11 / 16
第一話 紅葉②
地方大会への切符を手に入れたその日、通り魔に切り付けられた。県大会の決勝で対戦した相手校の選手だった。
調子に乗っていたのだ。当時はそんなつもりはなかったが、今思えばそうだった。七瀬を主将に、瞬介を副将に据えて率いたチームは、破竹の勢いで勝ち進んだ。このままどこまでだって行けると、二人でいれば最強だと、そんな驕りがなかったと言えば嘘になる。
しかし、そう信ずるに値するものが、確かにそこにはあったのだ。瞬介は個人戦で優勝するほどの力を身につけていたし、七瀬はリーダーとしての才覚があった。チームメイトを鼓舞することに長けていた。皆に己を信じさせ、皆も七瀬を信じていた。
個人的には、上位の大会へ進むことそれ自体は、大して重要ではなかった。ただ、この時間がいつまでも続けばいいと、いつまでもこのチームで闘っていきたいと、もっと単純に言ってしまえば、七瀬と共にいたかった。いつまでも、七瀬と競い合っていたかった。
ただそれだけのために、勝たねばならなかった。勝ち上がらねばならなかった。けれども本当は、ただ剣を交え、雄叫びを上げ、大地を踏み鳴らして、ただそれだけで気持ちよかったのだ。
だが、それが驕りに繋がった。
県大会の決勝戦は、いい勝負だった。対戦相手は伝統ある強豪校。実力は拮抗していた。二勝二敗のシーソーゲームで繋げられた大将戦。七瀬が一本先取した。正面への打ち込み。美しい太刀筋。力強い足捌き。そして、響き渡る冴えた打突音。瞬介は勝利を確信した。きっと、チームの皆もそうだった。
団体戦を勝利した。学校に戻り、防具や竹刀の手入れを済ませて、下校した。
その道中だ。毎朝毎晩、飽きるほど往復している見慣れた田舎道。道端で拾った形のいい棒切れを振り回し、チャンバラごっこをしながら飛び跳ねた。確か、試合を振り返っていたのだ。あの場面でこうしたから一本取れたとか、ここでこうしていれば一本取れたのに惜しかったとか、そんなことを喋りながら、呑気に歩いていた。
がらんと開けた田舎道から、集落内の路地に入る。相変わらず、チャンバラをしてはしゃいでいた。生垣に囲まれた、次の角を曲がったら、間もなく我が家が見えてくる。そんな時だった。
電柱の陰から何かが飛び出した。その正体に気づいた時には、何もかもが手遅れだった。
視界の端に、鮮血が飛び散る。赤い、熱い、灼け付くような血飛沫が、べったりと頬に張り付いた。
隣を歩いていたはずの七瀬の体がぐらりと傾く。粗く削れたアスファルトに膝をつく。押さえた左腕から溢れ出す血は、目を奪われるほど赤かった。
迸る血潮が、まるで鉄砲水のよう。堤防を切って溢れ出す。心臓から押し出され、動脈を通り、傷口を押さえた指の間から噴き出して、血の気の失せた腕を滴る。学校指定の青いハーフパンツは赤く染まり、地面についた白い膝まで赤く濡らした。
これが、血の色か。これが、血のにおいなのか。瞬介は頭の片隅でそう思った。錆びた鉄の味がするなんて聞いたことがあるけれども、それよりももっとしょっぱくて、苦いように感じた。
日没が迫っていた。沈みゆく夕日が、七瀬の血と同じくらい鮮やかに燃えていた。赤い光が真っ直ぐに差し込んで、世界はまるで血の海に沈んだ。ヒグラシが鳴き始めていた。
その後のことは──いや、ここまでのことだって、あまり思い出したくはない。瞬介は七瀬を担いで、近所の家に助けを求めた。切り裂き犯は既に戦意を喪失しており、呆気なく捕らえられた。
──お前らのせいで。今年こそ全国に行けるはずだったのに。やっとメンバーにも選ばれて。なんでお前らみたいなぽっと出に負けなきゃいけないんだよ。
犯人の男は──いや、少年は、七瀬を刺した時、そんなことを口走った。けれどもすぐに、自分のしたことが恐ろしくなったのだろう。震える手で握りしめていたナイフを取り落とした。その蒼褪めた顔を見て、決勝戦で相対した相手校の副部長だと、瞬介はようやく気がついた。
そんなことが分かったからって、どうにもならない。この悲劇を招いたのは、瞬介の慢心だ。驕り高ぶっていたからだ。それならなぜ、瞬介を狙わない。なぜ、七瀬が刺されなければならなかった。
七瀬は、瞬介よりもずっと真面目に、いつだって初心を忘れず、真摯に稽古に励んできた。誰からも、決して、後ろ指を指されるようなことはない。何人たりとも、そんなことはできないはずだ。
だったらなぜ、こんなことになった。ずっとそばにいたのに、何もできなかった。止められなかった。助けられなかった。ただ血の流れるのを見ていた。もっと早く、あの陰に何かが潜んでいると、迫る危険に気づけていたなら、こうはならなかったのだろうか。
