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第1話
その日は、朝から激しい雨が降っていた。
黒豹のノエルは岩陰に避難をして空を見上げていたが、どうにもやむ気配はない。
朝の山は肌寒い。毛皮があるとはいえ寒さを覚えたノエルは、ぶるりと体を震わせて岩陰で身を丸めた。
豹は群れをなさない。だからノエルは群れではなく家族と暮らしている。けれどノエルは家族の中でも特別狩りが下手でその上変に優しかったから、兄弟からはいつも馬鹿にされ、虐められていた。今だって兄弟から避難しているところである。”家族”に重きをおかない種族だからこそ、ノエルはこのまま逃げ出してしまいたいとさえ思っていた。
いっそこのまま凍え死ねば楽になるだろうか。そんなことすら思いながら、ノエルはそっと目を閉じる。
雨が叩きつける。しぶいて、ノエルに跳ね返る。
目を閉じて雨の冷たさを感じていたノエルの耳が、突然ピクリと大きく揺れた。ゆっくりと頭を持ち上げて、周囲を大きく見渡す。そのまま立ち上がると、ノエルは大雨の中をどこかに向かって駆け出した。
音が聞こえた。岩が崩れるような音だ。もしかしたらノエルのように虐められた動物が崖から落ちたのかもしれない。ノエルも一度兄弟に追い詰められて落ちたことがある。痛くて苦しかったから、何かが落ちたならすぐに拾ってやりたいと思っていた。
雨の中では匂いも分からない。聞こえた音は一度きり。ノエルは記憶を頼りに全速力で森を駆け抜けて、ようやくそこにたどり着く。
崖の下には、一人の男が落ちていた。
質素な服だが上質なものを身に付けた、金の髪の男だった。
気を失っているのか目を閉じて、雨に打たれて動かない。ノエルですら寒いと思えるのに、人間なんてこのままでは凍えて死んでしまうだろう。ノエルはなんとか男を自分の背に乗せると、ひとまず岩陰を探す。
ノエルは大きいが、当然ながら男はもっと大きかった。人間の中でも大きいほうだろう。ノエルは人間に会ったことは一度しかなかったが、それでもなんとなくこの男が大きいということは分かった。
ノエルに乗り切らない足を引きずって歩いていたために、男は何度かずり落ちた。そのたびノエルは拾い上げる。男の体温が低くなっていくのを感じて、ノエルの焦りも募っていく。人間はどれほど体温が下がれば死ぬのだろう。ノエルは男が自分のように思えて、なんとか生きてくれと必死に雨を凌げる場所を探していた。
どれほど歩いた頃か、小さな洞窟を見つけた。
男をそこに下ろして、ノエルはようやく男の傷を確認する。
外傷はない。血も出ていない。それに安堵して、ノエルは男の服を剥がす。男の顔色は悪かった。早くしなければとすべてを脱がせて、ノエルは身を振るわせて毛についていた水を弾いた。そうして男を包むと、ノエルが暖かかったのか、男はノエルを抱きしめるように姿勢を変える。ノエルは大型だ。男よりは小さいが、家族の中では大きなほうである。それが男のお気に召したのかもしれない。ノエルが男に覆いかぶさるように乗っかっても、男はノエルを抱きしめただけだった。
ノエルが次に目を覚ましたのは、翌朝のことだった。
雨はすっかり上がっていた。ノエルの腹の下にいる人間も、どうやら死んでいないようだった。
ピクリと、男の眉が揺れる。ノエルが頬を舐めてやると、男がゆっくりと目を開ける。
「……え、猫……?」
豹を猫扱いするとは、なかなか豪胆な人間だ。
寝ぼけ眼の男は、擦り寄るノエルを嬉しそうに抱きしめる。
「ふふ。可愛いな。……あれ、俺はなんで……」
ぼんやりとしたままだが、男は状況を掴んできたらしい。自分が裸であることも、近くに濡れた服が落ちていたからなんとなく理解したのだろう。男はノエルを見つめると、よしよしとノエルの頭を撫でた。
「きみが俺をあっためてくれていたのか?」
ノエルが肯定するようにさらにすり寄ったから、男は確信を得たようだった。
