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二十四話 悪い男
シャワーの湯が、肌を滑り落ちる。火照った身体はぬるいシャワーを浴びたところで、一向に熱が引かなかった。
つつ、と指先で肌をなぞる。太股から腰。腹、胸。
―――唇。
「……」
吐息を吐き出し、シャワーで曇った鏡の中の自分を見る。
あれは。
キス―――だった。
雨下の、熱くて甘い舌の味が、まだ口腔内に残っているようだった。
倒錯的で、背徳的な行為の最中の、酷く甘美なキス。
(あれは、何だったんだろうか……)
思い返して、胸がキュッと音を立てる。
脚フェチで、脚にしか興味のない男。ある意味では安全だと思っていた男と、どこか危うい境界線の行為。
(それに)
脚に挟まれて、イかされたことも。
雨下は、曖昧なことをしない男だ。いつだって明確に己の欲望を表現し、そしてそのように手に入れて来た男である。
雨下は、俺の脚にしか、興味がなかったはずだ。
(―――でも)
ドキリ、心臓が鳴る。
鏡にうっすらと映る、自分と目が合う。鏡の向こうにいる俺は、お前はどうなのかと語りかけていた。
抵抗することは、出来た。
逃げることだって、出来たと思う。
「―――俺……」
カァ、と、頬が熱くなる。
雨下に触れられた箇所が、熱い。まだ、身体の芯が熱を持っていて、疼いている。
「……」
吐息を吐き出し、下腹部をなぞる。疼くような重い熱は、なかなか引くことはなかった。
◆ ◆ ◆
雨下はいたって自然だった。自分がしたことも、先程まで疑似セックスみたいなことをしたことも、忘れたように、いつも通りだった。
「お腹空いただろ? ケータリング頼んでおいたから。ワインで良いかな」
「あ、うん」
笑顔で白ワインを開ける雨下を見ながら、テーブルに着く。週に一度の脚を売る日は、大抵、雨下によるもてなしが待っている。テーブルに並んでいる綺麗なオードブルを目の端に入れながら、袖を捲った雨下に見惚れる。
(……カッコいい、んだよな……)
客観的に、雨下は良い男だ。見た目も整っているだけでなく、表情に自信が滲み出ていて、魅力がある。スタイルも良いし、適度についた筋肉と、浮き出た血管。骨っぽい手、薄い唇。
表面を整えただけでなく、自分の欲望を体現し、叶えてきた男の、生々しい美しさがある。
この男と、先ほどまで淫らな夜を過ごしていたという実感が、ふわふわした思考の奥底にくすぶっている。あの時間だけがうまく切り取られて、今は存在していないようにも見えた。
黄色みを帯びた白ワインが、テーブルに置かれた。俺がシャワーを浴びている間に開けたのか、じゅうぶんに香りが広がっている。
「縁くん、週末は空いてる?」
「週末、ですか?」
急に予定を聞かれ、目を瞬かせる。日々の予定の殆どを大学とバイトで埋めているため、俺の予定はあまり空いていない。とはいえ、日曜日は大学がないので、バイトということになるが、今はそれほど熱心に入れているわけではなかった。
雨下との契約でゆとりがあるというわけではなく、単純に免許も車もなく行けるバイト先が少ないため、未だにコンビニの次が続いていないだけである。
「夜は『セレンディピア』がありますけど」
「じゃあ、日中は空いてるね。赤坂に店をオープンするんだ。一緒に見に行こう。そのあと、中華食べに行こう?」
「あ、オープンなんだ。おめでとうございます」
店のオープニングなんて、華やかなイメージだが、俺なんか連れていって良いのだろうか。そう思うと同時に、経験したことのないそのイベントに、興味が湧いたのも事実だった。
雨下がやっている仕事というのを、俺は聞くばかりで見たことはなく、雨下の店に行ったこともない。だから、雨下の誘いは断る理由は全くなかった。
(オープンか……。どんな感じなんだろう……)
俺の記憶にある新装開店のイベントは、コンビニが出来た時のものでだいぶ昔の記憶だ。その時はおにぎりの割引キャンペーンをやっていたり、店の前でくじ引きなんかをやっていた。行けばお菓子がもらえるようなイベントで、母と一緒に行った記憶がある。雨下の店はさすがにそんなイベントではないだろう。正直に言うと、想像がつかなかった。
「……お店のオープンって、どんなことをするんですか?」
「うーん。まあ色々だけど……。業界の人を呼んだり、インフルエンサーとかね。そういう人を呼んでプレオープンをやったりするよ。メディアも入れるし。前に作った店の時はオープニングの時に記念品を限定で渡したりね」
「記念品?」
「トートバッグみたいなものとか、そういうものだね。万年筆とか、革のキーケースなんて時もあったかな」
多分、俺が想像したトートバッグじゃないんだろうな。雨下のことだから、長く使えて良いものをプレゼントしたに違いない。
「そういうのって、お客さん殺到しそう」
「まあ。最近はすぐにフリマサイトで売られるよね。本当にうちが好きな人に渡って欲しいところだけど、こればかりは」
そう言って雨下は肩を竦める。雨下のアパレルなどは癖がある服のせいか、ファンも多い。小井手などは、きっとそういう限定品なんかに食いついたりするんだろうと思う。
「来てくれた人にコンセプトにあったお菓子を出したりね、シャンパンを用意したり。そういうこともあるよ」
「すごい、華やかなんだ……」
「そうでもないよ」
雨下は笑いながらケータリングのウニのフランに手を伸ばす。
「今回はもっと、小規模で身内だけの感じだから。気負わなくて大丈夫だよ」
「でも、赤坂だろ?」
「スウェットで来たって平気さ」
その言葉は信用できなかったが、少なくとも『気負わなくていい』という言葉は真実なのだろう。
「中華は駄目だろ」
「あはは。確かに良いお店だけどね」
雨下が指に着いたソースを舐めるのを、思わずじっと見る。
あの舌が。
(いや、何を考えてんだ……)
何となく、キスは契約外だとか、そういうことを冗談のように言っても良かったのかもしれない。けど、なぜか言葉にするのは躊躇われた。ざわざわと、胸がざわめく。
ひとしきり食事を終え、いつも通り帰宅の準備をする。雨下はいつも玄関まで見送ってくれる。部屋を訪ねて来た時よりも、少し気だるげな雰囲気がしていて、どこか危うい雰囲気があった。
「えっと……。それじゃあ」
なんと言って帰るのが正解なのか、未だによくわかっていない。お疲れ様というのも変だし、バイバイも違う気がする。
「うん。縁くん」
雨下が、腕を引いた。不意打ち過ぎて反応できずに、雨下の顔が近づいたことも、すぐには分からなかった。
雨下の唇が、俺の唇を軽く食んだ。ちゅ、と音を立てて重なった唇から、舌が軽く唇を撫でていく。
「―――っ、……」
そのまま、何事もなかったかのように、唇が離れていく。濡れた雨下の唇だけが、現実だと告げていた。
「――――」
「おやすみ。週末、迎えに行くから」
「―――は、い……」
キスに言及できないまま、俺は反射的にそう返して、混乱のままに部屋を後にする。やって来たエレベーターに乗り込んでから、ようやくキスをされた事実に思い至って、顔を覆ってその場に蹲った。
「―――――え?」
なんで。
どうして。
頭の中に疑問が湧く。だが、考えても答えなど出るはずがない。
ただ一つ言えることは。
雨下真尋という男は、自分のしたいことを、押し通してきた男だということだ。
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