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第1話
20時を過ぎた。
今日はともかく疲れた。
何か食い物にありつかなければ、という一心でスーパーに駆け込む…が、惣菜コーナーはもう焼け野原。
どうしようか。
依頼者とのミーティングが立て続けの日は、頭を使う日とはまた違う疲れが溜まる。今日はまさにそれ。
でも、店に入って1人で食べるのも違うし、コンビニという気分でもない。面倒だけど、帰って料理するしかないか…。
なんにしようかな。
何か特定のものが食べたいというわけでもない。
…食欲がイマイチ湧かない時といえば…ミネストローネでも作ろうか。野菜コーナーをまわり、プチトマト、セロリ、玉ねぎ、をカゴに入れる。あとはコンソメ、紙パックの赤ワイン。鶏肉でも入れるか。
切って煮込んで、その間にシャワーでも浴びよう。
足早にレジを済ませると、荷物を持ち上げたのと同時にスマホが震える。画面を見ると事務所の同僚だった。
「…お疲れ様です」
荷物を持ち直して、スマホを耳に当てる。
『お疲れ様です、桐谷先生、すみませんもう帰られたのに。明日の10時の件だけど、追加資料のメールが届いてまして、おせっかいかなと思ったんだけど、読んでないとまずいなと思いまして。』
「メールきてましたね。中身ざっと確認しましたよ。」
『確認してますか!それならよかった!』
じゃ〜俺も帰るか〜と、佐々木先生の気の抜けた声が聞こえる。
「はは、佐々木先生は本当に気が利きますね。フォローありがとうございます。」
『あ、そうだ、来週の勉強会は桐谷先生は参加されますか?』
「それが、その日は少し早い時間からクライアントと会食で。」
『そっか〜、私も来週は、…』
佐々木先生の来週の予定を聞きながら、比較的空いている出口の方から外に出た、その瞬間。
「うおっ——」
「あ——」
なにか大きいもの、いや、大きいひとにぶつかった。鈍い音と同時に手に持っていた荷物が跳ね上がる。俺だって男性の平均身長以上でそんなに小さい方じゃないのにな、なんて考えながら、世界がスローモーションになる。
ミニトマトが床に転がりばらばらと放射状に飛び出す。横に鶏肉が裏返って落ちた。
転ぶか?と思って身構えた瞬間に、大きな手に腕を掴まれた。
『——もし?もしもーし?』
遠くで聞こえる佐々木先生の声で現実に戻される。
「あ、すみません、また明日…一旦切ります、」
反射的に通話を切って振り返ると、掴まれた腕をそのまま引き寄せられる。
「ごめん、大丈夫?」
服の上からでもわかる逞しい身体つき。
ザ・健康という感じで、サラリーマンという風体ではない。そして軽々男ひとり支えることができる腕力と瞬発力と判断力。
…この手の男は警察官か、自衛隊員か…もしくは消防士か?と言ったところだろうか。それにしても、“健康が歩いてます”みたいな男だな。
「怪我はないです。こちらこそすみません、…あ…。」
散らばる食材に目を落とす。
「…散らばっちゃったね、」
男はしゃがみ、床に散らばった食材を拾い集める。
俺も追うようにしゃがみ込んで、食材を拾う。
「トマト、お兄さんのですよね」
「あ、はい、私のです」
「どーぞ」
俺が持つ空のパックに手いっぱいに集めたプチトマトを入れながら「まだ食えるかな?大丈夫?」とちらりとこっちを見た時の、その整った顔だちに一瞬見惚れる。
いやいや、疲れすぎ。
俺がもし女なら、恋でも始まるってか。
「あーー!」
男の視線を追うと、床に卵パックが落ちている。
「半分は生き残ったみたい…?」
男が卵パックを持ち上げた。
「…弁償しますね」
「いや!大丈夫。家近いからすぐ冷蔵庫に避難させて、…生き残りは死守!」
冗談めいた明るい声に、思わず笑ってしまう。
疲れていると散々だが、不幸中の幸いはこの男が嫌なやつじゃなかったことか。
「あの、ありがとう、ございました、拾ってくれたり色々。」
◇
ここからマンションまで、歩いて5分ほど。