男の意識が完全に戻ったのを確認して、ノエルはようやく男から離れる。男は少し名残惜しそうにしていたが、上体を持ち上げて不思議そうに洞窟の外を見つめていた。
「…………あれ。何してたんだっけ」
男はどこかぼんやりとしていた。ノエルはそんな男が少し可哀想になって、男の腹にすり寄った。
奥から微かに音がする。腹が減ったのかもしれない。だけどノエルがいきなり離れたら、男は寂しがるのではないだろうか。言葉が通じ合わないというのはなんと不便なことだろう。
ノエルはぐぐ、と体に力を込める。毛皮がなくなり、形が変わっていく。人の指が見えた頃、男がくるりと振り向いた。そうしてノエルの姿を見て、驚いたように目を瞬く。
「……え? 人?」
「腹減った?」
「え? あ、うん。あの……きみは?」
「僕はノエル」
「……獣人だったの?」
「獣人? 分からない。人なれる」
ノエルは豹の獣人だ。人型になれると気付いたのは、彼が五歳のときだった。
兄弟に追われている時、逃げ込んだ洞穴で一人の猟師に出会った。猟師はノエルを庇い、そして後からやってきたノエルの兄弟に向けて発砲した。どうして庇ってくれるのかと思ったノエルはその時に初めて、自分が人間になっていると気付いたのだ。
兄弟たちはそれからますますノエルに冷たくなった。親ですらノエルを顧みない。ノエルは兄弟たちに虐げられながらも、頼れるのが家族しかいなかったからずっと一緒に過ごしていた。
だからノエルは人間にならなくなった。なってはいけないと思った。これ以上いじめられたくなかった。それでも家族はノエルに無関心で、ノエルはないものとされていた。
ノエルはあまり人型の自分が好きではない。だから素っ裸の体を隠すように手を前に回すのだけど、男の目はノエルを見つめて離れない。
頭の先から、膝をついて座っているノエルの全身をくまなく見つめている。
豹の獣人なためにすらりとした体躯ではあるが、決して細いというわけではない。まんべんなくついた筋肉は美しく身長の高いノエルによく映える。真っ黒な髪の隙間から覗く金色の瞳は、男らしい顔立ちと体に反して小動物のように怯えていた。
男は一つ一つを見て、そしてふっと微笑んだ。ノエルを呼ぶように手招きをする。男の笑みに安堵したノエルがふらりと近づくと、男はよしよしとノエルを撫でた。
「獣人なんて初めて見た。可愛いんだね」
「? 分からない。腹減った? 食糧取る。少し居ない」
「……それを言うために人になってくれたの?」
「起きて一人、寂しい」
「……寂しい? 俺が?」
男はキョトンとしていた。心底不思議そうな顔だ。ノエルはそれの意味が分からなかったが、ひとまず一つ頷いた。
「ふは、面白いなぁ」
男はノエルを撫でていた手をノエルの首の後ろに回すと、そのままぐっと引き寄せる。人の体に慣れないノエルは、あっさりと男にもたれる体勢になった。
ノエルも素っ裸だ。肌と肌が触れ合って、なんだか変な感触だった。つるりとした柔肌は毛皮で触れるよりも熱く感じた。自身の体にも熱が広がり、その初めての感覚にノエルは思わず男の背を撫でる。
「わ。びっくりした。積極的だな」
「せっきょく?」
「なんでもないよ。あったかいね」
「……寒い?」
「あー……うん。寒い。もっとくっついて」
「豹のほうが、」
「いや、このままでいいよ」
男はノエルをぎゅうとキツく抱きしめると、そのまま一緒に横になる。
男はノエルと同じほどの背丈だ。ノエルと同じほど筋肉質で、けれどノエルとは違い優しい容貌である。
男が柔らかく微笑む。そうしてノエルに擦り寄って、足を絡めた。
指先が冷たい。気付いてすぐ、ノエルはさらに男を抱きしめる。
「……俺ね、ウィルフレッドっていうの。ウィルって呼んで」
「名前?」
「そう、名前」
