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第十三話 変化
あれからもうどのくらい経ったのか。気付けば昼も過ぎ夕方になっていたが、雨のせいでずっと灰色の雲が空を覆い、本来の時間がわからない。
それに加えて何度も村の中と森を行ったり来たりしていた天雨 は、止む気配のない激しい雨の中、あてもなく彷徨うしか術 のない自分自身に憤りを覚えていた。
歩みはどんどん遅くなり、とうとう森の奥で棒立ちになった。
「····本当に、もう、諦めるしかないのか?」
魔界に連れ去られた人間が戻って来たという話を、一度として聞いたことがない。その者たちがどうなってしまったのかを知る者もいない。翠雪 が戻ってくる可能性など、最初からなかったのだ。それでも諦めきれず、ずっと捜し回っていたが、それも限界だった。
もしかしたら、風明 山に戻っているのかもしれない。万姫 の話は全部嘘で、任務を放棄してひとりだけ戻った可能性だってあるはずだ。
(馬鹿か····そんなこと、あのひとはしない)
近くの木に寄りかかり、ずるずると座り込む。外套を深く被り直し、天雨 は俯く。どうしてこんなにも胸が疼くのか。
翠雪 のことなど、あの時までは気にも留めていなかったくせに。その姿を見て、本来の彼を知って、弟子にするように何度も通い、数日一緒にいただけの関係だというのに。
本来の彼?
翠雪 の何を知っているというのか。
年上のくせに片付けもできず、自分の管理もできないような研究馬鹿で、口を開けば嫌味ばかり。綺麗な顔をしているのに、ひとを馬鹿にしたような笑みしか見せないため、対人関係においてかなり損をしている。そこは自分もひとのことは言えないが、似ているからこそ放っておけない。
「捜さないと······、」
顔を右手で覆い、疲れきった表情でぽつりと呟く。まるで本能で主を捜そうとする置いて行かれた犬のように、天雨 の思考は翠雪 を捜し出すことがまるで使命であるかのような、強迫観念に追い込まれていた。
虚ろな灰色がかった青い瞳が、覆った指の隙間から地面を見つめる。そんな中、水溜まりに落ちる雨音が、地面を叩く激しい雨粒が、木々の葉に当たる雫が、一瞬だけふつりと途切れた。その不思議な感覚の後、天雨 の虚ろだった瞳に微かな光が宿る。
「こんな所に座り込んで寝ていたら、風邪を引きますよ?」
白い道袍姿の見慣れた青年が、自分に手を差し伸べながら困った顔で声をかけて来た。彼自身も雨で濡れているが、天雨 よりはまだマシだった。しっとりと濡れ始めた長い茶色の髪の毛や肌色が透け始めた道袍が、今まさに目の前に現われたかのように感じさせる。
差し出された細い指は青白くなっていて、触れれば思った通り冷たかった。
「あれからずっと、あなたを捜してた····」
「そう、ですよね。すみません。でも大丈夫。ちゃんと戻って来れました」
翠雪 は翡翠の瞳を細めて、笑みを浮かべる。そこにあったのは、今まで見たことのない儚げな笑みで、この数刻の間に彼に何があったのかと錯覚してしまいそうになる。柔らかい声も、表情も、まるで別人のようだった。
「翠雪 、本当に、なんともないのか? 奴らになにかされてない? 怪我は? 誰があなたを····」
触れていた指先をぎゅっと握りしめ、引き寄せる。急に下に引っ張られた翠雪 が、予想もしていなかった天雨 の行動に対して、よろけて前のめりになった。
その華奢な身体を衝動的に抱き止めた天雨 のおかげで、地面に転がるようなことにはならなかったが、気付けば強く抱きしめられていた。
「もう、逢えないかと思った」
自分の口から自然と零れたその言葉に、天雨 自身が内心驚いていた。どうして、そんな風に思ったのか。先程、翠雪 が見せた笑みに対して別人のようだと思ったが、それはそのまま自分にも言えよう。ずっと他人に興味などなく、夢の中の少女だけが支えだった。
