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第3話
ノエルが目を覚ますと、すぐそばで水が流れていた。どうやら生きているらしい。幸いにも怪我はなく、体が冷えているくらいで動かないこともない。痛みも感じなかった。それが良いことなのか悪いことなのかはノエルには分からない。
どこまで流されたのだろうか。ノエルは森には詳しいが、それでも知らない場所まで来てしまった。
(早く戻らないと……)
ウィルフレッドを森の中で一人にしておくのは心配だ。もしも兄弟たちと出会ってしまったなら、殺されてしまう可能性もある。ただでさえ人間の気配も多かった。人間は無闇に殺し合うこともあると五歳の頃に出会った猟師も言っていたし、ノエルはそれも気がかりだった。
ノエルはふらりと立ち上がり、なんとか一歩を踏み出した。やはり痛みはない。けれど体は重く、走ることは出来そうにもない。体が冷えたからだろうか。一歩を踏み出すことも億劫に思えた。
ノエルが歩くと、周囲から動物の気配が消える。ノエルは弱っちいけれど、一応は豹である。誰もが近寄ろうとしない。兄弟たちはそれを喜んでいたようだが、心の優しいノエルはあまり嬉しいとは思えなかった。どこに行ってもひとりぼっちだと突きつけられているようである。
(……ここはどこだろう……)
ノエルはひたすら川を上るように歩いた。流れ着いたのだから、川をたどれば元の場所に戻れるはずである。兄弟たちに再会するのは怖いが、それ以上にウィルフレッドに何かがあるほうが恐ろしい。ノエルは彼の無事を願いながら、ひたすら川を上り続ける。
見慣れた森に戻ってきたのは、それから丸一日が経ってからだった。やけに気怠くて走ることができなかったから思った以上に時間がかかってしまった。
しかし見慣れた場所に来ればノエルの足取りも軽くなる。不安は一切なかった。兄弟たちを警戒しながらも、ウィルフレッドの居る洞窟に向かう。
そのさなか、人間の気配がした。ウィルフレッドの気配ではない。ノエルはピタリと足を止めて、そちらをそっと覗き込む。
「見つかったか?」
「いえ、まだ……」
「はぁ……もう三日も経っているんだぞ。この森には動物も多いと聞く。急がないと……」
「……気になるのですが」
誰かを探しているのだろう。やけに大柄な二人の男が、真剣な顔をして話し合っている。
「……ウィルフレッド様はどうして、今回の囮役を引き受けたのでしょうか」
「……何?」
ウィルフレッドという名が出て、ノエルの耳が小さく揺れた。
「側妃の子であるウィルフレッド様が王宮でどのような扱いをされていたかはご存知でしょう。お優しく穏やかなウィルフレッド様は何を言われても、何をされても弱音を吐くこともなく、ずっと独りで生きておりました。……今回森に入ったのは、王太子殿下を狙う何者かを特定するための囮役と聞いております。それも、自ら名乗り出たと」
「何が言いたい?」
「……こうなることも考えた上で名乗り出たのなら、ウィルフレッド様をこれ以上追うことは、」
「滅多なことを考えるな」
上官のような男がキツく睨み付けるが、もう一人の男は引く様子はない。
ノエルには難しいことは分からなかったが、ウィルフレッドがそれまで悲しい環境で生きていたことだけはなんとなく理解ができた。
ウィルフレッドはノエルと似ている。ノエルもずっとひとりぼっちだった。
(……僕が、ウィルの側に居てあげないと……!)
