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第二話 流星

 二人の通う高校では、一学期の末頃に文化祭が行われる。天文部でももちろん、主に吉川が張り切って、企画展示を行った。直近の月食を始めとした観測記録や星空写真、昨年急ピッチで仕上げた太陽系の模型を手直しして展示し、それから、一応今年の目玉として、プラネタリウムを設置した。段ボールを貼り合わせてドームを組み立て、市販の投影機で星を映せば完成である。  手作りのミニチュアプラネタリウムながら、よくできたと自画自賛したい。しかし、客の入りは正直微妙で、というのも、人手が足りないゆえに、集客のためのビラ作りにまで手が回らなかったのだ。小さな子供やお年寄りには概ね好評だったが、メインターゲットである中高生は、足を運んでくれさえしない。そもそも、天文部などというマイナー部活が存在していることを、本校の生徒ですらほとんど認知していないだろう。  そんなわけで、三人交代でシフトを組んでみたのはいいが、ほとんどが暇な空き時間になってしまった。実際に星空を映してみれば、本物そっくりに美しいのに──市販の投影機の質がいいおかげだが──やはり、あのどう見ても手抜きのポスターはいけなかったかと、瞬介は今更になって思った。   「……覚えてるか」    ふと、七瀬が言う。小さなドームの中で二人、頭を突き合わせるように寝そべって、投影した星空を見上げていた。男子高校生が二人で横になれるほどの面積は当然なく、足場にしている机の隙間から足を投げ出し、狭いドーム内にどうにか収まっているのだった。   「何がだよ」 「前にも、こんな星を二人で見ただろ」 「……」    無数の星が集まる銀河。夜空を流れる天の川。流れ星が瞬いて消えた。   「……覚えてねぇ。んな昔のこと」 「そうかよ」    ぶっきらぼうな瞬介の物言いに、七瀬は淡々と答えた。寝ていた体を静かに起こし、瞬介の顔を覗き込む。   「……なに」    七瀬の影が星空を覆う。さらりと流れた黒髪が頬に触れた。   「うそつき」    そう囁いて、影は離れていった。入口の暗幕を捲って、七瀬はドームの外へ出る。   「どっか行くの」    瞬介もドームの外へ顔を出し、言った。   「クラスの方のシフト、そろそろ交代だろ」 「あ…そう」 「先輩が来るまで、ちゃんと留守番してろよ」 「お前なぁ~、俺ァ赤ちゃんかなんかですかっての! 俺を舐めすぎ!」 「似たようなもんだろ」 「どこがだよ!?」 「そういうとこが」    じゃあな、と言って扉は閉まった。突如訪れた静寂に、瞬介は胸を撫で下ろした。  キス、されるかと思った。さっき、二人きりのドームの中で、七瀬が顔を近づけてきた時。彼の髪に撫でられた頬が、まだ熱を持っている。彼の囁きを捉えた鼓膜が、まだ甘く痺れている。あれは、確かにキスの距離だった。吐息も、睫毛の揺らす風さえも、瞬介は感じた。  うそつきと言ったあの声は、決して瞬介を咎めるものではなかった。閨で聞くのと似ているような、けれども、ただ甘さを湛えただけの声ではない。正体不明の妖しさと、理性を惑わす危うい魅力と、そんなものを孕んでいた。   「うそつきって……」    そうだ。嘘をついた。七瀬と二人で見た、あの景色。今でもはっきりと思い出せる。忘れられるはずがないのだ。  小学校四年生の夏休みだった。学校の授業で使った星座早見盤を持って、星を見に行った。ちょうど、ペルセウス座流星群がピークを迎えていた。  ほとんど真夜中近かった。親が寝ているのを確認し、こっそりと家を抜け出した。そこから先は、あっという間だ。街灯もろくに立っていない道を、懐中電灯一本で照らしながらぴょんぴょん駆けた。夏の夜の湿った風を肌に纏って気持ちよかった。  観測場所として七瀬が選んだのは、近所の裏山だった。地元民がハイキングをしたり、子供達が遊び場にしたり、何かと馴染み深い場所である。整備された山道を登り、山頂付近の展望台まで行くと、満天の星を眺めることができた。  広い視野。何も遮るものがない。周囲には余計な明かりもなく、星明かりを邪魔するものは何もない。   「それでさ~、どれがペルセウス座なわけ?」    瞬介が呑気に言うと、七瀬は星座早見盤を回して星を探した。   「んーと、あれがはくちょう座で、あれが夏の大三角だから……」 「あれが夏の大三角か~。ベガと~、アルタイルと~、あと何だっけ? 思い出せねぇ」 「そっちはいいから、瞬ちゃんもペルセウス座探してよ」    あの頃はまだ、お互いをあだ名で呼んでいた。   「ナナが見たいって言ったんじゃん。俺、星とかよく分かんねぇし」 「だって、授業でやるのと全然違うんだもん。あれが…北極星? 北斗七星は?」 「な~、お腹減った。持ってきたお菓子食おうぜ」 「その前に流れ星だってば!」    小学生の集中力などこんなものだ。真夜中でもう眠いというのに、山道を歩いて疲れている。その上、周囲は真っ暗だ。危うく、星も見ずに山頂でお菓子パーティーだけして帰る羽目になるところだったが、その時運よく星が流れた。  「あっ」と七瀬が声を上げた時には遅かった。瞬介は急いで空を仰ぎ見たが、残像すら見えなかった。   「ナナだけずッりい! 俺も流れ星見たい!」 「瞬ちゃんが集中してないのが悪いんだろ。けど、今ので分かった。ペルセウス座の位置」    七瀬が空を指差した。夜空を大きく横切る、白くぼんやりとした天の川。