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第三話 再び②
「なぁ~、ホントにコーヒーだけでいいのかよ?」
「腹いっぱいで、なんも入らねぇんだよ」
朝っぱらから激しい運動をし、汗まで掻いてしまった。いい加減朝食──時間帯でいえばブランチだ──にしようということになり、動けない七瀬に代わって、瞬介が台所に立った。
七瀬に言われるまま、お湯を沸かしてインスタントのコーヒーを淹れる。自分用に食パンを一枚焼いて、皿に載せた。寝室に戻ると、七瀬はゆっくりと体を起こす。物をよけて、サイドテーブルにお盆を置く。
七瀬はベッドに腰掛けた。コーヒーを注いだマグカップを手渡すと、両手で包んで温まる。ふうと息を吹いて、淹れたてのコーヒーを冷ます。
瞬介も、リビングから持ってきた椅子に腰を下ろし、マグカップを手に取った。細く立ち上る湯気の向こうに、七瀬の姿が透けて見えた。息をつくと、白い湯気が初雪のように揺らめいて、七瀬の影までもが、陽炎のように揺らいで見えた。
一度目を瞑り、瞼を擦る。再び目を開く。先程までと何ら変わらず、七瀬がベッドに座っている。
お互い、十年前にはカフェオレしか飲めなかったのに、今では、砂糖もミルクも入れないブラックコーヒーを、平気な顔をして飲んでいる。舌を刺す、苦みと酸味。大人にしか分からない味。この味を分かるようになるまでの年月を、別々に過ごした。
「なに見てんだよ」
湯気の向こうで、七瀬が笑う。感傷に浸っていたのを悟られたくなくて、瞬介は目を逸らした。
「別に見てねー」
「見てただろ。今更照れんな」
「なっ、別に照れてねーし! どこ情報だよ、それ! めっちゃデマなんですけどー」
「いちいちうるせぇな。騒いでねぇで、とっとと食え。冷めるだろ」
七瀬が、テーブルの上のトーストを指す。盆の上には、瓶詰のジャムが置いてある。いつかの朝に食べた、柚子のジャムだ。
「好きなだけ塗っていいぜ。舐めたスプーンは戻すなよ」
「へーへー。お前ってば、昔っからそーいうとこ細けぇよなぁ」
「文句あんなら食わなくていいが」
「ないない。食います食います」
小さな瓶に匙を入れ、とろみのあるジャムをたっぷり掬い取る。こんがり焼けたトーストに垂らし、これでもかと塗りたくった。
いつかの朝に七瀬が食べさせてくれた、ジャムの味を思い出した。同時に触れた、小指の先の味と匂いも。甘くて酸っぱくて、そして苦い。結局のところ、ジャムの味がしたのだ。今更になって、感覚が甦る。唇に触れた指先は、ひどく柔らかかったけれども、冬の大気に冷えてもいた。そんなことまで、思い出した。
「今でも実家から送られてくるんだ」
七瀬が言った。
「相変わらずマメなばあちゃんだな」
瞬介が答える。
「お前、仕事は。まだ地元か?」
「実家は一応出たぜ。職場が微妙に遠くてさ。仕事はまぁ、しがない営業職って感じ」
「ふぅん……それならやっぱり、おれが引っ越した方が手っ取り早いか」
あっさりと、しかし大真面目に、七瀬は言う。コーヒーをすする音が静かに響く。
「さすがに、年度末までは待ってもらうことになるけどな。お前のアパート、単身者用か? だったら、部屋も探さなきゃならねぇし、忙しいな」
「えっ、な……なんのはなし?」
「何って」
しばらく呆気に取られていた瞬介がようやく言葉を発すると、七瀬はきょとんと首を傾げた。
「住むだろ。一緒に」
そう、当たり前のように言い切った。
「す、む……?」
「ああ。こうなったからには、一緒に住むだろ。責任は取るぜ」
「いやむしろ責任は俺に取らせてほしいっつーか……つーか、いいの?」
「何がだよ。嫌とは言わせねぇぞ」
「だってお前、せっかく都会にまで出てきて、仕事も順調そうだし、こんな良さげなマンション住んでんのに……」
「構わねぇよ。こんなもん、所詮は仮住まいだ」
「そ、そーいうもん?」
「仕事も心配すんな。資格があるから、どこででも働ける。主夫になるつもりはねぇよ」
「そ、そーなんだ」
「なんだよ。不満か?」
「んなわけあるか。逆だよ、逆」
幸せすぎて、どうにかなりそう。
七瀬はいつだって未来を見ている。これから先の未来を、瞬介と共に歩んでくれる。それだけの覚悟で、瞬介の思いを受け止めてくれた。一緒に暮らす未来を、当たり前のように思い描いてくれた。その思いだけで、満たされる。胸がいっぱいで、幸せすぎて、どうにかなってしまいそう。
「泣くんじゃねぇよ」
「なっ、別に、泣いてねーし! 幻覚!」
「そうかよ」
「ゴメン、だって、うれしくて」
「ん」
「待ちきれねぇ」
「おれもだ」
「四月まで?」
「三か月なんて、あっという間だろ」
「…だな」
離れていた十年間を思えば、たった三か月など誤差の範疇だ。遠距離で過ごす日々は光の速さで過ぎ行き、そして、今年もまた春を迎える。
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