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第四話 合宿①

「よっし、お前たち。忘れ物はないか」 「うーい」 「声が小さい!」 「はァーい」    吉川の運転する軽自動車。その後部座席に収まる、瞬介と七瀬。引退したはずの先輩に連れられて、どこへ向かうのかと言えば……   「合宿に出発だ!」    現役二人を差し置いて、吉川が一番盛り上がっている。ガコガコとギアを切り替え、アクセルを踏む。しかし、エンジンがうるさく唸るばかりで、車はちっとも動かない。   「んん? なぜ進まない」 「ブレーキ入ったままなんじゃないすか」    瞬介が言えば、合点がいったという風に、吉川はサイドブレーキのレバーを下げる。ゆっくりアクセルを踏み込めば、今度こそ車は走り出した。   「おお、よかった。家族以外を乗せていると思うと緊張するな」 「こんなんで大丈夫かよ……」    受験を終えて暇になったからと教習所に通い始め、つい先日免許を取得したばかりの吉川の運転は、ひどく危なっかしいものだった。運転歴数十年の大ベテランである親の車にしか普段乗らないものだから、余計に不安に思えた。   「まぁ任せておけ。今日のためにかなり練習したんだ」 「そーっすか」 「信じてないな? 一応まだ無事故無違反だぞ」 「免許取ったばっかで違反してたら怖すぎるって」    町を出て、平坦な国道を突き進む。岬の間に海を見た。合流の際はひやひやしたが、バイパスに乗ってぶっ飛ばす。長い長いトンネルを抜けて山を越える。県道に入り、つづら折りの山道を慎重に進む。途中途中で町があったが、どこもかしこも似たような風景が広がっている。  一時間ほどで、目的地に辿り着いた。事故もなく、渋滞もなく、というより、道はかなり空いていて、ほとんど独走状態だったわけだが、ともかく無事に辿り着いた。  高原にある、湖の畔のキャンプ場。目的はもちろん天体観測だ。決して遊びに来たわけではない。のだが……   「火熾し係と調理係、どっちがいいか希望はあるか」    吉川が言う。瞬介も七瀬も、当然火熾し係に立候補した。何しろ、派手で格好いいからだ。ちょっと危険で、スリルがあるのもまた楽しい。しかしジャンケンの結果、瞬介は調理係に決まった。   「くそ~、納得いかねぇ~」    文句を言いつつ、野菜の皮を剥く。七瀬はかまどに薪をくべる。   「しょうがねぇだろ、負けたんだから」 「ちぇっ。俺のがうまくできるのによ」 「そりゃあどうかな。お前、中学の宿泊学習で火傷してたろ」 「ちょっとだけだしぃ~。小学校ン時は、お前の班だけ全然火ィつかなかったじゃん」 「あれは薪が湿気ってたんだ」    決して遊びに来たわけではないが、そこは一応学生らしく、キャンプ場内の炊事場を借りて、カレーを作ることになった。なぜカレーかと言えば、「野外炊飯といえばカレーだろう」と吉川が一歩も譲らなかったためである。  切った具材を鍋に入れ、たっぷりの水を注ぎ、火にかけた。空いたスペースに飯盒を置き、同時進行で米を炊く。ここまで来れば、後はもう待つだけだ。  「飯盒にだけは触るなよ」と吉川に釘を刺されたので、瞬介は時折鍋を掻き回し、灰汁を取った。七瀬はかまどの前にしゃがみ、火の様子を見張っている。  薪が燃え尽き、炭のようになっていた。表面は焦げ付いたような消炭色で、芯だけが赤々と燃えている。陽炎のような炎が踊る。パチパチと火の粉が爆ぜる。七瀬の横顔が赤く照らされる。  火のそばは、やはり暑いのだろう。真冬の山中、ひどく冷え込むというのに、火箸で炭を突き崩す、七瀬の額に汗が浮かぶ。前髪を伝い流れた汗が、七瀬の黒い睫毛に雫を散らす。   「瞬介!」    いきなり、七瀬が声を上げた。何かと思えば、鍋が吹きこぼれている。慌てて軍手をはめ、鍋を火から下ろす。水をなみなみ注ぎ過ぎたのだ。お玉で掬って容量を減らし、再び火にかける。   