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第八話 失ったもの
名もなき山の頂に、とある夫婦が居を構えていた。夫婦には子がひとりおり、三人でささやかだが穏やかな日々を送っていた。
なぜこんな辺境の地で暮らしているのかといえば、夫婦は仙に一番近い実力者とも謳われていた道士だったが、研究に集中するために今は下界から離れているのだ。
時々、夫婦の知り合いが訪れてくることはあったが、基本は三人だけの生活だった。母親似の可愛らしい容姿と、父親の翡翠色の瞳を受け継いだ彼らの子どもは、非常に優れた才能を持ち合わせており、物心ついた頃にはふたりの研究の手伝いをするようになっていた。
そんな幸せな生活が、突如終わりを告げる。
「翠雪 、絶対にここから出ては駄目よ? それから、これを」
母、翠霧 がいつもと変わらない優しい笑みを浮かべて、翠雪 の小さな手にある物を握らせる。
それは、母の宝具のひとつである大扇だった。すごく大切にしていて、翠雪 がねだっても、危ないからと言って触らせてもくれなかった宝具。
「これをあなたに託すわ。私の一族が代々受け継いできた宝具。この子の名前は雪嵐 っていうのよ? あなたの名前はこの子と私の名前からとったの」
「母上、私も一緒に戦います」
駄目よ、と穏やかな表情のまま、翠霧 は諭すように囁く。こんな状況だというのに、怒ったり焦ったりすることもせず、翠雪 をどうにか守ることだけを考えているのだろう。
それをわかってしまっている幼い翠雪 は、それがどういう意味かも理解していた。
「おいていかないで、母上」
「あなたに、私たちの研究を託したいの。あなたは賢い子だから、もちろん今の状況もわかっているわね? 敵の狙いは間違いなく、煉丹術の秘伝書。それを知っているのは、限られた者たちだけ。それが何を意味するか、」
ここを時々訪れていたふたりの友人たちの中に、裏切り者がいるということ。翠雪 はこくりと小さく頷く。父、蒼迦 と駆け付けてくれたひとたちがなんとか食い止めているが、外はかなり混戦しているようだ。
結界に亀裂が入った矢先、黒衣を頭から被り顔を隠した数人の魔族らしき者たちが、奇襲をかけてきたのだ。彼らは目的をもってここにやって来たとしか思えなかった。なぜならこの場所を知っている者は限られており、魔族も妖魔も鬼でさえ知るはずのない場所なのだ。
「私たちに何かあっても、あなただけは絶対に死なせない。だから、あなたは生きて、私たちの意志を受け継いで欲しい。復讐なんて必要ない。そんなことよりも、私たちが成し得なかった研究を、あなたが完成させるの」
それは、もはや遺言ともとれる言葉だった。
「私の可愛い翠雪 をお願いね?」
託した大扇と一緒に、ぎゅっとその小さな手を両手で包む。その手が名残惜しいとでもいうかのように、ゆっくりと離れていく。温度の違うその指先に、翠雪 は胸が張り裂けそうだった。
「愛してるわ、翠雪 。どうか、幸せになって」
小さな身体を覆うように抱きしめられ、耳元で優しい声が響く。途端、身体が石のように動かなくなり声さえも出なくなった。
そこで初めて翠霧 が何か術をかけたのだと知る。その背を見送るしかできず、動かない足と引き止める事すらできない声を恨んだ。
扉が閉じられ、固く封印される。符の効力が切れるまで開けることは叶わないだろう。やっと足が動くようになった頃、扉の前まで行き、何度も何度も堅い扉を叩く。声は出ず、ただ手が傷付くばかりだった。
滲んだ血が扉を汚し、ぽたぽたと零れた涙が床を濡らす。
それからどのくらい経っただろう。憔悴しきった状態で壁に寄りかかり、意識だけ薄っすらと保っていた翠雪 の瞳に、光が射し込む。開かれた扉の奥に誰かが立っていた。
「······ちち、うえ?」
逆光で見えないその姿に、自然と父の姿を重ねていた。それは願望でしかないことを知っていたが、翠雪 は無防備に手を伸ばしていた。その手は大きく、あたたかい感触に安堵する。
「すまない。ふたりを守れなかった」
その意味を、悟る。
表情のない翠雪 の瞳から、涙が流れ落ちる。もう、涙は枯れ果てたのだと思っていた。声も上げずに静かに涙を流す翠雪 をそっと抱き寄せ、そのひとは何度も「すまない」と言った。
落ち着いた頃、事の顛末を語られた。そのひとと数人の道士がここに来た時にはひと足遅く、両親も他のひとたちも息はなかった、と。
書庫や倉庫はほとんど空にされており、家屋も一部が燃えていたそうだ。あれからすでに三日ほど経っており、一緒に連れて来た道士たちが、両親や助けに来てくれたひとたちの遺体を運びだしてくれたことも教えてくれた。
そのひとは自分の存在を知っていたようで、遺体も見つからなかったため、近くにいると思ってずっと捜してくれていたらしい。衰弱している翠雪 を抱き上げて扉の外へと向かう。
頑丈な作りの書庫の奥にある秘密の部屋。書庫はほとんどなにも残っておらず、薄っすらと映る光景に翠雪 は悲しくなった。
大好きな書物がたくさん置いてあったこの書庫は、自分がなにりよも一番好きな場所だった。ぎゅっと助けを求めるように、そのひとの衣の胸の辺りを握りしめて、そのまま顔を埋める。
「大丈夫、もう怖いものはいないよ」
そのひとは翠雪 が怯えていると思ったのか、優しく落ち着いた声音で慰めてくれた。
まだ若い青年だが、両親とどんな関係だったのだろう。ただの知り合いだろうか。どちらにしても、命の恩人であることは確か。
外の空気は数日前に起こった血生臭い出来事など忘れ、晴れ渡った空と心地よい風を翠雪 に感じさせた。
「私の名は風獅 。君のご両親は私の父の知己だった。私も何度か世話になったことがある。間に合わなくて、本当にすまなかった。君のことは、責任をもって私が保護する」
風獅 は風明 派の道士で、自身の父親が最近亡くなり、その報告に来たのだという。到着した時にはすでに遅く、それは酷い有様だったという。
生前、自分たちの研究を狙う者がいると彼の父に相談していたらしく、その者たちが魔族を唆して奪ったのではないかという推測を語ってくれた。
翠雪 はその話を聞いても、今は何も考える気にはなれなかった。
風獅 に身を預けたまま、すべてを諦めてその腕の中で瞼を閉じた。この三日間一睡もしていなかったせいか、急に襲ってきた眠気には勝てなかったのだろう。
次に目が覚めた時、見慣れない高い天井がぼんやりとした視界に映った。まだ薄暗い時間のようで、辺りも物静かだった。
翠雪 は倦怠感が残る身体でのろのろと寝返りをうち、ぎゅっと自身を抱きしめるように寝台の上で縮こまる。
もう自分はこの世にひとりきりで、両親の死に際にさえ立ち会えなかった。底知れない喪失感が襲ってくる。
そんな感覚に耐えられず小さな身体を抱きしめたまま、翠雪 はひとり、声を殺して泣き続けるのだった。
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