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第四話 合宿②
「二人とも、もうお眠か」
吉川が言った。一人だけ、いまだ元気に星を見ている。深夜の一時か、二時か、もっと遅いかもしれない。七瀬は、瞬介の肩に頭を預けて、眠っていた。二人で一枚の毛布に包まって、ストーブの前で暖を取る。
「先輩が異常なんすよ。元気すぎ」
「これで最後と思うと、どうしてもな」
冬の大三角はだいぶ西へと傾いており、代わりに、春の大三角が東の空へと昇ってきていた。青いスピカと、赤いアークトゥルス。春の夫婦星だ。
「お前たち、本当はそんなに星に興味ないだろう」
「あは。バレてた?」
「誰だって分かる。それでも、オレは嬉しかった。後輩が二人も入ってくれて、この二年間は楽しくやれたからな。結構感謝しているんだぞ?」
「そりゃどーも。俺だって、少しは星のこと覚えましたよ。先輩がしつっこく教えてくれるんで」
「やさし~くの間違いじゃないか?」
軽く笑って、吉川は続ける。
「遠くに見えるものばかりを追いかけて、それが本当に正しいことなのか、時々考えるんだ」
「……何も悪いことないでしょ」
「いや、まぁ、そうなんだがな? 遠いものばかりを見ようとして、近くにあったはずの大切なものを、いつか見落とすことになるんじゃないかと、まぁ、そんなことを考えたりもする」
「……先輩、天文学やめて哲学科にでも進むんすか」
「おお、それもいいな。将来の夢はアリストテレス──ってなんでそうなる。普通に物理学部だぞ」
「アリストテレスなら天文学でも目指せそう」
「どっちかといえばケプラーやコペルニクスがいいんだが……」
天体観測もお開きだ。吉川が望遠鏡を片付け始め、瞬介もまた、ストーブやポットを片付ける。「お前、宮野をベッドまで運んでやれ」と吉川に言われ、瞬介は毛布ごと、七瀬を横抱きに抱え上げた。
「いいご身分だぜ。片付けもしねぇでよぉ」
「まぁそう言うな。最初の準備は宮野に任せきりだったろう」
「いや、俺だって力仕事は結構やったし!」
「そうだな。お前らはいいコンビだよ」
「別にコンビ組んだつもりはねぇっすけど……」
毛布に包んだまま、七瀬をベッドへ転がした。部屋にはベッドが二台。一階にも寝室があり、そちらにもベッドが二台ある。何となく、二階の寝室を瞬介と七瀬が使い、一階は吉川の一人部屋になるのだろうと考えていた。
ふと、首筋に温もりを感じる。七瀬の手が絡んでいた。眠そうな目をうっすら開けて、じっとこちらを見つめてくる。願望を含んだ思い込みに過ぎないとしても、瞬介にはそう感じられた。
何か言いたげに、七瀬の唇が動く。声を聴きたくて、顔を近づける。首筋に絡む七瀬の指先が強張った。
「オレももう寝るからなー」
背後から突然声がして、瞬介はビクッと背筋を伸ばした。振り向けば、吉川がベッドへ潜り込んでいる最中だった。
「な、ちょ、えっ? そこ俺のベッドじゃねぇの?」
「なんでそうなるんだ。オレはここで寝る」
「だ、だってそしたら、俺はどこで寝りゃいいんだよ」
「下の部屋でいいだろう。一人部屋だぞ、嬉しくないのか」
「い、いや、一人部屋は普通あんたのもんじゃねぇ? 一応先輩なわけだし」
「一人部屋なんて寂しいから嫌だぞ」
「んなの、俺だって嫌だわ。そこは代わってくださいよ~、かわいい後輩の頼みっすよぉ?」
「おやすみ~。お前も早く寝なさいね」
「いや話聞けって!」
結局、吉川にベッドを取られた。あっという間に、ぐーぐーいびきが聞こえてくる。寝つきがいいなんてものじゃない。
「ええ……」
七瀬も、毛布に包まれたまま寝息を立てているし、一人取り残された瞬介は溜め息をついた。
一階の寝室、どことなく薄暗くてがらんとした空間を思い浮かべる。採光のいいリビングと比較するからそう感じるだけなのは分かっているが、あんな部屋で一人で寝るのは──決して一人が寂しいとか、怖いとかいうわけではないが──合宿に来てまでそうやって過ごすのは、つまらない。
瞬介は、七瀬を壁際へと追いやって、ベッドに潜り込んだ。一旦毛布を剥ぎ取って、自分ごと包み直し、さらにその上から、ふかふかの羽毛布団をかける。二人分の体温で、ベッドはすぐに温まる。毛布なんて、七瀬の体温のおかげで、瞬介が入る前からほかほかだった。
湖を渡って吹く風は冷たい。頼りのない窓枠がカタカタ震える。けれども、部屋の中は別世界だ。ベッドの中は夢のように温かく、痺れていた手足も心も、雪のように解けていく。
七瀬の背中に寄り添い、そっと抱きしめた。細い腰に、薄い体。あまり強く抱きしめたら、押し潰してしまいそうで、薄く張った氷が割れるのと同じように、簡単に壊してしまいそうで、まさかそんなことはあり得ないと分かっているのに、なぜだか少し怖かった。