「っっぶねぇ~」    別の意味で汗を掻いた瞬介が呟けば、七瀬は小さく微笑んだ。   「あんまりぼーっとしてんなよ」    昔、同じことを父にも言われた。何度も言われた。小学生の時、二人でそろばん塾に通っていた頃、斜め前の席でパチパチとそろばんを弾く七瀬の真剣な横顔に見惚れていた。手元が疎かになっていたのを、何度も父に注意された。「七瀬くんのことばかり見つめて、いつか穴が空いちゃいますよ」と冗談めかして言われたことさえある。  今だって、あの頃と同じだ。真剣に炎を見つめる七瀬の横顔に見惚れていた。赤々とした炎の揺れる、黒い瞳に目を奪われた。あの真剣な瞳に自分だけを映してほしくて、瞬介はいつも必死だった。   「なにを騒いでるんだ。こんなとこまで来てケンカはやめなさい」 「センパァイ、俺達、何も毎日ケンカしてるわけじゃねっすから」 「ああ。ただ瞬介がドジ踏んだだけだぜ」 「あン? お前の火加減が下手だからだろーが!」 「やっぱりケンカじゃないか」    吉川は飯盒の蓋を取り、炊けているかを確認する。瞬介も、鍋の野菜を確認する。ニンジンもジャガイモも、すっと箸が通り、ほろほろに煮えていた。かまどの火を緩め、鍋にルウを入れ、焦げ付かないよう掻き混ぜながら、ゆっくりと溶かしていく。        日が落ちて、夜が来る。ここからが合宿の醍醐味だ。   「はいウノ! また俺の勝ち~!」 「くそ。てめぇ、何かイカサマしてんだろ」 「してませ~ん。七瀬がクソ雑魚なだけで~す」 「もう一回だ。勝つまでやるからな」 「やめときゃいーのに。何回やってもどーせ俺が勝つんだし」 「何だよ。自信がねぇのか?」 「これ以上弱者をいたぶるのはカワイソーと思っただけです~。大体お前、こういうカードゲームで俺に勝てたことねぇじゃん」 「しれっとくだらねぇウソをついてんじゃねぇ。勝ったことくらいある。勝率が振るわねぇだけだ」    ログハウス風のコテージ。そのリビングで、瞬介と七瀬が何をしているかと言えば、当然、カードゲームだ。三人順番でシャワーを浴びる際の待ち時間に始めたものだが、かなり夢中になってしまった。   「こらお前たち! いい加減遊びはやめにして、こっちを手伝わんか。一応合宿なんだぞ、合宿!」    吹き抜けの二階から吉川が呼ぶ。   「つっても、外クソ寒ぃっすよ」 「当たり前だろう。夜なんだから」 「しかも、こんな山ン中で……」 「当たり前だろう。星を見に来てるんだから」 「しょうがねぇ、行くか」    遊んだカードはそのままに、立ち上がった七瀬に続いて、瞬介も席を立った。  二階の広いバルコニー。湖を渡って吹く風が、体を芯まで凍らせる。指先が痺れている。筋肉が萎縮している。息を吸い込むと、肺まで凍り付くようだ。鼻が痛いし、咳も出る。  こんな環境であっても、七瀬はてきぱきと望遠鏡を組み立て──もちろん、吉川もだ。何しろ、今回の合宿で一番気合が入っている。天体望遠鏡だって、今夜はいつもより奮発して、二台も用意したのだ。我が天文部の所有する機材の全てである。  レンズを覗き、方角を定める。この季節、天の川はかなり淡い。けれども、明るく目立つ一等星の数が多く、夜空はかなり華やかだ。今の時間、ちょうど冬の大三角が、南の空の高い位置で輝いている。  一際明るく、青白く輝くのが、おおいぬ座のシリウス。それから、三つ星のベルトが特徴的な、全天で最も見つけやすい星座でもある、オリオン座のベテルギウス。炎のように、赤々と燃えている。   「あとあれ、何だっけ、あの、ほら」    三角形をなぞりながら、瞬介が指を彷徨わせると、七瀬が答えた。   「プロキオン」 「そーそー、それ! こいぬ座だっけ?」    シリウスよりもやや淡い色で、雪のように輝いている。これでようやく、三角形の完成だ。   「冬のダイヤモンドってのもあるぜ。なぁ、先輩?」 「ああ。一年の冬に教えたな。まさか、覚えてるよな?」    望遠鏡を覗いたままで、吉川が言う。不意に、七瀬は瞬介の手を握った。   