この男たちに渡すわけにはいかない。ウィルフレッドが見つかる前に、早くこの場所を離れなければ。
ノエルは決意して、音を立てないようにとそっと踏み出した。
見つかってしまったらウィルフレッドは連れ戻される。また悲しい環境で暮らすことになる。そんなことはさせない。
気力だけでなんとか洞窟に戻ってくると、そこにウィルフレッドは居なかった。どこに行ってしまったのだろうか。匂いをたどってみるけれど、なぜか嗅覚があまり働かない。
(ウィルを……早くウィルを探さないと……)
ゆっくりと体が重くなり、ノエルは気が付けば倒れていた。洞窟から少し離れたところだった。
ウィルフレッドはきっと、戻らないノエルを探しに出たのだろう。森を知らないウィルフレッドを危険に晒したのはノエルだ。そんなことはさせまいと起き上がろうと力を入れるのに、なぜか体が言うことをきかない。
意識が遠のいていく。さらに体が重くなり、ノエルはとうとう動かなくなった。
*
「お、起きたかい」
ノエルが次に目を覚ますと、そこは森でも川辺でもなく、ふかふかのベッドの上だった。人間になってしまったのかととっさに自身の腕を見下ろしたが、真っ黒な豹の足が見える。
「ああ、ごめんね。だけどきみは獣人だろう? だから豹の姿でもベッドに寝かせていたんだ」
ノエルは慌ててベッドから下りた。ウィルフレッドを探さなければならないのだ。しかし着地すると同時、激痛からガクンと力が抜けた。
「こらこら、いきなり動かないで。……きみ、全身打撲していた上に、足も骨折して頭も強く打っていたよ。治るまでは大人しくしていなさい」
まったく、こんな状態でよく生きていられたねと。男は呆れたように続けて、ノエルを引きずるようにベッドに戻す。
当然ながら知らない男だ。黒と灰の混じった髪色が特徴的で、ヘーゼルの瞳が穏やかに輝いている。襟足がやや長く、どちらかといえば儚げで美しい容姿をしていた。
ノエルはずっと毛を逆立てていた。けれども抵抗をしないのは、ノエルが半分人間であるからかもしれない。ノエルは血が嫌いだ。争いも好きではない。
そんなノエルをどう思ったのか、男が弁明するように口を開く。
「……警戒しないでよ。実は私も獣人なんだ。だから仲間は分かる」
男の言葉に鼻先を寄せてみるが、獣の匂いはしない。訝しげな顔をしているノエルに気付いて、男はすぐに苦笑を浮かべた。
「きみね、たぶん鼻がきかなくなってるよ。私が獣人と気付かなかった時点でおかしいとは思ったけど……頭を打った後遺症かもしれないね。……獣としては致命的な欠陥だ」
鼻がきかない。そう言われてみれば、普段は感じられることが分からなくなっている。
これではウィルフレッドを探せない。
ノエルは人型になるべく、体に力を入れた。男と会話をしたかったのもあるけれど、何より本当に鼻がきかないのかを確かめたかった。
ノエルが変化している間、男は静かに待っていた。獣人であるために物珍しそうなわけでもない。ノエルの服をのんびりと用意している。
「……やあ、それがきみの人の姿か。想像より凛々しかったな」
「……鼻が、きかない」
「頭を打っていたからね」
「どうやったら治る?」
ノエルに服を差し出して、男は近くの椅子に座る。
「分からないよ。私は正式な医者ではないからね」
「せいしき?」
「そう。真似事はしているけど」
難しいことはノエルには分からない。それでも鼻が治らないと言われた気がして、焦りばかりが募っていく。
「僕、行かないと」
「ああこら、ダメだって」
「いッ!」
「足が折れてるんだよ。さっきも痛かっただろ? 骨がくっつくまでは大人しく寝ていなさい」
だけどこうしている間にも、ウィルフレッドが……。
ノエルは泣きそうに眉を下げると、無力な自分を隠すように布団の中に潜り込んだ。
「……私はスイ。きみは?」
「……ノエル」
「そう、ノエル。お腹は空いている?」
「……うん」
「素直なのは良いことだね。食事を持ってくるから、少し待っていて」
こんな状態のノエルがウィルフレッドを見つけ出して、何をしてあげられるのだろうか。