その中心よりも東の方。ごちゃごちゃと星が集まっている。   「どこだよ、分かんねぇ」 「だから、あの黄色っぽい星と、Мみたいな星座の間の」 「М?」 「Мみたいな、Wみたいな、アルファベットの」    正確にはカシオペヤ座だが、ごちゃごちゃと星がひしめき合っている中では、一際見つけやすい形をしていた。   「あれがペルセウスなの?」 「じゃなくて、ペルセウスはその下なんだけど」 「あーもう、全ッ然わっかんねぇよぉ~」    星空をなぞって、ああでもないこうでもないと言い合っているうち、再び、星が流れた。短く光って消えていったが、その輝きは本物だった。瞬介も、もちろん七瀬も、その目にしかと焼き付けた。   「見た?! 瞬ちゃん!」 「見た見た! ばっちり見えた! ナナも見た?」 「うん! シュッてなったの見えた! お願い事しないと」 「けど、すっごい速くない? すぐ消えちゃうんだけど。お願い事三回とか絶対無理……」    そうこうするうち、再び星が降る。細く長い軌跡を描いて、空を滑る。   「夏休みのしゅくだ──あー無理、全然間に合わねぇ」 「瞬ちゃん、なにお願いしようとしたの」 「夏休みの宿題、明日には全部終わってますようにって」 「バカだな。そんな長いの、絶対三回言えないって」 「じゃあナナはなんてお願いするんだよ」 「おれはねぇ……」    そこで再び星が降る。青く煌めいて、夜に溶けていった。   「次のテストも百て──んー、やっぱり無理か」 「なーんだ、ナナも全然言えてねぇじゃん」 「次のテストも百点取って瞬ちゃんに大差で勝てますようには欲張り過ぎたか……」 「なんだよそのお願い!? この前のはまぐれだろ! 俺が勝つことだってあるし!」 「そっちがまぐれだ。おれのは実力」 「俺のだって実力ですぅー! 次のテストは俺が大差で勝つんだからな!」 「ねぇ、見て。瞬ちゃん。いっぱい来たよ」    ふと、七瀬が空を指したので、瞬介は視線を移した。今にも落っこちてきそうな星空から、無数の星が次から次へと降ってきていた。   「見てる? 瞬ちゃん」    それは息を呑む美しさ。この世の何より幻想的。瞬介は何も言えなかった。   「すごっ……」    七瀬は、ただでさえ大きな目を、零れ落ちそうなほどいっぱいに見開いて、降ってくる星を追いかけた。七瀬の黒い瞳に、満天の星が満ちている。この星空を、そっくりそのまま落としたみたいに、輝いていた。   「今日、来てよかったね。瞬ちゃん」    夜空に目を向けたまま、七瀬は笑った。喜びが心の底から込み上げてくる、喜びが全身に満ち溢れている、そんな笑顔だった。満天の星より、流れ星より、綺麗だった。瞬介の意識は空にはなく、隣に立つ幼馴染にだけ向けられていた。   「……うん」    それだけ答えるのがやっとだった。なぜだか胸が苦しくて、どうしようもなかった。今までに経験したことのない、おかしな感覚だった。苦しいのに、嬉しい。嬉しくて、苦しい。七瀬から目を離せなかった。けれど、ずっと見つめていると、いよいよ気が変になりそうで、どうすればいいか分からなかった。   「もう俺、ここで寝る!」    瞬介は芝の上へ寝転んだ。   「汚れるよ?」 「いいの!」    七瀬も、瞬介の隣に身を横たえた。二人並んで空を見る。目に映るのは、銀河から零れた星屑の明かり。ただそれだけだ。   「あれが全部星なんだ」    七瀬が言った。真っ直ぐに伸ばした指の先で、流れ星が瞬いた。   「ねぇ、瞬ちゃん」    七瀬が瞬介の手を握る。温かい手。小さい手。瞬介も手を握り返した。胸の奥がぽかぽかと温かくなった。ずっとこうしていたかった。   「来年もまた、見られるといいね」    今にして思えば、これは大きなきっかけだった。だが、自らの心の変化に気づけるほど、瞬介はまだ大人ではなかった。恋も愛も、言葉でしか知らない。年相応の、普通の男の子だったのだ。  来年もまた、と約束したのに、その約束が果たされることはなかった。というのも、息子の失踪に気づいた双方の親が大騒ぎして、警察にまで通報される騒動となったのだ。結局、二人は近所の裏山で熟睡しているところを発見されたわけだが、七瀬の祖母は号泣するし、瞬介は父親にこっぴどく叱られた。  翌年は、瞬介の父の付き添いのもとで流星群観察に出かける予定だったが、生憎の雨に見舞われた。翌々年には、親に付き添われて幼馴染と星を見に行く行為それ自体が、どことなく恥ずかしく思えていたし、中学生ともなれば夏休みも部活で忙しく、星を見るどころではなくなった。  それから時を経て、高校ではまた七瀬と星を見ている。あの夜の星空を、二人で見た流星を、瞬介が忘れるはずがない。けれど、それよりも深く記憶に刻み込まれているのは、七瀬の笑顔。星を見上げる、七瀬の横顔。そればかりが、今でもはっきりと思い出されてならないのだ。  だから、何も言えなかった。嘘をついた。けれど、七瀬には分かっていただろう。瞬介があの夜を忘れるはずがないと、七瀬も当たり前に分かっている。でも、だからこそ、言えなかった。   「すみませーん。プラネタリウムやってるって聞いたんですけどー」    しっかり留守番していろと言われたのに、暇潰しにプラネタリウムを眺めていた。入口の方から、お客さんと思われる女子の声が聞こえ、瞬介は急いでドームから這い出した。

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