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第三話 海①
夏が本格的に始まった。二人の住む田舎町にも、熱い夏が訪れる。山と海に囲まれた鄙びた町だが、夏には海水浴場が開かれて、近隣の町からも観光客が訪れる。一体どこから湧いて出たのかというほど、この時期だけは海が賑わう。
「おい、ぼさっとすんな。手ェ動かせ」
汗だくになりしゃがみ込む背中を軽く蹴られた。顔を上げれば、同じく汗だくになった七瀬が、瞬介を見下ろしていた。直線的な夏の日差しが、逆光となって七瀬を照らす。
「早くしねぇと、客が来ちまう」
「つってもよぉ、この量全部はさすがにきちぃって」
目の前には浮き輪の山。赤や青、黄色に緑。鮮やかなビニールは仄かに甘いにおいがして、夏を感じさせるのにもってこいだが、今はそんな悠長なことを言っている場合ではない。これら全てに、空気を入れなければならないのだ。
「しょうがねぇだろ。これも仕事のうちだ。明日には新しいコンプレッサーが届くから、それまでの辛抱だ」
「だからってよ~、人遣いが荒いったらねぇわ」
普段使っている電動のコンプレッサーが前触れもなく壊れたため、手動のポンプで空気を入れる。息を切らし、汗の上から汗を掻きながら、ひたすら空気を送り続ける。
これらの浮き輪は、全て貸し出し用だ。夏休みの間だけ、知り合いの海の家でバイトをしている。小中と同級生だった友人に誘われて、彼の親戚が営む店で働いている。気楽と言えば気楽だが、仕事内容は体力勝負である。
「おっすー。元気に働いてるか~?」
噂をすれば、二人にこのバイトを紹介した友人、松村小太郎が顔を出した。瞬介が汗だくで焼きそばを作っているのというのに、涼しい顔をしているから腹が立った。
「焼きそば四つと~、あとかき氷ももらうかな」
「おいおい、なに呑気に注文なんかしてんだよ? お前はこっち側の人間だろうが。今更顔出しやがって。お前の抜けたツケが全部こっちに回ってきてるんですけど!?」
すると、松村はやはり涼しい顔をしたまま、「ゴメンゴメン」と形だけ謝った。
「いや~、オレも手伝いたいのは山々なんだが、模試だの補講だので忙しくてな。そもそも、うちの高校バイト禁止だし」
「去年はしてたじゃねぇか」
「あれは内緒でやってたんだ。学校にバレて大目玉だ。反省文十枚書かされた」
「マジかよ。そりゃ大変なこったな」
「そんなわけだから、今年は大人しくしておくつもりだ。今日はたまたま暇だったから、高校の友達を連れてきた。おじさんおばさんの店を見てもらおうと思って。ついでにオレの地元もな」
松村は、近隣の町の私立高校へ通っている。会うのはおよそ一年ぶり。昨年は一緒に働いた。
「んじゃまぁ、ジュースの一本でもサービスしてやろうか。そこから好きなの持ってけよ」
鉄板をジュージュー言わせて焼きそばを作りながら、カウンター脇のアイスボックスを示すと、松村は感心したように瞬介を見た。
「……んだよ。おまけは一本までだからな」
「いや。水島お前、えらい様になってるな? もはや鉄板焼き職人じゃないか」
「そりゃあ、週七で働いてるからな!? 嫌でも職人になるわ、こんなもん」
「暇なんだな」
「おめー、ケンカ売ってんの?」
「いや、真面目な話だ。お前、というか宮野もだが……」
松村は店内を見渡す。七瀬は炎天下で呼び込みをしていた。
「そんなにバイトばっかりで、大丈夫か?」
「まぁ、どうせ暇だしね、俺ら」
「けど、中学の時は……」
松村が言い淀んだことで、何を言いたいか分かった。瞬介は何も言わなかった。
「……いや、悪い。何でもないんだ。お前達が毎日バイト入ってくれて大助かりだって、おじさん何遍も言ってたぞ」
「だろーな。こりゃ時給アップ来るか?」
「期待しないで待ってることだな」
焼きそば四人前とかき氷を渡すと、松村は高校のお友達とやらと連れ立って、砂浜へと戻っていった。途中、七瀬にもチョッカイをかけているのが見えた。
中学の頃は、とにかく部活に夢中だった。蒸し風呂のように暑い武道場に通い、汗の染みた道着に着替えては、毎日毎日竹刀を握った。朝練だの自主練だのと理由をつけては、ほぼ休みなく稽古に励んだ。
七瀬とは幾度も剣を交えた。お互いに勝敗は一歩も譲らない。昨日勝ったと思えば、翌日には打ち負かされ、それが悔しくてますます稽古に打ち込んだ。今日負けても、明日絶対に勝ってやると思えば、練習も苦にはならなかった。きっと、七瀬も同じだっただろう。勝敗そのものよりも、勝負することそれ自体に意味があった。
二人が三年生に上がる頃には、地域でもちょっとした話題になるほどの有名チームに成り上がっていた。元々、ほとんど無名の弱小剣道部だったことを思えば、かなりのサクセスストーリーである。県大会優勝を果たしたあの夏は、瞬介にとって、最も輝かしい季節の一つだった。
「水島くん、そろそろお昼休憩、どうぞ」
松村のおばである、オーナーの奥さんが言った。物腰柔らかな中年の女性だ。焼きそばとかき氷を二人前用意してくれた。