七瀬は地方大会を欠場した。代わりの大将は瞬介が務めたが、大将にまで試合が回ってくることはなく、決着がついた。何一つ結果を残せなかった。
七瀬は仲間を鼓舞しようと必死だった。けれども、精神的な支えでもあった主将の不在は、部員全員の心に暗い影を落とした。こうして、二人の夏は幕を閉じた。
引退後の、九月の朝。武道場を覗きに行った。さすがにまだ誰もいないと思ったのに、鍵が開いていた。七瀬がいた。
道着に着替え、素振りをしていた。美しい姿勢。躍るような足捌き。今までと何も変わらない。そう思った時だった。
カツー…ン。耳馴染みのない音がした。竹刀を落としたのだと、気づくまでに時間がかかった。
刀は剣士の魂だ。仮に真剣勝負だった場合、刀を手放せば切られて死ぬ。日本刀を模した竹刀でも同じことだ。試合でも、竹刀を落とせば反則になる。時折、反則狙いで竹刀を弾き飛ばそうとしてくる輩もいるが、七瀬は決して、どんな時でも、柄から手を離さなかった。そんな七瀬が、素振りで竹刀を取り落とした。
左手が震えていた。震える左手を見つめていた。傷は深くはなかったはずだ。医者にそう言われたと、七瀬が笑って言っていた。それなのに、もうまともに竹刀を振れない。それほどまでに、傷は深い。
七瀬は泣いていた。綺麗な顔をぐしゃぐしゃに歪めて、大粒の涙を流していた。広い武道場にたった一人で、声もなく泣いていた。
七瀬の涙なんて、瞬介はほとんど見たことがなかった。十年以上一緒にいて、初めてかもしれなかった。
哀しみ、痛み、苦い思い出、たった十数年の人生であっても、たくさん経験してきたはずだ。それでも、七瀬は泣かない。決してめげずに、いつだって“次”を見据えている。あの日、ナイフで切り付けられたあの時でさえ、涙は決して見せなかった。
そんな七瀬が泣いている。真珠みたいな涙をぼろぼろ零して泣いている。今すぐにでも出ていって、慰めてあげなきゃいけないのに、瞬介にはそれができなかった。武道場の格子窓に背を向けて、瞬介も涙を流した。
青く澄んだ空が高い。秋の風が、どこからか金木犀の香りを連れてきた。
「ごめんね? 急にこんなこと。私なんて、部外者もいいとこなのに」
野口が申し訳なさそうに眉尻を下げた。瞬介は、頭の後ろで手を組んで、何でもない風を装い、言った。
「全然? やめたのに理由なんかないからさ」
「そうなの?」
「そうなの。やれることは全部やったし、これ以上はもういいかなって。飽きたっつーと聞こえは悪いけど、まぁ、もうやり切ったっつーかさ。未練もないし。そんな感じよ」
「そうなんだ」
野口は僅かに安堵の表情を見せた。
「それで、高校は心機一転、天文部に?」
「そうそう。中学と違って、勉強もちゃんとやんなきゃなってことで。中学じゃ、休みの度に部活だったからさ」
「けど水島くん、勉強はあんまり好きじゃないよね? 授業中居眠りしてたもん」
「いや、まぁ、それはね? そうなんだけど。俺のことはいいんだよ。あいつは勉強嫌いじゃないし、むしろ得意分野みたいな? だから、しょうがなく付き合ってやってるだけ」
「ふぅん。しょうがなくね」
くすくすと少女は笑う。
「水島くん、宮野くんのことになると、すごく楽しそうに喋ってくれるよね。何でも分かり合えてるっていうか、そんな感じがする。一心同体っていうか、もはや運命共同体って感じ? 幼馴染って、みんなそうなの?」
「言いすぎだって。んなわけないから」
「そうかな? だって、やっぱり羨ましいよ」
「……あんなの、腐れ縁だよ」
「それでも、ずっと一緒にいるんでしょ? そんな相手が、たった一人でもいてくれるなら、それはとっても幸せなことだよ」
幸せか。本当に? 瞬介はいい。けれど、七瀬はどうだろう。瞬介のせいで癒えない傷を負い、全てを打ち込んでいた剣道を引退に追いやられ、そして今も、幼馴染と信じていた相手に、体を貪られている。これが七瀬の幸せなのか。本当はもっと別の場所に、七瀬の幸せはあるのではないか。
時計を見れば、自由行動の終了までもう間もなくだった。瞬介は野口に言う。
「最後に、お寺でも寄って帰ろうか」
山の中腹にある寺院。石段の連なる参道を抜けた先。広い舞台があり、裾野の紅葉や麓の町を見渡せた。冷たい風が、山々を赤く染めていく。
「野口さんさ、髪切ったよね」
ふと瞬介が言えば、彼女は顔を赤らめた。
「気づいてたの? 何にも言わないんだもん……」
「うん。すごくいいと思う」
昨年三月の時点では、癖のある髪をポニーテールにしていたのに、ばっさり切ってショートヘアだ。短くしたことで、ほとんど癖が目立たない。さらりとした黒い髪。頬に流れた毛束を耳にかける。
「……似合ってるよ」
女の子なら誰でもよかったのに、なぜ彼女を選んでしまったのか。その理由がやっと分かった。
ともだちにシェアしよう!

