスクス笑っている。
「でもこれだとまだ寒いでしょう。こちらをどうぞ」
ニルスはシルクの白いショールを肩にかけくれた。
これなら肩も首輪も隠せる。ベールを被ればかなりマシになる。
「まだ寒いですか?」
「……いや、大丈夫」
(俺に取り入ってどうするつもりだ?)
ニルスの真意がわからない。この男はなにを考えているのだろうか。
外が騒がしくなり、どうやら国王が挨拶を始めたらしい。歓声が部屋の中にまで聞こえてくる。
「カイト」
ニルスがその場で膝まつき、手を取られた。ブルートパーズの瞳がじっと見上げてくる。
「カイトの願いは叶えます。辛いことがあったら言って欲しい」
苦しそうな表情はニルスの方が窮地に追いやられているように見えた。
欲しいおもちゃがあるのに欲しいと言えない子どものように悲し気で、カイトの胸はきゅうと締めつけられた。
「……別にないよ。いまんところ」
「そうですか」
「ま、強いて言えば悪戯が少々過ぎるかなくらいだな」
「悪戯?」
後ろで控えていた従者たちの顔がみるみる青ざめていく。ざまあみろ。
歓声が止み、国王の視線がこちらに向けられた。
「行きましょう」
「うん」
ニルスに手を引かれ、そのまま城外部にある謁見台に向かうと広場にはゴマ粒みたいな民衆で溢れていた。ここなら国全土が見渡せる。
「これから結婚の儀を開始する!」
国王の高らかな宣言にカイトはじっと前を見据えた。
結婚の儀も無事に終わり、貴族たちへの挨拶も済ませるとカイトは重石を背負っているような疲労感に襲われた。
慣れないドレスだけでも窮屈なのに、ヒールの高い靴は歩きにくいし、頭の装飾品も重くて首が縮むかと思った。
自室に帰り、真っ先に靴を脱ぎ、ドレスやコルセットも千切るように脱ぎ捨てると身体に羽が生えたように軽い。
ベッドにダイブして、その柔らかな感触にほうと深い息を吐き、今日一日を思い返す余裕が出てきた。
ニルスと挨拶周りをしていたとき貴族たちから「早く有能なアルファを産め」と口を揃えられ続けた。
誰が子どもなんて産むかと唾を吐きつけようかと思ったが、ニルスは「授かりものですから」とにこやかに返してくれたのだ。
ニルスが間に入ってくれたお陰でカイトは最後まで耐えることができた。
(悪い奴じゃなさそうだな)
貴族たちからニルスは慕われているようだった。穏やかで笑みを絶やさないニルスは令嬢たちからも評判がいい。
ニルスに声をかけようと令嬢たちは行列を作っていたくらいだ。だがその度にどうしてこんな奴と結婚するんだ、と睨まれた。じゃあおまえがオメガになってくれ。
「はぁ……眠い」
振り返るだけで疲れが戻ってくる。
すぅと深い息を吸い込むと花の香りがしてきた。匂いの出どころを探すとベッドサイドに置いてあるアロマからのようだ。
ゆらゆらとロウソクの火が揺れ、心地よい匂いが全身を包んでくれる。
(こんなこと、誰がやってくれたんだろう)
意識が現実と夢を行ったり来たりと微睡んでいると段々と寒気が足元から這い上がってくる。
「風邪引いたかな」
栄養満点の食事と温かな布団のお陰で身体の方は楽だが、慣れないことが続いて精神的な疲れがきたのだろう。
(困ったな。でも従者を呼ぶわけにはいかないし)
弱味を見せたら寝首をかかれるかもしれない。ただでさえ嫌われているのだから、ここぞとばかりに奇襲をしかけてくるだろう。
時間が経つにつれ、熱はどんどん上がっていく。
砂漠にいるかのように喉が渇いた。ベッドから降りて、よろよろと備えつけのポットに手を伸ばしたが誤って落としてしまった。
陶器のポットはがしゃんと派手な音をさせて破片が床に散らばる。
「……片づけなきゃ」
しゃがむと今度は眩暈がして、視界が定まらない。耐え切れず床に倒れた。冷ややかな木板が身体の熱を冷ましてくれる。
頭が重く、身体が熱い。風邪だ、と理解するとどんどん酷くなっていくような気がする。
起き上がるのも面倒でカイトは目を瞑った。
「大丈夫ですか?」
重たい瞼を開けるとニルスの顔があった。でもいつも整えられている髪がボサボサで、着ている服もどこか質素だ。夢だろうか。意識がはっきりとしない。
(どうしてあいつの夢なんて見るんだよ)
額を触れられた手は床板よりもひんやりしている。「気持ちいい」とこぼすとぱっと手を離された。
「酷い熱ですね。風邪……いや、この香りは」
ニルスは立ち上がり、どこかへ歩き出してしまった。顔を上げる気力もなく、床に響く靴音をぼんやりと聞いていた。
「やっぱり……誰の仕業だ?」
険のある声はあまりニルスらしくない。
じっとしているとカイトの下半身に違和感があった。そろりと視線を下げると下着ごしでもそこが膨らんでいるのがわかる。
そういえば風邪を引くとムラムラするんだ、とウィルから聞いたことがあった。もしかしてそれなのだろうか。
