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 ──昨晩、午後九時前。料亭・菊花にて。    覚束ない手つきで猪口を差し出す男に、まだ華奢な少年の手がゆっくりと徳利を傾ける。こぼれるほど並々と酒が注がれると、老齢の男はそれをひと息で飲み干し、隣に座る少年の肩を抱き寄せた。広々とした宴会場には体格のいい男達が集い、各々酒に明け暮れている。そんな秩序のないどんちゃん騒ぎを、床の間の白芙蓉が静かに見守っていた。 「やはり望夢くんの注いでくれる酒は格別じゃのう! 味わいが何重にも深みを増しとるわい!」 「はは……」  そう乾いた笑いを洩らしながら、少年──花守(はなもり)望夢(のぞむ)は何かを飲み込むように奥歯を噛み締めた。  芙蓉会会長である岡部浩一郎が生粋の少年愛好者であることは、この裏社会では有名な話である。部下の息子に好みの少年がいれば、まるで小姓のような役目を強要することも珍しくない。  望夢もまた、そんな岡部に目を付けられたひとりだった。猫を思わせる大きな瞳は豊かな睫毛で縁取られ、つんと尖った小さな鼻の下では薄く形のいい唇が淡く色づいている。何より岡部が気に入ったのは、まだ骨格すら仕上がっていない華奢な体躯の少年でありながら、意志の強さを滲ませる真っ直ぐな眼差しだ。現在、岡部の寵愛を一心に受けているのは、この花守望夢だった。そしてまた、その父親で芙蓉会幹部補佐である花守仁志も、着々と出世し地位を築き上げていた。 「ほれ望夢くん、かわいい顔をもぉっとよく見せてくれ」 「……はい」  望夢は表情のない顔で徳利を置くと、老人の膝に手を置いて身を寄せる。皺だらけの手が望夢の顎を掴むと、唇が触れるほどの位置に老人の顔が迫った。そのあまりの酒臭さに吐き気がこみ上げるのを、望夢は唇を噛んでやり過ごす。  ──ここで粗相なんかしている暇はない。この席に座るのは、三年越しの計画の一部なのだから。 「ああ~っおやっさん、うちのバカ息子が粗相してないっすか!」  望夢の隣に腰を下ろしたのは、父親である仁志だ。望夢はそんな父親を一瞥だけすると、黙って空になった徳利を見つめた。 「なに言うとんじゃ花守。望夢くんはこぉんなにいい子にしとるっちゅうのに」 「おお、おお、そりゃよかったですわ! 邪魔してすんません! のう望夢、おやっさんにたぁんと可愛がってもらえや!」  仁志は酒の回った赤い手で望夢の頭をくしゃくしゃにしたあと、幹部らの接待へと戻っていく。望夢の鋭い視線がその背中を見送り、やがてふっと逸らされた。彼の視線が向かったのは、硬く閉ざされた襖の向こうだ。そのとき、チンと乾いた音が宴会場の空気を揺らした。 「あ、──お酒が届きましたね。取ってきます」  望夢はすっと岡部の腕から抜け出すと、襖を開けて渡り廊下へと出る。そこには見張りの男達が立っているが、彼らは望夢には一瞥もくれず無視を決め込んでいた。彼らのように努力で上を目指している者にとって、望夢のような存在はどこまでも忌々しいものだ。望夢はそんな彼らには構わず、酒の置かれた台の前に立つ。そして背後の男たちがこちらを見ていないのを確認すると、徳利の口にそっと手を翳した。その袖口から、さらり、さらりと粉末が注がれていく。 「おい望夢! さっさと酒持ってこんかい!」  途端、背後から父親の怒声が響き、望夢の心臓は竦み上がった。望夢は慌てて酒の乗った盆を掴むと、小走りで宴会場へと戻っていく。 「なにボサッとしとんじゃこのグズが!」 「こら、望夢くんを怖がらせるな。ワシらが飲んだくれとる間に、望夢くんはせっせと給仕してくれとんじゃ。健気なもんじゃろうが」  岡部は再び望夢を傍に招くと、運んだばかりの酒を注がせた。透明な液体が杯を満たしていくのを見ていると、思わず手が震えてしまいそうになる。岡部はその中身を美味しそうにひと息で飲み干し、もう一杯、と猪口を突き出した。言われるがまま酒を注ぎ、望夢はこっそりと小さく息を吐く。 「あの……すみません。少し、お手洗いに」 「おおそうか、気ぃ付けて行っといで」  すっかり出来上がった男達を置いて、望夢は逃げるように廊下へ出る。見張りのひとりと目が合いそうになったが、無視して小走りに先を急いだ。便所へと続く角は曲がらず、そのまま進んで静かな広縁に腰掛ける。ここには男達の喧噪は届かず、時折鹿威しの涼し気な音が鳴るだけだ。 「……はぁ」  冬のつんとした空気が鼻腔をさす中、暗い空を見上げて大きく溜息を吐く。それから背中を丸めると、両手で強く胸を押さえた。知らずの内に息が浅くなり、痛いくらいに心臓が暴れまわる。額からぽたりと汗が滴るが、それを拭う余裕はなかった。  ──薬は仕込んだ。これでもう、あとには戻れない。  最後に望夢が運んだ一杯で、睡眠薬入りの酒はほぼ全員に生き渡ったはずだ。実際、男達の酩酊状態はかなり深いし、中には船を漕いでいる者もいた。あとはここでしばらく時間を稼ぎ、頃合いを見計らって戻ればいい。そして男達が寝静まっているのを確認したら──。 「……っ」  望夢の震える指先が懐に伸びる。そこにある固い感触を握りしめ、望夢は深く息を吐いた。  ──奴らが寝静まったら、その瞬間に、やる。 「……っうあ!?」  途端、目の前を黒い影が過り、望夢は大きく飛び上がった。懐のナイフから手を離し、隣に降り立った影を恐る恐る見遣る。そこには一羽の黒いカラスが羽を休め、丸い瞳で望夢を見上げていた。  夜のカラスだなんて珍しい……そう思うと同時に、脳裏を遠い日の記憶が過った。両親が離婚して間もなく、まだ母親が健在だった頃のこと。とある満月の夜に、怪我をしていたカラスを助けたことがある。そして手当をして逃がしてやった数日後、母親は恋人だという男を連れてきた。頭から足の先まで黒に包まれた男を見て、カラスのようだと思ったのを覚えている。 「カラス……」  ただ静かに見つめてくるその丸い瞳に、望夢は得も言われぬ不気味さを感じた。カラスと聞くと、どうしても良い印象がない。それはただ不吉の象徴だからではない。望夢にとってカラスとは、もっと恐ろしく、憎い存在だ。 「こんなとこで何してんだ?」 「っ!!」  ふと背後から声をかけられ、望夢の心臓は竦み上がった。一体いつの間に隣に立っていたのだろう、そこにいたのは黒を身に纏ったひとりの男だった。黒いコートの下には同じく黒いパーカーとズボンを着込み、まるで暗がりに溶けるような印象だ。顔は影になっていて確認できず、そのせいか妙な薄気味悪さを覚える。なんだか見てはいけないものを見てしまった気がして、望夢は逃げるように顔を伏せた。 「……なんですか」 「なんでガキがこんなとこにいんのかなって」  男は断りもなく隣に座り、そっとカラスに手を伸ばす。男の節張った指先が首回りをくすぐれば、カラスはまるで甘えるように頭を傾げて目を細めた。さながらペットかなにかのような扱いだ。とても野生のカラスとは思えない。しばし気持ちよさげに撫でられていたカラスだが、ふと何かに気付いた素振りをすると、カア、カアと二度鳴いた。 「……別に、なんでもいいだろ」 「まあそうだな」  男の声は低く落ち着いていて、どこか眠たげな甘い響きをしていた。望夢は深く頷いたまま、懐のナイフを確かめるように握り締める。 「それ、何に使うんだ?」 「え?」  突然の指摘に、望夢の思考が止まる。隣から男の視線が注がれているのが分かるが、顔を上げることはできなかった。ただ全身に嫌な汗が噴きだし、ナイフを握る指先が小さく震える。 「──なにって」 「カラスが二回鳴くのは、腹が減ってるときと、警告するときだ」  脈絡なく男がそう言うと、カラスは静かに飛び立っていった。望夢もようやく顔を上げ、飛び立つカラスを呆然と見送る。隣で男が立ち上がる気配がした。今は得体の知れない男のことなんか構っている場合ではない。このまま無視して見送ればいい。だというのに、何故か望夢は無意識に口を開いていた。 「……母さんは、”カラス”に殺された」  そんな望夢の小さな声に、立ち去ろうとした男が足を止める。関節が軋むほど強くナイフを握りしめ、望夢は震える息を吐きだした。  女手一つで望夢を育て上げた母親は、望夢が中学に上がると同時にこの世を去った。それが仕組まれたものだと知ったのは、父親の元に引き取られて間もなくのことだ。それからは地獄の三年間だった。血反吐をはく思いで耐え抜いて、今、ようやくこの時が来た。 「だから、今日、やらなきゃいけない」  望夢はそこでようやく、男の顔を見ようと振り返った。だがそこにあるはずの男の姿はなく、ただ薄闇が広がっているばかりだ。まるではじめから誰もいなかったとでも言うように、空気は不気味に静まり返っている。 「は……」  知らずのうちに溜息を洩らし、望夢は再び強くナイフを握りしめた。薬が効いてくるまであと数分といったところだろう。──覚悟を、決めなければならない。 「てめぇこんなとこでなにボサッとしてんだ!」 「……っ!」  突如、背後から低い怒声が響き渡り、望夢の身体は大きく飛び上がる。弾かれるようにして振り返れば、ふらつき柱に凭れ掛かりながらこちらを睨む父親の姿があった。その顔は真っ赤に染まり、細められた瞳は焦点が合ってない。呼気からは濃いアルコールの臭いが漂っていて、思わずくらりと眩暈を覚えた。 「父さ……うぐっ!」  頬に鈍い痛みが走り、冷たい床に倒れ込む。頭の芯が揺れてほんの一瞬意識が遠ざかりそうになる。じわりと滲みだす鉄の味は、唾液と一緒に押し戻した。 「さっさと戻れってんだ、クソガキ!」  男の手が望夢の襟を乱暴に掴み上げる。小さく首が締まるのと同時に、世界まで一瞬絞られたような感覚がした。男に引きずられていくうち、少しずつ宴会場の喧噪が戻ってくる。望夢は何度も足を縺れさせながら、先を歩く憎い背中を睨み続けた。喧噪が近づくにつれ、鼓動はますます早鐘を打つ。 「喜べ望夢。──今夜ついに、おやっさんがお前を”大人”にしてくれるって話だ」  聞きたくもない言葉が耳を過る。だが今はそんなことはどうでもよかった。──どうせそんなことにはならない。その前に、すべてを終わらせるのだから。

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