ノエルは誰かに名前を教えてもらったのは初めてだった。家族には名前がない。ノエルの名前だって、五歳の頃にノエルをかくまってくれた猟師と過ごした時にもらったものである。猟師と二、三日共に過ごし、居心地の良さに恐ろしくなったノエルは逃げるように家族の元に戻った。戻った先ではすでに家族はノエルを居ないものとしていたのだが、それはまた別の話である。
ノエルは少し浮かれていた。名前を教えてもらうということが、どこか特別なことに思えたのだ。
「ウィル」
「うん。……寒いからもっとひっつこうか」
「豹に、」
「いいからいいから」
ウィルフレッドの手が、離れようとしたノエルを追いかけて巻きつく。ノエルはそんなに寒いのかと可哀想になったのか、ひとまず同じほど抱きしめ返していた。
「……俺、崖から落ちて死んだと思ってたんだけど、ノエルが拾ってくれたの?」
「そう。雨降ってた。寒いと死ぬ」
「はは、そっか。ありがとう」
ウィルフレッドはそのまま、ノエルの胸にすり寄った体勢で眠ってしまった。人肌に安心したのだろうか。洞窟に連れてきた時よりもずいぶん優しい顔で目を閉じている。
ノエルはウィルフレッドを起こさないようにと腕の中からするりと抜けた。昼間の時間帯な上に晴れているから、今なら離れても凍えることはないだろう。
ノエルは豹に戻ると、さっそく洞窟から出て狩りを始めた。けれどノエルは血が苦手だ。痛いことも好きではない。そのため今日も木の実や草を集める。
誰かのためにする、血の流れない狩りは楽しいものだった。ノエルは久々にわくわくしながら森を駆けて、これを持って帰った時のウィルフレッドの反応ばかりを考えていた。
喜んでくれるだろうか。笑ってくれるだろうか。ノエルでも、誰かに喜んでもらうことが出来るのだろうか。
たくさん持って帰ってやろうと、ノエルははりきって食糧を集めていた。
すると獣の匂いがして、ノエルはピタリと動きを止める。豹に近づいてくる生き物などなかなか居ない。さらには知っている匂いだったから不審感もあった。
ノエルは身を潜める。じりじりと後退していると、少し離れたところで兄弟の姿が見えた。
見つかればウィルフレッドにも危険が及ぶ。いつも以上に慎重に、ノエルはその場を離れた。
(この辺りは危ない。ウィルには洞窟から離れないように言わないと……!)
たくさんの木の実をくわえて、ノエルは一目散に洞窟に駆け出す。
ウィルフレッドはすでに起きていた。ノエルを探していたのだろうか。裸のままで、洞窟の外をぼんやりと眺めていた。
「ああノエル、今までどこに……」
言い終わるより早く、ノエルはウィルフレッドを洞窟の奥へと押し込む。大きな豹にぐいぐいと押されてはウィルフレッドも敵わなくて、されるがままに奥に連れられた。
木の実を吐き出したノエルは、すぐに人型に戻ろうと力を込める。少し時間が必要だ。けれどウィルフレッドは焦れるでもなく、それをじっと見守っている。
「やっぱり綺麗だね。何度見ても楽しい」
言うに事欠いて、変化を終えたノエルへの一言目は呑気なものだった。
「ウィル、外危ない」
「ん? そうなの?」
「危ない。出ないで。お願い」
ウィルフレッドにはノエルの必死な様子が分からなかったけれど、少し悲しそうな様子だったから何も聞かずに頷いた。ノエルもホッと肩を撫で下ろす。そんなノエルの様子を見て、ウィルフレッドも安堵したようだった。
「ありがとうノエル。俺のこと心配してくれるんだね」
「ウィル、守る」
「本当に? 嬉しいな」
ウィルフレッドは心底嬉しそうに微笑むと、ノエルの隣に腰掛ける。
「ノエルは可愛くて格好いいね」
「? 分からない」
「ふふ、可愛い」
何度言われてもやっぱりよく分からなくて、ノエルは思わず首を傾げた。
「……あーあ。こんなはずじゃなかったのに」
それは、何かを諦めたような、あるいは何かを認めたような、少しだけ楽しそうな声だった。
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