小さな家の中、スイが部屋から出ていくのをぼんやりと見つめながら、ノエルはやっぱり落ち込んでいた。
ノエルの骨折が治ったのは、それからひと月が経ってからだった。人間の姿で大人しくしていたからだろう。豹に戻るより治癒が早いからとスイにすすめられて、このひと月は人間の姿のままである。
正直ノエルは乗り気ではなかった。人間の姿はあまり好きではない。会話ができるということは楽で良いけれど、それまでの刷り込みのせいで「人の姿は悪」という認識である。
とはいえ、完治が早いと言われてはそれに従うよりほかはない。葛藤するノエルを見て、スイはいつもおかしそうに笑っていた。
「鼻の調子はどうかな?」
足のギプスを外すと、スイは今度、鼻先に薬草を近づける。匂いが強いものなのだろうか。嗅いではみるが、やっぱり何も感じない。
「……分からない」
「そう、ダメか」
それでもノエルはウィルフレッドを探すためにすぐに豹の姿に戻った。最後に豹だったときよりもうんと体が軽い。調子が悪いつもりはなかったが、治ってみればあのときは本調子ではなかったのだと理解ができた。
「人を探してるって言っていたっけ」
スイの言葉に、ノエルはコクリと頷く。
「気をつけなさいね。一応、獣人には”英雄”が居るから抑止力になっているけれど……人は良いものではないよ。きっと傷つくことになる。獣人は所詮、人には受け入れられないんだから」
少しだけ寂しそうな声音だった。人間と何かがあったのだろうか。ノエルは一瞬気にしたけれど、スイがそれ以上は何も言わずに家の扉を開けたから、なんとなく聞けなくなってしまった。
そういえばスイはなぜ森の中で、それも人の姿で過ごしているのだろう。結局スイが何の獣人なのかも分からないまま、ノエルは一人森に溶け込んだ。
(まずはあの洞窟に戻って……)
もうひと月も経ってしまったが、もしかしたらウィルフレッドもノエルを待っているかもしれない。そんなことを思いながらノエルは一度洞窟を覗いたが、そこにはやはり誰も居なかった。
あの男たちに見つかったのだろうか。そんな不安がよぎって、ノエルは今度街に向かう。
(あの人間たちは、ウィルフレッドは”おうきゅう”で独りで生きてたって言ってたっけ)
それがどこかは分からないが、連れ戻すのならかつて暮らしていたそこで間違いはないだろう。ノエルは森を抜ける直前で人の形をとった。豹では人間とコミュニケーションが取れないし、余計な混乱も招く。ノエルは今もしっかりと、猟師がかつてノエルの兄弟を撃ったことを覚えていた。
スイにもらった服を着て、ノエルはさっそく街に出た。人が多い。そこかしこで笑い声や会話が聞こえて、これまで静かに生きていたノエルには少し恐ろしく思えた。さらに鼻がきかないものだから不安も大きい。前までは人型でも獣並の嗅覚があったというのに、今はまったく使えない。ただでさえノエルは弱っちいのに、丸腰で見知らぬ場所に乗り込んでいる状態の今、心は不安でいっぱいだった。
俯き気味にフラフラと歩いていたノエルの腕を、突然誰かが掴み上げる。小一時間は歩いた頃だ。ノエルは反射的に顔をあげた。
「悪いね。今の王都は怪しそうな人間は全員取り締りの対象なんだ。きみ、この国では見ない顔立ちだけど、どこから来たの」
「……か、顔立ち……?」
「……黒い髪に金の目なんかそうそう見ないし、少しエキゾチックな容姿だったから」
どこからと言われても、ノエルには「森から来ました」としか言いようがない。そのままそれを伝えると、男は訝しげに眉を寄せた。
「……森? 怪しいな……どこに行くつもりだった?」
「”おうきゅう”」
「王宮? 何の用があって?」
「ウィルに会う」
「…………ウィル?」
男の表情がますます強張っていく。ノエルはそれがなぜか分からなくて、男がノエルを睨みつけるたびに萎縮していた。
「おい、どうした」
「ああ、少し怪しい男なんだ。森から来た上に王宮に向かっていて、それもウィルフレッド様に会いたいらしい」
「……森から来て? ウィルフレッド様に……?」
後からやってきた男も、先に居た男と同様難しい表情を浮かべる。
(……何? 僕、何かいけないこと言った?)