一回気になってしまうとどうしてもむず痒いような気がしてくる。でもニルスの前で自慰をするのは抵抗があった。
(そうだ……これは夢だ)
夢ならいいか、と手を伸ばして性器に触れると驚くほど硬かった。
軽く上下に扱いただけでも愛液がびゅっと飛び散った。こんなこと初めてだ。汚さないよう下着を脱ぐと外気に触れた性器は寒さをもろともせず熱を保っている。
「んっ……んん、ぅん」
感じたことのない快楽に扱く手に力が入る。茎全体がぐっしょりと濡れ、ぐちゅぐちゅと卑猥な音を立てた。その音にすら煽られて、手の動きが速くなる。
がたん、となにかがぶつかる音に視線を上げた。
「なにを、しているんですか?」
「だって……したくなった」
幻覚のニルスは言葉を失っている。月明りに照らされた顔面は青白く、具合いが悪そうだ。なんだか可哀想な気がしてくる。
手を止めてやりたいがこちらも限界だ。二度、三度と強く刺激するとあっという間に果てた。精液が床に広がり、小さな湖が点々としている。
だが性器はまだ萎えていない。下半身も甘い疼きが残っている。
「なんで? いつも一回で済むのに」
「この香りのせいです」
ニルスの手にはベッドサイドにあったアロマキャンドルが乗せられていた。火はいつの間にか消されている。
アロマがどうした。そんなことより性器を扱きたくて我慢できない。
再び性器を強く扱いた。ニルスが憐れむように眉をひそめている。
下半身に集中するとすぐに果てた。びくびくと身体を痙攣させながら吐精してもまだ性器は萎えない。
「はぁ……んっ、なんで……終わらないんだ」
強く扱きすぎて性器の皮がヒリヒリする。もうやりたくないのに熱がおさまらない。荒れ狂う熱がカイトの身体を蝕んでいく。
「身体、変。なんだ……これ」
「発情はオメガの特徴なんです。いままで一度もこういうことになったことないですか?」
「ない。初めて」
「きっと本能で押さえつけていたんでしょうね。ベータしかいないスラムとはいえど、発情なんて起こしたら無事では済まなかったかもしれません」
「もうくるし……」
「私にお手伝いさせてください」
「……手伝う?」
「カイトの願いは叶えると言ったでしょ?」
虹彩がわかるほど近づかれたニルスの瞳にからかいや蔑みはない。心からカイトを案じてくれているのが伝わってくる。
(それにこれは夢だ。もう楽になるならなんでもいい)
カイトはニルスのシャツを掴んだ。
「助けて……」
「はい。でもここでは辛いでしょう。ベッドに行きましょう」
ひょいと抱きかかえられベッドに寝かせられた。柔らかなシルクが肌に触れて擽ったい。
上に覆いかぶさってきたニルスは一番上のボタンを外した。
「痛かったら言ってください」
「……んっ」
ニルスは躊躇う素振りも見せず、ぱくりとカイトの性器をくわえた。
「あっ、あぁ……ん」
熱い粘膜に包まれると剥き出しの神経を舐められているような強い快楽に四肢が痙攣し始める。
「だめ、これ……あぁ!」
逃げようと上半身を捩るとニルスに腰を掴まれて、口淫を深められた。
射精感が一気に駆け上ってくる。視界が白ずむと同時に果てた。
一滴も零さないようにニルスに吸われ、腰がへこへことだらしがない動きをしてしまう。
(気持ち悦すぎて莫迦になる)
達してもまだまだ熱はおさまりそうにない。
それを察したのかニルスは顔を上げた。
「まだしてもいいですか?」
最悪な夢だ。でも欲には抗えず、カイトは小さく頷いた。
鳥の囀りで目を覚ますと陽光の眩しさにカイトは目を細めた。どうやらカーテンを閉め忘れていたらしい。南側の部屋は一日中陽が入り、特に昼過ぎがピークだ。
「目が覚めましたか?」
部屋の中央にあるソファで仕事をしていたらしいニルスはすっと立ち上がった。
(どうして、なんでここに)
ニルスとは部屋は別で、お互い行き来したこともない。
ぼんやりと見上げているとニルスは困ったように笑った。
「まだ本調子じゃなさそうですね」
ニルスはベッドに腰を下ろした。
陽光を浴びると金色の髪が宝石のように光る。どこか憂いを帯びる青い瞳は色香を感じさせ、どきりと胸が鳴った。
「どこか辛いところはありますか?」
「全身が怠い。喉が痛い。風邪か?」
「……それは」
「ま、いっか。寝てれば治るだろ」
伸びをするとベッドサイドにあるアロマが目に入った。こんなもの部屋にあっただろうか。
そこで記憶の箱ががばりと開いた。
アロマの匂いを嗅いでカイトの身体は熱くなり、自慰をしてしまった。それだけでは足りずニルスに口淫される夢まで見て
(いや、あれは夢なんかじゃなかったんだ)
ニルスの頭を押さえつけて何度も口淫を求めた。
この全身の気怠さには憶えがある。なにより寝間着の下の性器がヒリヒリと熱を帯び、肉情の欠片が残っていた。
「違う……俺は、あんな淫乱じゃない!」
年頃なのでムラムラするときはあったが、自慰をすればおさまっていた。子どもたちと一緒に寝起きしているので一人になれる時間はそうない。だから手短に済ます癖がついている。