駅から徒歩圏内、築年数浅め、オートロックでベランダがある6階建て。ここに住んでそろそろ1年、正直今の家はかなり気に入っている。
それにしても、災難だったな。
人にぶつかってしまうし、食材は落とすし、
まぁ…洗えば食べられるか。
手のひらいっぱいにプチトマトを拾ってくれた、さっきの男を思い出す。
…なんか、なんなんだあの人。いい人っていうか、いい男というか、意味もなく自信なくす…。
帰宅時間のピークは過ぎていて、コートの人が家路を急ぐ。ぐったりしてふらふらと歩いていたら、信号にひっかかる。ったくもう…とひとつ大きく息を吐く。
ついてない日は、とことんついてないもんだ。
通りの向こう側のコンビニに昨日はなかったケーキのポスターが貼られている。
隣に人が立つ気配で横を見る。
「……」
「あ」
さっきの。
「…え?」
目が合う。
「え?って、こっち方面なんですか?」
つい話しかける。
「そう。」
「あなたの家?」
「そう、あっち。」
横断歩道の向こうを指差す。
「同じ方向…」
信号が青になり、男が歩き出す。
俺も小さくため息をついて、歩き出す。
「お兄さん、仕事終わりなの?」
「…まぁ、」
「だよね、スーツだもんな、」
にかっと少年漫画に出てくる主人公のように笑う。
「そっちは…?」
「え?今日は休み。」
「へー、仕事してるんだ。」
「し、失礼なー!」
「…はいはいごめんなさい。」
「何?職業当ててみる?」
少しめんどくさいなと思うが、付き合うとしようか。
第一印象と違って、ここまでヘラヘラしているとなると、ホストとかなんかそういった軟派な仕事かとも思ったが、身体つきはそんなものではない。
「…無駄に運動神経が良さそう。頭を使うタイプではない、民間のサラリーマンってタイプでもないかな。」
身体を動かす仕事?
「…俺そんなかっこいい?」
「私、そんなこと言いました?」
なんだか、すごく観察してたみたいで恥ずかしくなる。
広い肩幅に、無駄のない身体つき。
気配りができてコミュ力がある…。そして平日に休みか。
現在は警察官になったと聞いている高校時代の先輩を思い出した。あの人、剣道部だったよな。
剣道といえば、公務員系か?
「…警察官か、…消防士とか?んなわけないか。」
冗談のつもりで言ったのに、男は「お、正解」と嬉しそうに笑う。
「よくわかったな、消防士。」
「まぁ…絶対に民間のサラリーマンじゃないよなとは」
何回言うんだよ、どういう意味だよ、と笑う。
「お兄さんはー、」
詮索は面倒なので、さっさと白状する。
「…弁護士です。」
「先生!頭良さそうだと思ったんだよ。」
まるで幼馴染かなにかかと錯覚させるような軽いリズムで会話が進んでいく。
「なにせんせいっていうの?」
「個人情報なので。」
教えません、と呟きながら見慣れた角を曲がる。
マンションの外灯が見えた。
…なんだかいやな予感がする。が、隣の男は止まらない。むしろ当然のように、俺と同じ方向へ曲がった。この辺はマンションも多いが、まさか。
2人とも立ち止まる。
「……え」
「……ここ?」
「……ここです」
沈黙。
「すげーな!こんなことある?」
オートロックパネルにカードキーをかざすと、エントランスのドアが開く。当たり前だが、同じように中に入っていく。
「お隣さんだったりして」
「まさか」
男がエレベーターのボタンを押す。
「何階?」
「…6階」
「俺5階」
一瞬睨みつけると、向こうから視線をはずし、「上と下だったりして〜」と戯けながら到着したエレベーターに乗り込む。
「なにつくんの?ミネストローネ?」
なんでわかるんだよ。
「まぁ、そうです。」
「彼女とか待ってんの?」
「ひとりぐらしです!」
男がふーん、とどうでもよさそうな返事をしたと同時に5階に到着すると、意外にあっさりと降りていく。
「俺、ここ。じゃあまた〜!」
男はそう言って、手をひらひらと振った。
扉が閉まり、エレベーターが上へ動き出した。
「俺の部屋の…下の階……かよ…。」
1話 おわり。
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