ノエルには何も分からない。ノエルはただ目的を素直に伝えただけである。だんだんと怖くなってきたノエルは、男に掴まれていた腕を軽く振り払った。
「こら、逃げるな!」
「捕らえろ! 怪しい男だ、ギルバート様を狙った一派の可能性がある!」
駆け出したノエルを、男たちがすぐさま追いかけた。先ほどよりも人数が増えた。全員恐ろしい顔をして追いかけてくる。ノエルは全力で走ったけれど、人の体に慣れていなくて足がもつれて大きく転んだ。
「っ! い、いたい! やめて!」
「それなら大人しくしろ! 話は牢の中で聞く」
転んだノエルを強く押さえつけた男は、手際良くノエルの両腕を縛り付けた。
乱暴に立たされて、半ば引きずられるように連れられる。ノエルは俯いて震えていた。人間がこんなにも恐ろしいものだと知らなかったのだ。
キツく縛られた腕が痛い。周囲を男たちに囲まれてすっかり怯えたノエルは、何かを言うこともなくただ大人しく男たちに従っていた。
しばらく歩いて連れられたのは、窓も何もない大きな建物だった。やけに厳重に警備に守られている。
建物内の一室、鉄格子がはめられているそこに放り投げられ、ノエルは閉じ込められてしまった。
「ま、待って、僕、ウィル、」
男に鋭く睨みつけられて、ノエルは最後まで言えなかった。男の足音が遠ざかる。他にも同じように鉄格子がはめられた部屋のような場所はあるが、四つほどあるその中に閉じ込められているのはノエルだけのようだった。
鉄格子の中には何もない。剥き出しのコンクリートは冷たく、縛られたままのノエルは放り投げられて倒れているために余計に体が冷えていく。
(……あの人間、ウィルのことを知っている感じだった……)
男たちは確かにウィルフレッドの名を呼んだ。けれどどうしてノエルがこんな扱いをされているのかが分からない。ノエルが何かをしたのだろうか。
「……寒い」
連れ戻されたウィルフレッドも、ノエルと同じような気持ちでいるのかもしれない。そう思えば、弱っていく心も強く持ち直せる。
ノエルが転がって震えていると、再び足音が近づいてきた。複数ある。また酷いことをされるのだろうか。ノエルが思わず身構えるのと、男たちが鉄格子の前にやってくるのは同時だった。
「この男が?」
「はい。森から来て王宮を目指し、ウィルフレッド様を探しているらしく」
「……ほう?」
聞き覚えのある声に、ノエルはぐるりと振り向いた。
間違いない。森でウィルフレッドを探していた男の一人である。ノエルはすぐに気がついて、体を男たちに向けた。
「森、居た!」
「……ん?」
「森、あなた、ウィルの話、囮とか、」
「わー!」
男は突然大きな声を上げると、わざとらしく鉄格子を揺らして音を響かせた。そのおかげか、他の男にはノエルの言葉は届かなかったらしい。
「おまえたちは少し外せ。二人で話す」
「ですが……」
「いいから行け」
上官のような男に言われては逆らうこともできないのだろう。その場にはノエルと男の二人だけとなった。
「……貴様何者だ? なぜ内部事情を知っている?」
「ないぶ……? 分からない。ウィル、会いたい」
「会わせるわけがないだろう」
ピシャリと断言されて、ノエルは思わず息をのむ。
「まずは目的を吐け。……なぜ森にいた」
「森に、は……」
——人は良いものではないよ。きっと傷つくことになる。獣人は所詮、人には受け入れられないんだから。
スイの言葉を思い出して、ノエルは素直に獣人だからだと言うことをためらってしまった。
ここでノエルが獣人であることを言えばどうなるだろう。ノエルをいきなり縛り上げ、こんなところに閉じ込める人間のことだ。殺されてしまうかもしれない。
獣人は受け入れられない。受け入れられないとはつまりどうなるのか、それを今回身をもって理解したノエルには、獣人であることを言い出す勇気はなかった。
「言えないのか」
男の視線がキツく変わる。
「……質問を変える。なぜ王宮に向かっていた」
「ウィル、会う」
「ウィルフレッド様とはどういった関係だ?」
関係、と言われても分からない。ノエルは人間の社会をまったく知らないから、その言葉の意味がまず理解できなかった。
「……えっと……分からない」
「はぁ……話にならないな」
男が呆れたように踵を返す。ノエルが「待って!」と声を張り上げると、男はピタリと足を止めた。
「……あの……腕、痛い」
「……目的を吐いたら解いてやる」
「でも……」
「できないならそのままだな」
男はため息を吐き出すと、今度こそ出て行った。
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