「このアロマのせいでしょう。見覚えはありますか?」
首を横に振るとニルスは小さく頷いた。
「これはオメガを強制的に発情させるものです」
「そんなもの誰が……」
はっと気づいて言葉を失った。
この城にはカイトの敵しかいない。きっと婚礼の儀式の間に誰かが置いたのだろう。
「ですが、これがなくてもオメガは一月に一度発情期がきます。それを抑える薬はありません」
「嘘だろ。じゃあ俺はまた、あんな」
激しく求めてしまった羞恥で耳朶が熱い。あんな醜態、もう二度とごめんだ。
自分の意思ではなく発情して、匂いをばら撒いて誰彼構わず求めてしまう。男でも子をなせる所以なのだろう。
「ですが、一つだけ方法はあります」
「なに?」
「アルファと番になることです」
「番……?」
そういえば国王も「番になれ」と言っていた。
「オメガが発情したときにアルファにうなじを噛まれれば番となり、子をなせます。それにより発情はおさまると言われています」
「メリットもあればデメリットもあると言うわけか」
ずしりと肩にのしかかる首輪の存在が大きくなった。番になれば発情期はなくなるが、その代わりニルスと生涯を共にしなければならない。
だがカイトにとっては悪くない話だ。
この国を根本的に変えるためにニルスを操り人形にする必要がある。だったら番になった方が動きやすい。
それにいつ城のアルファに襲われるかビクビクしなくて済む。
どうせ昨日のうちに国からも認められ夫婦になったのだ。いまなるか、後でなるかの違いだけで結果は変わらない。
「よし。次の発情期で番になろう」
「話を聞いてましたか?」
「もちろん! ようするにおまえにうなじを噛まれればいいんだろ?」
元気よく返すとニルスは額に手を置いて深い溜息を吐いた。なんだその莫迦にしたような反応は。
「番になってしまったら一生ここから出られませんよ。その覚悟はありますか?」
「覚悟もなにもおまえたちが俺を勝手に攫って閉じ込めたんだろ。俺に選択権なんてあるのか?」
ニルスは困ってしまったように眉を寄せた。
「生涯を左右するものです。よく考えてください」
「おまえは俺と番になるのは嫌なのか?」
ブルートパーズの瞳が大きく開かれた。図星だったのだろう。
もしかしてこの婚姻はニルスが望んだものではないのかもしれない。
昨晩、ニルスはカイトのうなじを噛まなかった。せっかくのチャンスをふいにしたのだ。
(理由はわからないが、そこは探ってみればわかるか)
混沌とした未来にわずかな光明が差した。手を伸ばせば国を覆せる大きな一手になるかもしれない、と期待が膨らむ。
「この城はアルファが多い。もしカイトが私以外と番になれば、その人が次の王になります」
「次の王はおまえの兄貴だろ?」
「オメガから生まれた子が国を繁栄させる神子になります。当然その親には一番強い権力――国王になる定めなのです」
「じゃあここにいる奴はみんな俺を狙ってるのか?」
ニルスは慎重に頷いた。
絶対王政のザガルアでは代々シルベール家が継いでいる。王政に背いたら即刻死刑だ。
だがそれを面白くないと思っている貴族もいるのだろう。この城には下級貴族が従者として多く雇われている。そのほとんどはアルファだ。
想像していたよりもずっと敵に囲まれていたことを知り、ぞっとした。
アロマキャンドルが宣戦布告なのだろう。いつでもカイトを襲うことができる、と脅しているのだ。
発情のときは意識が朦朧として、快楽を求めることしか考えられなかった。今回は運よくニルスに助けられたが、次もそうだと限らない。
「王族に仇をなす者は多いです。それは父も兄も気づいています」
「じゃあさっさと捕まえろよ」
「なかなか尻尾を掴めないのです」
ニスルは目を伏せると長い睫毛が目元に深い影をつくった。
「それならなおのことおまえが早く番になればいいだろ。そしたらおまえが王だ」
「私は……無理やりにはしたくありません」
ここまで頑なだと他に想っている令嬢でもいるのだろう。それか愛し合っていたかのどちらかだ。
だからスラム出身の、ましてや男と番になれと言われても嫌なのだ。
マシュマロみたいなやさしい言葉でカイトを拒絶している。
胸の奥がじりじりと焦げつくような痛みがしたが気にしないふりをした。
「ですが、カイトを守ります。他の誰かと番にはさせません」
「おまえ、矛盾してることに気づいてる?」
「困ったことがあったらまず私を頼ってください」
縋るような瞳にぐっと喉が鳴った。ニルスのあまりにも必死な表情に頷いてしまった。
「……わかった。そうする」
「ありがとうございます」
「変な奴」
そう吐き捨てるとニルスは困ったように笑っていた。
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