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第1話 十年越しの冗談が、今夜蘇る
side 五十嵐 圭
会社を出た頃には、すでに空はとっぷりと暗く沈んでいた。
駅までの道を歩く足取りは、思うように進まない。
「……はあ」
残業続きで、もう何日まっすぐ帰っていないだろう。
夜風が頬を撫でても、頭の奥の重だるさは抜けない。
コンビニの看板がやけに眩しく見える。
同じようなスーツ姿の人間が、みんな無言で歩いている。
誰もが終電の一本前を逃さないように、ただ流れの一部になっていた。
――今日も、上司の顔色をうかがって、
「すぐ修正します」と言って、何度も頭を下げた。
そのたびに、心のどこかがすり減っていく。
間違っているのは自分なのか、環境なのかも、もうよくわからない。
ただ、“生き延びるために働いている”──
そんな実感だけが、胸の奥にじっと重く沈んでいた。
家に着いたのは、もう22時を過ぎていた。
安アパートのドアを開けると、狭い玄関に郵便物が散乱していた。
郵便受けから抜き取ったチラシや封筒の束を、無造作にテーブルへ放り投げる。
コンビニ弁当でも買ってくればよかったと後悔しながら、冷蔵庫を開けて中身を確認する。
卵とキャベツ、あとは賞味期限ギリギリのハム。
「……まあ、なんとかなるか」
適当に炒めものでも作ろうと思いながら、ふと、さっき置いた郵便物の中に見慣れない封筒があることに気づいた。
手に取ってみる。厚手の紙に、丁寧な印刷。
五十嵐 圭《いがらし けい》様
桜陽学院高等学校 同窓会のご案内
「……マジか」
思わず苦笑いが漏れる。
開封する気にもなれず、そのまま封筒をテーブルに置いた。
だが、その瞬間、頭の中に懐かしい景色が浮かんでくる。
――放課後の校庭。オレンジ色に染まる夕暮れ。
ベンチに座って教科書を開いているふりをしながら、周囲の声に耳を澄ませていた俺。
「ねぇ、竹村さんも安堂くんのこと好きなんだって」
「私も! やっぱ安堂くんかっこいいよね!」
女子たちの話題に上がるのは、いつも安堂 輝《あんどう ひかる》だった。
中学からの友人で、クラスの中心人物。
とにかくイケメンでスポーツ万能で成績もそこそこ。何より、あの人懐っこい笑顔が周りを引き寄せる。
俺みたいな地味で真面目なだけの人間とは、住む世界が違う――そう思っていた。
だから、あの日のことは今でも信じられない。
放課後の教室。掃除当番が終わって、机に座って明日の予習をしていた時だった。
「安堂くん、誰か好きな人いるでしょ? 教えてよ~」
甲高い声が教室に響く。振り返ると、女子たちが輝を取り囲んでいた。
「ねえ、誰? 私たちの中にいる?」
「だって最近なんか様子おかしいもん」
輝は苦笑いしながら、困ったように頭を掻いている。
「いや、別に」
「嘘だ~! 絶対いるって!」
「教えてくれないと帰さないから!」
女子たちの声が段々大きくなる。教室にいた他のクラスメイトたちも、面白そうにこちらを見始めた。
俺は教科書に目を落として、関わらないようにしていた。
だって、どうせ輝のことだ。クラスの誰かを選んで、またモテ男っぷりを発揮するんだろう。
「ほら、言ってよ!」
「私だったら嬉しいなー」
その時、輝がゆっくりと口を開いた。
「……いるよ、好きな人」
教室がざわめく。女子たちの目が一斉に輝きだした。
「誰!? 誰なの!?」
「教えて! ねえ!」
輝は少し困ったような顔をしてから、ふと、こちらを見た。
――え?
視線が合う、心臓が跳ねる。……まさか。
輝が、ゆっくりと俺の方へ歩いてくる。女子たちもついてくる。
教室中の視線が、俺と輝に集中した。
「お、おい……」
輝が俺の机の前に立った。真顔で、まっすぐ俺を見つめる。
「……俺、圭が好きなんだ」
教室が、一瞬、静まり返った。
時が止まったような沈黙。誰も息をしていないような、重い空気。
「だから、諦めて」
――は?
頭が真っ白になった。何を言われたのか理解できない。
耳が熱い。顔が熱い。心臓が壊れそうなくらい激しく脈打つ。
次の瞬間。
「ぎゃははは!」
「嘘でしょ!?」
「安堂くん、マジウケる!」
女子たちが爆笑した。教室中に笑い声が響き渡る。
「ちょ、ちょっと……!」
俺は思わず立ち上がりかけたが、足が震えて力が入らない。顔が燃えるように熱くて、どこを見ていいか分からない。
「ふはっ、冗談だよ、冗談! みんな真剣すぎ」
輝が軽く笑いながら言う。でも、その目は笑っていなかった。
「もう、安堂くん最悪!」
「びっくりしたじゃん!」
「五十嵐を好きとか、ありえないでしょ」
女子たちは文句を言いながらも、笑いながら散っていく。
教室が元の騒がしさに戻る。
――あのときの俺は呆然と座ったまま、何が起きたのか整理できずにいた。
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