指先に、七瀬の手が重なった。温かな毛布の中、温かな手が重なった。そっと絡む指先を、瞬介は握りしめた。そうして手を繋いだまま、七瀬の鼓動をすぐそばに感じて目を瞑り、夜を明かした。
目が覚めた時、腕の中は空っぽだった。隣のベッドでは、吉川がぐーぐーいびきを掻いている。
スリッパを突っかけて、バルコニーに出てみた。高原の風、張り詰めた朝の空気が、まるで無数の針のように肌を貫いた。ぶるぶるっと身震いをし、慌てて室内に戻る。
階段を下りていくと、何やらキッチンから物音がして、香ばしい匂いが漂ってきた。ジュージューと油を撥ねるフライパンの前に、七瀬が立っている。
「なーにしてんの」
足音を忍ばせて近づき、背後から飛び付いた。七瀬はびくんと体を跳ねる。
「バカ。気配消してくんな」
「んなつもりはねぇけど~? 七瀬が鈍感すぎるだけじゃねぇ?」
「お前にだけは言われたくねぇ……」
呆れたように言い、再びフライパンに視線を落とす。
「なに作ってんの、それ」
「見りゃ分かんだろ。ベーコンエッグ」
「ふーん、洒落てんね」
「普通だろ」
「俺のもあんの?」
「欲しけりゃしおらしく頼んでみな」
「ケチくせぇなぁ」
コンロのそばには白い皿があり、こんがりと焼けたトーストが三枚重なっていた。一番上のトーストはジャムが塗りかけで、ジャムの小瓶がすぐそばに置かれていた。
「これは?」
「最初はパンだけでいいと思ったんだ。けど、せっかく卵とか持ってきたし、時間もあったから」
「腹も減ったし?」
「まぁな。お前はどうだ」
僅かに体を捻り、肩越しに七瀬が振り向く。「……俺も」と瞬介は答えた。この白い首筋に、今すぐかぶり付きたかった。
「だよな。昨日遅かったし」
七瀬はコンロの火を止め、出来立てのベーコンエッグを盛り付けた。
「できたの」
「一応な」
「お前も料理できたんだな」
「んだよ。バカにしてんのか」
「だって、基本はばあちゃん任せだろ? 俺は、親父があんなんだから、結構料理させられるけどよ」
「んなことねぇ。おれだって、家の手伝いくらいしてる」
おもむろに、七瀬はジャムの蓋を開けた。瓶に浅く指を入れ、縁についたジャムをこそげ取る。
「味見してみろ」
と、その声を聞いたかどうかのうちに、甘い味が口の中に広がった。甘い、だけじゃない。酸っぱくて、苦い。
舌先に、七瀬の指先が触れていた。瞬介がそれを追いかけるより早く、指は遠くへ離れていった。
「ばあちゃんと作った。よくできてるだろ」
そう言って笑う七瀬の小指の先が、微かに濡れて光っていた。
その後すぐに、吉川が起きてきた。「うまそうなにおいに起こされた」などと呑気に言いながらテーブルにつく。七瀬に急かされて皿を運び、三人で食卓を囲んだ。
トーストにジャムを塗る。甘くて酸っぱくて、そして苦い。柚子のジャムだった。自家製なのだと七瀬が言えば、吉川は感心してトーストに塗りたくった。
七瀬の祖母は、本当に、昔ながらのおばあちゃんなのだ。庭には様々な花や樹が植えられており、季節になれば花が咲き、そして実をつける。春先の苺に始まり、杏子や無花果、そして柚子だ。そのまま食べたり加工したり、七瀬の家の食卓は、旬の果物に満ちている。
七瀬が祖母と共に作ったという、柚子のジャム。甘くて酸っぱくて、そして苦い。確かに唇に触れたはずの、舌先に触れたはずの、七瀬のあの指の先。あの味を、いくら思い出そうと思っても、二度と甦ってはこないのだった。
名残を惜しみつつ帰路につく。行きと同様、吉川の運転だ。昨日よりはいくらか安定した運転と、単純な疲労により、後部シートに揺られながら、瞬介はうとうとと微睡んだ。
いつの間にか山を下りていた。平坦な国道。岬の間に海が見える。そろそろ帰ってきたのだなと分かった。
窓の向こうへ目をやれば、白いものが舞っていた。まるで羽毛が降るようだった。窓を開けて、手に取ってみれば、あっという間に熱に溶ける。儚い雫が掌を濡らす。
「さみぃ。閉めろ」
同じく寝ていたはずの七瀬が言う。瞬介は、冷気を浴びた掌を、七瀬の頬にくっつけた。
「バカ、冷てぇって」
「冬なんだから、当たり前じゃん」
「やっ、てめ、ふざけんなよ」
「ふざけてませーん。暖取らせろ」
頬だけでなく、耳や首筋にも、冷えた手をひたりと当てる。七瀬は冷たさに身を捩り、首を竦めた。「こーら、あんまりふざけるなよ」と運転席の吉川が呆れる。
もう間もなく、家に着く。今年最後の雪になるだろう。何となく、そう思った。
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