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第四話 銀河①
夏の終わりが近づいている。盆を過ぎれば海水浴場は閉鎖され、海の家も来年まで閉業だ。「二人ともよく働いてくれたから」と分厚い給料袋と共に、水族館の割引チケットをもらった。「夏休みが終わる前に、思い出作っておいで」と。
「だからって、遠すぎるんだよな~~」
電車とバスを乗り継いで、片道三時間弱の道のり。最寄りのバス停に到着すれば、灼熱の日差しが降り注ぐ。我が物顔で泣き喚く蝉の声が飽和している。
「うっげぇ、あっつ……」
早速背中を丸めた瞬介を、七瀬が強く引っ張った。「暑いなら尚更急げ」と目が言っていた。
建物の中に入れば、キンキンの冷房に体の芯まで冷やされる。「極楽だ~」などとはしゃぎながら、チケットブースで入場券を買う。割引が効いて、タダ同然の価格で入ることができた。
チケットブースから順路に沿ってエスカレーターに乗る。三階までぶち抜きの、長いエスカレーターだ。薄暗い照明だけが灯る中、壁や天井にやたらとキラキラした映像が映される。水が流れ、泡が浮かんで、まるで水中を再現したような映像だ。
「おれ、ここのコーナー結構好きだぜ」
七瀬が言った。
「……実は俺も」
「なんかわくわくするよな。始まるんだなって感じで」
公共交通機関が終わっているせいで、地元からはかなり離れているように感じるが、県内では有名な水族館だ。県内の小学生は、おそらく全員遠足で訪れているだろう。もちろん、二人も例外ではない。
「小二の遠足だっけ?」
「ああ。全然変わってねぇ」
エスカレーターを降りると、地元の海を再現した水槽があり、そこからさらに行けば、目玉の大水槽が見えてくる。さらに進むと、小型の水槽に珊瑚や熱帯魚が飼育されている。どのエリアも、子供や家族連れで賑わっていた。
「熱帯魚ってのは、小さくてかわいいよな。色も綺麗で。昔は退屈してたけど」
青や黄色、赤、紫といった、色とりどりの小魚が、ヒレを靡かせ泳いでいる。それは海の宝石のようで、七瀬の言う通り、美しかった。
「けど、俺はやっぱり、ダイナミックなのがいいな。サメとかエイとかウミガメとか、イワシの大群とかいるやつ」
「そりゃおれだって、でかい水槽は好きだぜ」
トンネル状の水槽を抜ける。水中に差し込んだ光が淡く揺らめいて、七瀬の影まで揺らいで見えた。頭上を泳ぐ魚の鱗に反射して、銀色の光が煌めいていた。
「ここのコーナーも、昔から好きだった」
深海エリアに足を踏み入れ、七瀬が言う。クラゲに、アンコウ、でかいカニ。それから、マッコウクジラとダイオウイカの死闘を描いたアニメーションが、繰り返し上映されている。
「俺も、ここのコーナーお気に入りだった」
「このアニメ、ずっと見てたもんな」
「そうだっけ? 遠足で?」
「ああ。おれも好きでよく見てた。今度こそイカが勝つかと思わせといて、結局クジラに食われちまうんだよな」
深海を模しているのか、無駄な照明はほとんどない。薄暗い中、繰り返されるアニメーション。ライトアップされたクラゲの水槽。
「なんか、こういう暗いとこが好きだっただけじゃね? 最初のエスカレーターも暗かったし」
瞬介が言えば、七瀬は笑った。
「かもな」
「ガキだな」
「お互いにな」
イルカショーを見るつもりだったのに、午後の部は既に終演していた。夕方まで待っていたら、帰りは相当遅くなる。ショーは見送ることにして、イルカの水槽だけ見に行った。ショースタジアムの下部は広いホールになっていて、水中を泳ぐイルカの様子を間近に見ることができるのだ。
「かわいい」
「うん」
「イルカ?」
「イルカだろ」
カーペット敷きの床には段差がついており、座って休むこともできる。一旦腰を下ろしてしまうと、なかなか立ち上がれない。静かで薄暗い、ゆったりとした空間で、ゆったりと水中を泳ぐイルカを眺めていると、瞬く間に時間が過ぎる。
「……七瀬?」
七瀬が体を預けてくる。肩に触れる温もりにドキドキした。
「眠ぃの」
「ん…少しな」
「今朝早かったもんな」
「……ああ」
七瀬は再び目を瞑る。無防備な寝顔を晒して、今なら、キスしてもバレやしないだろう。瞬介は一人思い悩んだ。
この空間がいけない。暗くて静かで、人気のないのがいけない。まるで時間を忘れたように、悠然と泳ぐイルカがいけない。どうせ誰も見ていないのだ。シロイルカのつぶらな瞳が、悠然とこちらへ向けられる。
きゃはははっ、と子供の笑い声が響いた。続いて、パタパタと軽い足音が。バチンッ、と弾かれたように瞬介は姿勢を正した。七瀬もまた、驚いた様子で目を開ける。瞬介に預けていた体を起こす。
「……帰るか」
「ああ」
黄色い帽子の子供の群れ。この時期だから遠足ではないだろうが、水族館へ行ってレポートを書こうとか、そういった宿題が出ているのだろうか。
あの中に、かつての自分を見た。在りし日の面影が重なっていた。燻る想いも、灼け付く憂いもない。ただ純粋に、素晴らしい明日を信じていたあの頃。
「土産、本当によかったのかよ」
帰りの電車で七瀬が言った。
「土産なら買ったろ」
王道のクッキー缶。世話になったオーナー夫妻への土産である。おそらく、松村の腹にも入るだろうが。
「じゃなくて、自分用の。遠足ン時、でっけぇぬいぐるみ買ってただろ」
「ああ~、あれね」
覚えがある。抱き枕サイズのイルカのぬいぐるみを買って、先生に大目玉を食らった。こんなもの、バスのどこに置くスペースがあるんですか、と。
「お前、先生に怒られて」
「言うなよ。今思い出した」
「けど、結局持って帰ったよな? 今どこに仕舞ってんだ」
「一応押し入れに入ってる。自分で買っといて何だけど、でかすぎて邪魔なんだよね」
「ひでぇな」
「あン時って、お前は何買ったんだっけ? 確か、相手をびっくりさせるお土産買った方が勝ちみたいな勝負してたと思うけど」
瞬介が言えば、七瀬は遠い目を車窓へ向ける。
「おれは確か、親イルカの腹裂いたら赤ちゃんイルカが出てくるぬいぐるみ買ったんだ」
「なにそれ、こわっ」
「だろ? 結構インパクトあるよな。けど、お前のあのでかさには敵わなかった。完敗だったな」
電車の揺れに任せて、七瀬が肩をくっつけてくる。押し返すことなどできずに、瞬介はあえて茶化すような口調で言った。
「なに、まだ眠ぃの。お子ちゃまだな」
「違ぇよ。お前、疲れてなけりゃ、今夜星でも見に行くか」
意外な誘いだった。瞬介は二つ返事でOKした。
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