「は? え、ちょ、なに……」 「いいから、ちゃんと見てろ」    瞬介の人差し指に、自身の人差し指を添えて、七瀬は空を指した。プロキオンからシリウス、オリオン座の青い星へと、順番に星を繋いでいく。   「手ェつめた……」 「リゲル、アルデバラン、カペラ、ポルックスだ」 「……なんて?」    星の名前を言われたのは分かった。七瀬の手に導かれて結んだ六角形がダイヤモンドなのだということも分かった。  けれども、それより何より、指先に絡む熱だとか、微かに触れた頬の冷たさだとか、夜空に浮かんでは溶けていく白い息だとか、そして、その息の温かさだとか、湿っぽさだとか、そんなものにばかり気を取られていた。  七瀬はもう一度瞬介の手を取り、夜空に六角形を描いた。肩に寄せる七瀬の重み、温もりを感じながら、瞬介は七瀬の指の先を追う。青、白、黄色、橙、そして赤。天の川を貫いて、色とりどりの宝石が散りばめられている。凛と冴えた冬の夜空で、さやかに瞬いている。   「ロマンチスト名乗るなら、これくらいは覚えておかねぇとなァ?」    七瀬の得意げな笑みが、憎たらしいような微笑みが、至近距離に見えていた。ほとんど、瞬介の視界を埋めていた。ほんの少し、体を捻って、ほんの少し、体を傾けたら、そうしたら、どうなるだろう。そんなことを考えて、それでも体は動かなかった。   「や~っと見つけた! お前たちも見ておけ! これはかなりのレアものだぞ。ご利益あるぞ!」    吉川が、望遠鏡を覗きながら興奮気味に声を上げたので、ひっそりと寄り添っていた二人の距離は、そっと離れた。  たくさんの星を見た。星だけではない。いつか七瀬が言っていた、アンドロメダ銀河やプレアデス星団も、今夜はばっちり見つけられた。肉眼で見ても美しいが、レンズを通すとよりはっきりと、淡い光芒が渦を巻いている様や、ガスの海に浮かぶ星々の姿が分かった。   「先輩もカフェオレいりますか」 「ああ、悪いな」    持ち込みのポットからお湯を注いで作った、インスタントのカフェオレ。カフェインが入っていて眠気覚ましになるのなら何でもよかったが、三人ともブラックコーヒーは飲み慣れておらず、ミルク入りのカフェオレが選ばれた。  マグカップに三人分用意して、一つは七瀬に、もう一つは吉川に、最後の一杯を自分用に残して、瞬介はストーブの前に腰を下ろし、毛布を被った。マグカップを両手で握り、温まる。  冬の空気に触れて、真っ白に凍えて見える湯気の向こうに、望遠鏡を覗く七瀬の姿が透けて見えた。息をつくと、白い湯気が頼りなく揺らめいて、七瀬の影まで揺らいで見えた。  七瀬のあの真剣な眼差しが、瞬介はずっと好きだった。そのためなら、そろばんだろうが剣道だろうが天体観測だろうが、何だってよかった。七瀬のそばにいられるなら、その口実を得られるのなら、何だってよかった。あの眼差しを独占できるのなら、手段はどうでもよかったのだ。  剣道の試合中、あるいは、打ち込みの稽古をする時、面の向こうに覗く七瀬の目が好きだった。間合いを読み、こちらの一手を見定める、あの射抜くような瞳が好きだった。鍔迫り合いの最中に見せる、好戦的な熱を帯びた、鋭く閃く瞳が好きだった。  しかし、もう二度と見られない。七瀬はもう、あんな目で瞬介を見てはくれない。あの熱を帯びた眼差しを、こちらの胸をざわつかせる瞳の色を、決して見せてはくれないのだ。  七瀬は今、どんな目で星を見ているだろう。遠い遠い、遥か彼方の銀河よりも、こちらを見てほしかった。その瞳をこちらへ向けさせ、二度と逸らせないように、縛り付けてしまいたかった。  本当に見つけておきたいもの、知りたいものは他にある。幾億光年の彼方に浮かぶ銀河の姿をはっきりと映し出すこの天体望遠鏡で、ひとの心まで覗くことができたなら。人間のありとあらゆる悩みは、一瞬にして消え失せるだろう。

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