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第二章 春夏 * 第一話 月蝕
「こらお前たち、まーたこんな時間からだらだらして」
放課後の地学教室。三年の先輩、吉川秀樹が、いつも通りの小言を口にしながらドアを開けた。
「お前たちがそんなんだから、今年も新入部員がゼロ名なんでしょうが!」
瞬介と七瀬の所属する天文部は、部長の吉川を含め、三名の部員で活動している。二年前には部員は吉川一人であり、彼はたった一人で部活を立ち上げ導いてきた、紛れもない功労者なのだ。……が、後輩から尊敬を集めているかというと、それはまた別の話である。
「っつっても、こんな明るいうちから何しろってんですか。なんも見るもんないっしょ。女子のパンチラくらいで」
瞬介は、テーブルの上に広げたスナック菓子をつまみながら、双眼鏡でグラウンドを覗く。七瀬は、図書室で借りたらしい宇宙の図鑑を捲りながら、やはり菓子をつまんでいる。
「パンツを見るな、星を見ろ!」
「パンチラだって、星と同じくらいロマンあるっすよ。ほら、先輩も」
「ふーむ、どれどれ……って違う! オレは真面目な天文部員だぞ!」
「今日のノリツッコミも冴えてますね~」
などと、瞬介と吉川がくだらないやり取りをする中、七瀬がぽそりと呟いた。
「そういえば、今夜、皆既月食だって」
七瀬の一言に、吉川は即座に反応する。
「そうだぞ、よく覚えてたな」
「……今朝、ニュースで見たから」
「おお~、えらいぞ、宮野。ちゃんと天文部員だな~。読んでる本も、よく見たら天文部っぽいしな~」
「けど、時間遅いし、観測は無理だな」
「そんなことないぞ! 優秀な先輩を舐めてもらっちゃあ困る」
吉川は、ポケットから紙切れを一枚取り出した。居残り観測の許可証だった。
下校時刻は過ぎたというのに、重い機材を背負ってえっちらおっちら階段を上る。普段は立ち入りが制限される屋上だが、天文部にとっては馴染み深い場所だ。吉川は慣れた手付きで望遠鏡を組み立て始め、七瀬もまた、てきぱきとそれをアシストする。瞬介はといえば、双眼鏡を首にかけたまま、暮れなずむ空をぼんやり眺めていた。
中学では剣道部所属だった二人。高校では勉学に励むつもりだという七瀬に合わせて、瞬介も剣道をやめた。それでも、放課後に何の予定もないというのは、バリバリの運動部だった二人にとっては、あまりにも暇すぎた。そこで、入部時期としては遅い六月に、何となく賢そうという理由で、当時吉川が一人で活動していた天文部に入部したのだった。
あれからもうすぐ一年が経つ。何事も一旦集中すれば習得の早い七瀬は、いまや立派な天文部員の顔をしている。吉川も、次期部長候補としてか、七瀬のことを気にかけている。敬語もろくに遣わない後輩だというのに、寛大なことだ。
「水島も、こっち来て見てみろ」
吉川に呼ばれ、瞬介は望遠鏡のレンズを覗いた。特徴的な縞模様と、氷の環。土星が見えた。
「今日は雲もなくてよく見えるな。ラッキーだ」
何億キロメートルも離れたところを回っている天体が、こんなにもはっきり見えるなんて、何度見ても信じられない。ロケットでだって、辿り着くのに何年かかるのだろう。
「おい、いつまでも独占してんな」
七瀬に軽く尻を蹴られ、観測を交代した。吉川は双眼鏡を覗き、夜空をあちこち眺めながら指を差す。
「あの赤いのがアークトゥルスだ。分かるか? 分かるな? 散々教えたもんな?」
「はあ、まぁ。先輩がしつこいんで」
「こら、ちゃんと答えんか」
「わーってますよぉ。あの青っぽいのがスピカで、なんか、夫婦?なんでしょ」
「そうそう。なんだ、意外にちゃんと勉強してるな」
「いやだから、あんたがしつこいからだっての」
惑星よりも、もっとずっと遠くにある恒星。光の速さをもってしても、数百年はかかる距離。だが、宇宙はそれよりももっと広く、途方もなく果てしない。半径数百億光年、かつ、光速で膨張しているなどと聞かされた日には、夜も眠れなくなった。
「先輩、そろそろ月食始まるぜ」
七瀬が、腕時計を確認して言う。吉川は、望遠鏡の向きや倍率を調整し、月食に備えた。
午後八時過ぎ。食は既に始まっている。望遠鏡で見てみると、月のクレーターや乾いた海が、みるみるうちに地球の影に呑み込まれていくのが分かった。あの影の中に、瞬介も七瀬も映っているのだ。今ここにある、この小さな二つの影が、遠い天体に映っている。そう思うと、変な気分になった。
やがて、地球が月をすっかり覆い隠すと、月はがらりと表情を変えて、赤銅色に輝き始める。夕焼けよりももっと鈍い、こびり付いた血のような赤だ。
「月食で月が赤く見えるのは、太陽光が地球の大気で屈折して、その屈折した赤い光が月まで届いているからなんだ」
頼まれてもいない解説を、吉川がしてくれる。瞬介も七瀬も、ふーんと聞き流しつつ、内心は結構感心していたりする。
「ってことは、俺らが今吸ってる空気を通った光が、月を照らしてるっつーわけか」
瞬介がしみじみ呟くと、七瀬が笑う。
「お前、意外にロマンチックなものの見方をするよな」
「あん? 俺は元々ロマンチストな男だろうが。じゃなきゃ天文部なんか入んねー」
「バカ言え。おれの後追いで入部してきただけだろうが。それに、お前がロマンチストってタマか? 煩悩の塊だろ」
「ンだと~? かわいくねぇ、このやろ」
天体観測などそっちのけでじゃれ合っているうち、食が明けた。地球の影から脱した月が顔を出す。
その光は、普段目にしているものとは比べ物にならないほど、眩しかった。太陽光が反射しているだけのはずなのに、まるで月そのものが発光しているように、眩しかった。
網膜が炙られる。思わず、目を細めてしまう。月は、本当はあんなにも明るかったのか。今まで気づかなかったのは、いつもそこにあるからだ。一度影に隠されて見えなくなったせいで、その本来の明るさに気づいた。満月が、本来の明るさを取り戻す。
屋上を借りられる時間は決まっており、部分食はまだ続いていたが、それを最後まで観測することなく、下校することとなった。機材を片付け、帰路につく。七瀬と共に、いつも通りの田舎道を、いつも通りのママチャリで駆ける。いつもと変わらない風景。月はまだ半分ほど地球の影に隠れている。それがひどく美しく思えて、胸が苦しくなった。
「なぁ、七瀬」
胸の苦しさを打ち消すように、瞬介は隣を走る七瀬を呼ぶ。
「この後、うち寄ってけよ」
七瀬は瞬介の方を振り向くと、見透かしたような目で笑った。
「やっぱり、煩悩の塊だな、てめぇは」
「っせーな。いつものことだろ。んで、どうすんの? 来る? 来ねぇ?」
「そうだなぁ。飯食って、風呂入って、その後だったら、行ってやってもいいぜ」
「はん、お前だって煩悩の塊じゃねぇか」
「あ? おれは別に行かなくてもいいんだぜ」
「あっ、ウソウソ。来てくださいお願いします」
「ふん。それでいいんだよ」
そう言って笑う七瀬の瞳は、あの月明かりのようだった。気を取られた瞬介が、ハンドル操作を誤って側溝へ突っ込むことになるのは、この数秒後のこと。
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