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エピローグ
「やっぱベッドでかすぎたかな。部屋狭くなっちまった」
「寝苦しいよりいいだろ。そっちもっと寄せろ」
「ソファは? この辺でいい?」
「ああ。テレビの向きはこれでいいな」
「微妙にスペース余るな~。ダイニングテーブル買う?」
「本棚もほしい。今のままじゃ収まらねぇ」
「あ~、あの段ボール全部本かぁ」
何もないピカピカの新居に、新品の家具や荷物を運び入れる。引越し日和の、暖かく晴れた、春の吉日。新居前の街路樹は桜。満開に咲き乱れている。まるで、二人の新しい門出を祝うよう。
「なぁ~、新しい食器とか買いてぇんだけど。どうせなら、おそろいのやつ。やっぱ恥ずかしい? 浮かれ過ぎかな」
「……」
「おい、聞いてる?」
てっきり、リビングで荷解きをしていると思ったのに、七瀬はいつの間にか、ベランダへ出て一服していた。瞬介も荷解きの手を止めて、ベランダへ顔を出す。
「なーに一人だけ休憩してんの。お前も手伝え。荷物はまだまだあるんだからよ」
「何も今日一日で片付ける必要はねぇだろ。今週はおれも暇だし、のんびりやっとけ」
「ふぅん? ずいぶん呑気だね?」
「まぁ、今日くらいはな」
燻る紫煙が、陽光を散乱させて淡く光る。七瀬は、浅く咥えていた煙草を、白く細い指に挟み、吸い口を瞬介の唇に当てた。慣れ親しんだほろ苦さが沁みる。
元は違う銘柄を吸っていたのに、引越しまでの三か月間、会いたくてもなかなか会えないもどかしい日々が続く中で、口寂しさを紛らわすために、七瀬が吸っていたのと同じ銘柄に変えた。
新居探しのために久々に再会した時、七瀬もまた、銘柄を変えていた。しかも、瞬介が元々吸っていたものだ。これには、お互い顔を見合わせて大笑いした。そんなことがあって、七瀬は元々吸っていた銘柄に戻したが、瞬介はそのまま、七瀬と同じ銘柄を愛飲し続けている。
すっかり、舌に馴染んでしまった。これが七瀬の味であり、瞬介の味でもあるのだろう。もちろん、これが全てではないのだが。
「間接キスだな」
春の木漏れ日のように、七瀬が笑う。
「んなこと、今更気にすっかよ。ガキじゃあるめぇし」
「ははっ。これからは毎日濃いやつがかませるからな」
「お前ねぇ……」
今ここで、濃いやつぶちかましてやってもいいんだぞ、と言葉には出さなかったが、そのつもりで七瀬の肩を抱く。しかし、七瀬はおもむろに、胸のポケットへ手を入れた。取り出したのは、真っ黒なフィルターのはまった薄いプレートのようなもの。それを目元にかざして、空を見上げる。つられて、瞬介も視線を上げた。太陽が欠け始めていた。
「おまっ、これ見るために?」
「ん」
渡されたのは、瞬介の分の遮光板だ。二人分、きっちり用意しておいてくれたらしい。
「用意いいな」
「タイミングとしては最高だろ」
「なんか不吉じゃない?」
「何時代だよ」
みるみるうちに、月が太陽を隠していく。丸い影が丸い光を覆っていく。こうして見ると、星はみな球形なのだと分かる。地球から見て、月と太陽は同じくらいのサイズなのだということも。そして、今この瞬間、地球と月と太陽が、一直線に並んでいるということも。
「金環日食だ」
傍らで、七瀬が言った。読んで字のごとく、月が太陽のちょうど中心に重なり、黄金の環を結んでいる。欠けた太陽が、黄金の環のごとく光を放って輝いている。
例えるなら、まるでドーナッツのような……いや、まさかそんな色気のない話をするつもりはない。そうだ、他に例えるならば……
ちらりと、瞬介は視線を落とした。すぐ隣、肩が触れ合うほどの距離で、遮光板を覗いている七瀬の左手。薬指は、まだ空席だ。
瞬介の視線に気づいたのか、七瀬がこちらへ視線を流す。「なんだよ?」と尋ねる唇は甘く綻び、喜びを湛えている。
「なんでもねーよ」
「ちゃんと見とけよ。次は三十年後だぞ」
「マジで!? めっちゃレアじゃねぇか」
瞬介は、再び空へと視線を移す。黄金の環は、依然としてそこにある。ほぼ完璧な円形を描いている。あれが七瀬の薬指に輝いていたら、どんなにか美しいだろう。
「どうせ買うなら、給料三か月分で頼まァ」
「ちょっ、いきなり思考読んでくんのやめてくんね!?」
瞬介は、再び視線を移してしまった。「冗談だ」と微笑む七瀬の横顔を、睨むように見つめる。
「引越しだの何だので、貯金切り崩したんだろ? 無理はしなくていいぜ」
「別にぃ? 全然ヨユーだし。給料三か月分くらいよぉ~」
「おれは余裕じゃねぇんだよ。こっちもだいぶ貯金削ったからな」
「……お前も、俺に買ってくれる気あんの」
「そりゃあ、こういうのは互いに贈り合うもんだろうが」
「そっ…か。そーだよな」
少しばかり、気恥ずかしくなった。俯いて口籠った瞬介の背中を、七瀬はばしっと叩いた。
「痛ァ!?」
「だから、ちゃんと見とけっつってんだろ。次は三十年後だぞ」
「わ、わーったって。見るよ、見るから」
瞬介は慌てて空を見上げる。肉眼で見るには、赫々と燃える太陽はあまりにも眩しすぎ、遮光板を通してようやく直視できる。
「昔っからそうだよな、てめぇは」
「あ? なにが」
「月でも星でも花火でも、何を見てても、いっつもおれのことばっかり見てただろ」
「……自意識過剰だっつの」
「はっ。そういうことにしといてやらァ」
「ウソ。お前ンことばっかり見てた」
「ほらな」
「だって、お前のこと見てたかったんだよ。お前のどんな表情も見逃したくなくて。何かに集中してる時の真剣な顔は、特に好きだったからさ」
「恥ずかしいやつ」
「けど、ホントはさ」
遮光板を外し、視線を隣へ移す。七瀬もこちらを見つめていた。
「ホントは、お前の笑った顔が一番好き」
「……」
「お前にゃ、笑顔が一番似合うんだよ」
「だったら、二度と見逃すわけにはいかねぇなァ?」
「ったりめぇだ。一生ガン見してやるぜ」
見つめ合えば、自然と唇が重なる。まるで引き寄せ合うように。重力で引き合う連星のように。
春の風に舞い、桜の花びらが踊っていた。七瀬の黒髪を、可憐に彩る。思わず手に取れば、青空へ高く舞い上がり、光を透かして翻った。
「なぁ」
七瀬が言う。
「三十年後も、一緒に見られるといいな」
「いくらだって付き合ってやるよ」
そろそろ食が明けるらしい。月の影が、太陽の中心から動いていく。月の影から脱する瞬間、太陽光線が四方八方へ散らばって、完璧に削られたダイヤモンドよりもずっと明るく、燦然と輝いた。
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