「宮野くんにも声かけて。これ、二人で食べてね」
お昼のピーク時間を過ぎて、遅めの昼休憩をもらう。七瀬と共に、削ってもらったかき氷に好きなだけシロップをかけ、海の見える座敷席で食べた。
「疲れたな」
「ああ」
「夜まで長いぜ」
「……」
体温で氷が溶ける。口の中でシャリシャリと音がする。七瀬の口の中からも、氷の溶ける音がする。
「シロップ、何かけた?」
「イチゴとレモン」
「普通だな。俺はブルーハワイ」
「ブルーハワイを特別視してる辺り、ガキの頃と変わんねぇな」
「なんでだよ。うめぇだろ」
「イチゴだってうめぇ」
緩く微笑んだ七瀬の唇が、甘いシロップに染まって、やけに赤く色づいていた。舐めたら甘いのだろうと思いながら、瞬介は言葉を飲み込む。
「お前、口真っ赤だけど。生肉でも食った?」
「てめぇこそ真っ青だぜ。海で溺れたか?」
「マジ? そんな青い?」
「ああ」
七瀬がこちらへ手を伸ばす。火照った指先が、唇を拭った。男のくせに、嘘みたいに柔らかかった。それ以上に、火傷してしまいそうに熱かった。匂いは分からなかった。ブルーハワイの、爽やかな甘さだけが微かに香った。
「ほら、真っ青」
瞬介の唇を拭った七瀬の指先は、確かに真っ青に染まっていた。まるで、この海そのもののような青。七瀬は僅かに目を伏せると、指先のシロップをぺろりと舐めた。七瀬の舌に、色が移る。
「おれはやっぱり、イチゴ派だな」
「おめー、ひとのもん横取りしといてそれはないんじゃない? 俺にもイチゴ寄越せよ」
「ああ? 別に横取りはしてねぇだろ」
「同じようなもんだろ、ほら」
七瀬のかき氷をスプーンで掬うと、取り過ぎだと怒られた。ちょうど、イチゴとレモンの両方のシロップがかかった部分を取ってしまった。甘くて酸っぱい、思っていた通りの味がした。
休憩が終わり、仕入れ先から荷物が届いた。午後一番の作業は、これを海の家まで運ぶこと。当然ながら、トラックは砂浜に乗り入れられない。
「うげぇ~、なんか多くね? 仕入れ増やしたぁ?」
早速瞬介が泣き言を言えば、七瀬は呆れたように溜め息をつく。
「仕方ねぇ。地道に運ぶだけだ」
焼け付くアスファルトにしゃがみ込み、七瀬は段ボール箱に手をかける。持ち上げようとして、一瞬、顔を顰めた。
「あー、それラムネが入ってんだ。書いてあんだろ、読めねぇのぉ?」
瞬介が茶化すと、七瀬はますます顔を顰める。
「いちいちムカつく言い方しかできねぇのか、てめぇは」
「ムカついてんのはお前の問題ですー。危ねぇから俺に貸してみな? 転んで中身ぶち撒けられたりしちゃあ、時給アップなんざ夢のまた夢だぜ。お前はあっちの、なんかでかいやつ持ってけよ」
七瀬の手からふんだくるようにして、瞬介はラムネ瓶の入った箱を持ち上げた。これは確かにずしりと重い。腰に来る。
「お前こそ、せいぜい転ばねぇように気をつけろよ」
そんな憎まれ口を叩きながらも、七瀬は瞬介に言われた通り、大きくて軽い箱から運び始めた。
焼けた砂浜に足跡を残して何往復も。サンダルの裏が焼けている。肌がじりじり焦げている。殺人的な太陽光線に炙られる。あまりの熱さに、何か間違いを犯しそうだ。
「……おい。もうへばったか」
汗だくでうずくまる背中を、軽く蹴られた。顔を上げれば、同じく汗だくの七瀬が、瞬介を見下ろしていた。流れ落ちる汗が、光を浴びて煌めいている。直線的な夏の日差しが、逆光となって七瀬を照らす。
「はは、なんかデジャヴ……」
「なに言ってんだ。熱さで頭やられたか?」
七瀬も、瞬介の隣にしゃがみ込んだ。瞬介が抱えているのは、ラムネ瓶の段ボール。
「お前も結局重いんじゃねぇか」
「だってよ、これだけで三箱もあるんだぜ? どうなってんだよ。バカじゃねぇの?」
「一緒に持ってやろうか」
「……」
偉そうなことを言っておいて情けない姿を晒している瞬介を笑うでもなく、七瀬は言った。だが、瞬介は一人で箱を持ち上げる。
「いんや? おめーのその細っせぇ腕じゃ、心許ねぇし? てか、ちょっと休憩してただけで、俺ァまだ全然やれるし? お前は店戻って、氷でも削ってな」
「ああそうかよ」
ばしん、と今度は強めに背中を叩かれた。
七瀬は決して口にしない。瞬介も決して口には出さない。けれども、七瀬が時折、左腕を庇うような仕草をするのを、瞬介は決して見逃さない。
重い荷物を持つ時や、スポーツでボールを受けたり投げたりする時、七瀬はなるべく左手を使わず、負担をかけないようにしている。意識的にか、無意識なのか、それは瞬介にも分からない。しかし、昔受けた傷が、きっと今でも痛むのだろうと、それくらいの想像はできる。
だから、わざわざ口を出す。手を出してしまう。いつも、七瀬の仕事を奪ってしまう。七瀬がどう思っているのかは分からない。もっと素直に優しくできたら、七瀬も、もっと素直に瞬介の優しさを受け取ってくれたら、きっと一番いいのだろう。けれど、そうできない理由もある。
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