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第1話 嵐と来訪者
淀んだ薄暗い空を見る度に思う。
誰か、僕の名前を呼んでくれないだろうか。
例えそれが、偽名であっても構わない。この世界でだけしか通じない名前でも構わないから。
「さ、最初は、美しい人だと思っていました」
脅されるように睨まれた男は、怯えながら口にした。声が震えている。けれど目の前の人物にはどうでもいいことだった。先ほど自分を「化け物」と罵り、毒物をこの体にぶちまけた男だ。怯えようが錯乱しようが、助ける謂れもない。
化け物と呼ばれた少年にとって、自分を罵っていいのはあの人だけだった。男に「美しい人」と称された青年。今は白い肢体をさらしながら、寝台でぐったりと眠っているあの人。
「天からの御使い……神の使徒……いえ、名前などどちらでもいいのです。ただ、あの時、私は彼に救われていました。その言葉に。一挙手一投足に」
告白を聞いても、当然だとしか思わなかった。彼に目を奪われない人がいるならば、それは、世界の秩序の方が狂っているのだ。
「あの時以降、彼を見ると、狂ったように鼓動が鳴り出すんです。……好き、だったんだと思います」
「なのに抱かなかったんだ?」
「恐れ多い……怖かった……」
男は顔を大きな手のひらで覆い隠す。少年は、泣かれたら鬱陶しいな、としか思わなかった。
「彼と……貴方の手により、私の罪は白日のもとに曝されました」
その代償として失ったものもある。いずれにせよ、暗闇が渦を巻くあの空間は異様だった。だから何の疑問も持たずに呑まれてしまった。彼らの作る異常さに。
「そして、彼は私の罪を赦すと言いました……その心を、どれほど美しいと感じたことか……」
青年はその神々しさに圧倒された。故に自分が彼と特別な関係になることなど烏滸がましい。自分を見て欲しいなどと口にすることさえ躊躇われた。
「だからこそ、せめて傍にお仕えして、神の如き姿を眺めていたかった……そして時折、その名を呼ばせてくだされば幸福でした?ただ一言、「リュナ様」と」
***
窓の外で、稲妻が鋭利な線を描いた。間を置くことなく、大きな雨粒が窓を叩く。嵐が来るのだろう。
そして嵐は、この建物に新たな人間が訪れることを意味する。
風で窓ががたがたと揺れた。しかし、どれだけ外で嵐が吹きすさぼうとも、この建物には関係ない。窓が割れて雨が石畳を濡らすこともない。
ここは牢獄だ。正確には石造りの修道院なのだが、訪れるのは罪人ばかり。そしてどう足掻いても外への扉は開かず、罪人が俗世に解き放たれることもない。ともなれば、牢獄とたいして変わらない。
リュナはいつも通り、薄暗く冷えきった廊下を歩いていく。途中で人の姿を見つけた。
裸の大男だった。雨に打たれ体を冷やしたのだろう。寒そうに震えていた。どうやって入ってきたのかは知らない。本人も覚えていないに違いない。ここに来る罪人は、いつもそうだ。
リュナは驚きもせず男に近づく。来訪者を予測していたからだ。リュナが近づく度に、男は怯えるように震えた。触れられるほど近くに来れば、さっと目をそらす。
「……これを」
自分の着ていた外套を男にかけてやる。全裸のままこの辺りを歩くよりはマシだろう。
「動けますか?」
男が頷いたので、立ち上がらせる、自分より30cmは背が高い。これでは肩を支えるのは難しいので、背中に手を添えるだけに留めた。
廊下を歩いている最中、男は一言も喋らなかった。リュナの方を見やっては、目が合えば視線を逸らす。その繰り返しだった。
「僕の部屋です」
クローゼットから麻布を取り出し、体を拭くように指示する。その後、男をベッドに座らせ、リュナは余っている服を見繕った。白いシャツに黒の下衣。それと立襟、長丈のコート。全てを身に纏えば、シンプルでありながらも、どこかの宗教の信徒か、どこかの学校の生徒ともとれるだろう。この建物も、修道院か何かだと推測できるはずだ。
「サイズは合わないと思いますが、羽織るだけに留めたりボタンは外したりして、なんとか工夫してください。ここでの暮らしは、決して贅沢なものではありませんから」
男がのろのろと服を着るのを見届けてから、部屋を出る。
「この部屋はお貸しします。僕は空き部屋に泊まりますね。貴方の暮らしについては、また後日お話しましょう。今日のところはひとまず、ゆっくりとお休みください」
最後でようやく、男と目が合った。しかし結局、この日のうちは口を利くこともなかった。
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