そんな他人を心配して捜し回り、いつもなら簡単に割り切れるはずの感情が、なぜかそうはならなかったのも。こうやって、本物かどうか確かめるように抱きしめてしまったことも。縋るように呟いた言葉も。自分ではないようだった。
「でも、こうやって逢えました。私は平気です。さ、まずは宿に戻りましょう」
宥めるように、翠雪 は天雨 の背中に手を回して、小さな子供をあやすようにぽんぽんと優しく手を弾ませる。急に自分の行為が恥ずかしくなった天雨 は、思わず肩を掴んで自分から離すと、どんな顔をすればいいのかわからず俯いてしまう。
「無事で良かった····本当に、大丈夫なんだな?」
「大丈夫じゃないように見えますか?」
翠雪 はまっすぐに天雨 を見つめて苦笑を浮かべる。俯いていた視線を少しだけ上げて翠雪 を観察してみるが、怪我をしている様子もなく、顔色は悪いがいつも通りだった。
おかしいといえば色々と違和感もあるしおかしいのだが、今は考えないことにした。
「立てますか? さ、行きましょう」
不自然なほど優し気な笑みを浮かべる翠雪 の意図を、この時の天雨 はつかめないでいた。それくらい余裕がなく、寧ろその笑みに救われる。
手を取り、ふたり立ち上がる。少しだけ弱まった雨の中、並んで歩く。そこに会話はほとんどなく、けれどもこれがいつものふたりの関係だった。
******
夕刻も過ぎた頃。宿に着いた矢先、陽 が心配して駆け寄って来た。ふたりの姿を確認できたことに安堵して、大きく息を吐き出す。
「良かったです、本当に」
正直、天雨 が出て行った時、もう戻って来ないと思っていた。それがいなくなった翠雪 を連れて戻って来たのだから、驚くのも無理はないだろう。
「濡れた衣はこちらに。替えの衣もすぐに用意するので、それまではこの布に包 まっていてください」
「ありがとうございます。ご迷惑をおかけしてすみませんでした」
「あ、お嬢さんはこちらへ。先に衣を用意しますね。あと、部屋にあった上衣も俺が持ってきます」
「あ、はい····お願いします」
もはや否定するのも面倒になったのか、翠雪 は困った顔で頷くしかなかった。天雨 を見上げて、頭から被ったままの外套に手をかける。
「あなたは脱いだ方が良いのでは?」
言って、全身びしょ濡れの状態で入り口に立ち尽くしたままの天雨 を促す。そこに現れた表情は曇ったままで、まるで拗ねた子供のようだった。
はあ、と嘆息してそのまま外套を脱がせるが、纏っている衣も雨が染み込んでいるせいで重たくなっているのがわかる。
「······これは、」
左の腕。黒い袖の少し上の辺りに違和感のある染みがあった。触れてみればべっとりと赤いものが手の平につき、その染みが血であることを知る。
「怪我、したんですか?」
自分がいなくなっていた間、なにがあったのかを聞いていない。天雨 がそれを話さなかったのは、落ち着いてから話そうと思っていたのか、それとも隠したくて話さなかったのか、翠雪 にはその両方に思えた。
「傷はもう平気だ。これは、自分でやった。あなたをひとりにして、敵の誘いに乗って先走った、俺の汚点だ」
表情はまったく変わらなかったが、その声は悔しさと不甲斐なさを含んでいて、翠雪 はそれ以上なにも言えなかった。
それは自分も同じで、魔界での出来事は天雨 にも風獅 にも話す気はなかった。
そういう点では、どちらも追及しないという暗黙の了解があり、この先問われることがあろうとふたりとも誤魔化すだろう。
陽 が衣を手に戻って来た後、ふたりは濡れた衣を着替えた。それは彼の亡くなった両親のものだったらしく、天雨 はまだしも、翠雪 は絶句した。
なぜなら用意された衣は、天雨 は父親の男性用の衣で、翠雪 は案の定、彼の母親の衣だったからだ。さすがにこれはない、と思った翠雪 は自分が男であることを陽 に説明する。
陽 は思っていた以上に驚き、その素直な反応によって余計に翠雪 は落ち込むのだった。
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