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膝の上で、眠りかけの恋

朝食を終えたあと、冬馬がソファに冊子を広げた。 「律、今日は食事のマナーを教える」 「……めんどくさい」 思わず口をついて出た。 フォークとナイフなんて、普段の生活でそう使う機会もないのに。 「めんどくさくない。これも大事な教養だ」 冬馬は真面目な顔で言う。 ほんと、どこまでも“完璧なエリート”って感じだ。 「フォークとナイフの使い方、知ってるか?」 「……なんとなく」 「“なんとなく”じゃダメだ。ちゃんと覚えろ」 冬馬が実際にフォークとナイフを手に取る。 仕草ひとつひとつが絵になる。 無駄のない動き、姿勢、指先まで美しい。 「まず、フォークは左、ナイフは右。基本だな」 「……知ってる」 「じゃあ、持ち方は?」 「……こう?」 渋々、見様見真似で持つと、すぐに冬馬が眉を寄せた。 「指の位置が違う。ここだ」 冬馬が近づき、俺の手にそっと触れる。 大きくて温かい手が重なって、指の形を直してくる。 「っ……」 一瞬で心臓が跳ねた。 距離が近い。 息が触れるほど近い。 「わかるか?」 低い声が耳のすぐ横を掠める。 「……わかる」 なんとか平静を装う。 「姿勢も大事だ」 冬馬の手が背中に添えられた。 軽く押されるだけで、背筋がすっと伸びる。 「背筋を伸ばして」 「……伸ばしてる」 「もう少し」 軽く押されて、自然と背筋が伸びる。 「そこ。いい姿勢だ」 褒める声が落ち着きすぎていて、余計に意識する。 「いいぞ。そのまま」 冬馬が満足そうに頷いた。 その距離、呼吸が触れそうなほど近い。 「……こんなに近くなくても、教えられるだろ」 「近い方が、わかりやすいだろ?」 「……別に」 「素直じゃないな」 冬馬が少し笑う。 その笑顔がずるい。ムカつくのに、心臓が静かにならない。 「次は、ナイフの動かし方だ」 冬馬が見せる動作は本当に美しくて、静かで、流れるようだ。 「こう、優雅に」 「……言い方が気に入らない」 「やってみろ」 「……わかってる」 真似したけど、やっぱりぎこちない。 「力入りすぎだ」 また手を重ねられる。 指先に冬馬の温度が移ってきて、身体が熱を帯びる。 「こう。力を抜く」 低く囁かれるたび、胸がじわりと熱くなる。 同じ動作を繰り返しながら、指先の感覚を教えられる。 近い。息が触れるたび、肌が熱を帯びていく。 「……わかるか?」 「……わかる」 声が少し掠れていた。 「律、顔赤いぞ」 「……赤くない」 「ま、いいけど」 冬馬の笑い方が優しくて、悔しい。 ――夕方。 「律、勉強の時間だ」 書斎に連れて行かれた。 「……何の?」 「経済学だ」 分厚い本が机に置かれる。 「……難しそう」 「大丈夫だ。基礎から教える。ほら、座れ」 隣の椅子が引かれ、自然と距離が近くなる。 近いのがデフォルトなのか、この男は。 「まず、需要と供給の――」 説明を聞きながらも、視線は勝手に冬馬へ向く。 横顔が綺麗で、声が穏やかで、その落ち着きに引き込まれる。 「律、聞いてるか?」 「……聞いてる」 「嘘だな」 「……聞いてるってば」 紙面のグラフを指で示される。 けれど、その指先に目が行く。 長い指、整った爪先――いや、集中しろ。 ……と思っているうちに、またまぶたが重くなる。 「律」 「……ん」 「寝るな」 「……寝てない」 「寝てた」 ぐうの音も出ない。冬馬がため息をついた。 「仕方ないな……ちょっと休め」 「……いい、休まなくても」 「無理すんな」 言い切ると同時に、冬馬の手が後ろから支えてきて―― 気づけば、頭が冬馬の膝の上に落ち着いていた。 「っ……何してるの」 「膝枕だ」 「いらない」 「いる。少しだけ休め」 冬馬の指が髪をゆっくり撫でる。 優しい、ほどけるような触れ方。 「……っ」 呼吸がすぅっと落ち着いていく。 嫌どころじゃない。安心しすぎて、逆に腹が立つ。 「冬馬……」 「ん?」 「……別に」 何を言おうとしたのか分からなくなった。 冬馬の匂いが近すぎて、思考がまとまらない。 「少しだけだぞ」 低く優しい声が胸の奥に落ちる。 そのまま、瞼がふっと下りた。 冬馬の体温と匂いと手のぬくもり。 全部が、αの“安心”をくれるみたいに心地よかった。

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