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二十五話 どうして、恋というやつは。
キスの理由を聞くことが出来ないままに、俺は悶々とした日々を送ることになった。
あのキスにどんな意図があったにしても、嫌いでした行為ではないと思う。けれど、それがどんな好意なのかまでは、確信が持てなかった。
(何しろ、今まで経験ゼロだからな……)
これまでの人生で、誰かを好きになるような甘い感情を抱いたことがなかった。単純に、生活に手一杯で、他人を見る余裕がなかったというのが大きい。
忙しい生活では、性欲すら薄れてしまって、正直に言えば、自分はそういうことに興味が持てない人間なのだとさえ思っていた。
もっとも、今は―――。
(雨下……)
布団に横になったまま、唇をなぞる。雨下の舌が、俺の唇を舐めていった感触を、思い出す。
(嫌じゃ―――なかった……)
最初のキスは、事故のようなものかと思った。盛り上がりすぎて、そんな感じになってしまったのだと、思っていた。
でも、二回目のキスは、意図的なものだった。雨下の意思で触れられた唇は、酷く甘く。
もっと―――。
(もっと……)
もっと、触れて欲しかった。
「っ……」
いくら鈍感でも経験がなくとも。自分の感情がなんなのか、分かっている。
「最悪だ……」
顔を覆い、頭を抱える。
なんで。
なんで、好きになっちゃったんだろう。
足フェチの変態野郎なのに。
住む世界も、立場も。
なにもかも違うのに。
「どんな顔してりゃ良いんだよ……」
―――雨下は、俺の足にしか、興味がないのに。
吐息と共に吐き出した声は、シミの残った天井へと消えてった。
◆ ◆ ◆
おんぼろアパートの目の前に、場違いな高級車が停められている。週末、雨下は宣言通り、俺を迎えにやって来た。
(なんかな……)
今まではなにも思わなかったのに、雨下に自分の家をみられるのが、正直に言えば少しだけ嫌だ。
アパートの三和土に立つ雨下は、そんな俺の心情とは裏腹に、明るくとても機嫌がいい。
「初めて、縁くんの家に来られたね」
「出掛けるんだろ? あんまジロジロ見ないで下さいよ」
気恥ずかしさから、つい早口にそう言ってしまう。本当なら、ちゃんとお茶くらい出すべきなのだが、生憎とそういう生活をしていないため、もてなす準備が出来ていない。なにより、雨下がジロジロ見ているのが嫌だ。
「僕の服がいっぱいだ。これ、まだタグ着いたままじゃない」
「着きれないって。置くところにも困ってるのに」
「あは。じゃあ、プレゼントはクローゼットかな」
「笑えないって」
ただでさえ、たくさんのものを貰いすぎているというのに、そんな発言されたら現実になりそうで怖い。
「まあ、あながち嘘というわけでもないんだけどね」
「え?」
雨下がボソリと呟く。だが、何を言ったのかは明確には聞き取れなかった。
「と、とにかく、行こうって。俺、中華楽しみにしてるんだから」
「ああ、そうだった。美味しい中華を存分に味わってもらわないとね」
ほとんど背中を押すようにして、雨下を部屋から連れ出す。俺のアパートは築年数が古すぎて、住んでいる住人は半分以下だ。たぶん今住んでいる住人が出ていったら、大家さんは取り壊して新しい建物を建てるか、駐車場にしたいのだと思う。
雨下にこの住まいを見られるのは、なんとなく気恥ずかしい。自分の人生を恥じたことなどなかったのに、雨下と比べても仕方がないのに、そんな風に思ってしまう。
「中華も良いけどさ」
錆びついた階段を下りながら、雨下が視線だけ俺の方に向けた。
「ん?」
「縁くんの言ってた、牛丼も、食べてみたいな」
「は? 牛丼食べてみたいって……」
何を言っているんだろうと首をかしげながら、階段を三段ほど降りて、俺はふと気がついた。
「もしかして、牛丼食べたことない?」
「だねえ」
まさかの発言に、驚いて雨下を凝視する。この世に、牛丼を食べたことのない日本人なんて存在するのか。
「マジで? 人生損してるって」
「本当?」
「いや、ごめん、盛った。雨下が食べるようなものじゃないと思うけど」
「そんな風に線引きされるのは悲しいなあ」
クスクス笑いながら、雨下がそう言う。
雨下からすれば、本心なのかもしれない。
「……斎藤さんに頼めば、きっと作ってくれるよ」
せめてもの妥協案で、プロの手で、プロの目利きでの調理を提案してみる。だが、雨下は首を振った。
「いや、縁くんが普段、食べているところが良いな」
「―――」
意味など、きっとない。
金持ちの道楽。その範囲内に決まっている。
けど、それが無性に、嬉しかった。
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