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勢いよく襖が開かれ、乱暴に身体を突き飛ばされる。咄嗟に手をついた畳には零れた酒が広がっていた。
「おやっさん? おやっさぁん」
恐る恐る顔を上げれば、岡部がぐったりと座椅子に寄りかかり眠っているのが見えた。周囲を取り巻く男達も半分近くが寝息を立てており、残った連中もすっかり酩酊しきっている。父親はぐらりと大きくよろめくと、酒や料理をなぎ倒しながらテーブルに突っ伏した。
「おいガキ! なにしてやがる!」
「っ動くな!」
異変に気付いた見張り役が踏み込むと同時に、望夢は隠し持っていたナイフを突きつけた。その刃先が睨むのは、よろめきながら身を起こす己の父親だ。指先の感覚がなくなるほど強く握りしめ、手の震えを必死で押さえつける。自然と涙が滲み、視界の隅に小さな光が揺れた。
「望夢、てめぇ……」
「お前らの雇った殺し屋に、母さんは殺された!」
絞り出すような叫びに、会場の空気がしんと静まり返る。酩酊した男達はひとり、またひとりとそれぞれの武器を手に取り、ナイフを構える望夢を取り囲んだ。父親である仁志もまた、酒の空き瓶を掴んで立ち上がる。
「カラスって、いうんだろ」
「カラスぅ?」
張り詰めていた空気の中に、小さく冷やかしの色が流れた。 カラスだってよ、なんだそりゃ──そう嘲笑う男達にも怯むことなく、望夢はナイフを構え続ける。
「今日、カラスがお前らを殺しにくる」
汗でナイフが滑り落ちそうになり、慌てて指先に力を込めた。どれだけ息を整えようとしても、全身の震えは止まらない。血走った父の目がほんの一瞬怯む中で、幹部のひとりが呆れたように吹き出した。ある者は笑い、ある者は武器を構えたまま望夢を睨む。冷笑する空気の中にも、確かな緊迫が流れていた。
「その前に、僕がお前らを殺す。そして……」
窓の外で、ふと黒い影が空を切った。カラスだ。眠り損なった一羽がゆらりと月明かりを浴び、やがて夜の帳に消えていく。
「お前らを全員やったら──次は、”カラス”を殺す」
一瞬、その場の空気が止まった。きんとした耳鳴りが望夢を襲う。その張り詰めた空気を引き裂いたのは、破裂するように上がった男達の笑い声だった。
「おいおい、ガキに何ができるってんだよ!」
「アニキ、こいつなかなか見込みありますぜ!」
「──僕は本気だ」
低く、細く、熱い息を吐き出す。男達の笑い声がぴたりと止み、最初のひとりが足を踏み出した。それを皮切りに、男達が一斉に望夢へと襲い掛かる。望夢の視界を振り上げられた酒瓶が横切った。その刹那。
──パシュ、と、微かに響いた破裂音。男達の動きが一瞬にして止まり、その視線が宴会場の一点へと向かう。そこにあるのは座椅子に寄りかかって眠る岡部の姿だ。しかし──その額にはまるく風穴があき、こめかみから夥しい鮮血が流れ出していた。その血潮は背後の床の間にまで届き、美しい白芙蓉を赤く染め上げている。
「おやっさん!」
「くっそ、どこのどいつじゃあ! 出てこい!」
望夢はその一瞬を見逃さなかった。怒号が響く中、こちらに向けられた父の背をまっすぐに睨みつける。もはや手の震えも感じることはなかった。血が止まるほどにナイフを握りしめ、望夢の足は地面を蹴った。
「うああぁあああッ!!」
「てめっ……!」
こいつだけは、この手で葬らなければならない。心優しかった母を騙し、用済みとばかりに捨て置き、挙句の果てには命まで奪った。欲望のために他人を利用し、人生をめちゃくちゃにした悪魔。──絶対に、生かしてはおかない。
「このクソガキ!」
「っうあ゛!」
しかし、望夢のナイフが憎き背を貫くことはなかった。身体を捻った男は勢いのまま足を振り上げ、望夢の鳩尾を蹴り飛ばす。鈍い衝撃が走ったあと、望夢の身体は畳に叩き付けられた。滲む視界の先に男の輪郭がぼやけて見える。それでも望夢はナイフを離さなかった。両手でそれを握り込んだまま、背中を丸めて激しく咳き込む。
「ナメた真似してんじゃねぇぞ!」
「あ……」
目の前の光景が、どこかスローモーションに流れた。父親の振り上げた酒瓶が、照明を受けて鈍い光を放つ。残っていた酒がこぼれ出し、男の赤ら顔を濡らしていった。酒瓶が音もなく振り下ろされる。
刹那、その額に、赤い花が咲いた。
「え……」
男の、憎き父親の身体が、ゆっくりと崩れ落ちていく。噴き出した鮮血が足元の畳を赤く染め上げた。そこに転がるのは、父親”だったもの”だ。急激に視界が狭まり、自分の荒い呼吸が耳につく。ぼやける視界をわずかに動かしたその時──望夢の背後で、なにかが畳を踏み鳴らした。
「──!」
その場の誰も言葉を発することなく、ただその静かな靴音が望夢の真横を通り過ぎる。コツ、コツ。2回だけ鳴ったわざとらしい靴音は、まるで警告でもしているかのようだった。
「て、てめぇは……」
誰かが呆然と呟く声がする。気が付けば、望夢の前には黒い背中が立ちはだかっていた。丈の長い黒いコートが、風を受けて小さく揺れている。男はその場から動くことはないまま、ゆっくりと銃を持ち上げた。その先端には筒状のものが不自然に取り付けられ、月明かりを受けて鈍く光っている。
「やれ! やっちまえぇええ!!」
誰かの怒号が上がると同時に、男達が一斉に動き出す。パシュ、とまたひとつ、静かに乾いた音が響いた。刃物を振りかざした男の額に、まるい影が穿たれる。男の身体が崩れ落ちるのも待たず、また次の乾いた音がした。
ひとつ、また、ひとつ。乾いた音と、崩れ落ちる男達の身体。その光景を、望夢はどこか遠くに見つめていた。あれだけ激しかった男達の怒号が、ひとつひとつ消えていく。夥しい鮮血が畳を濡らし、望夢の足元にまで広がった。
それはたった一度、瞬きをした間の出来事のようだった。男がどう動いて、何をしたのかもよく分からない。はっと気が付いた時には、立っているのは男ただひとりになっていた。
「は、はっ……」
耳が痛いような静寂が周囲に充満している。聞こえるのは、やけに荒い自分の呼吸音だけだ。両手はナイフを握ったまま、凍ったみたく動かなくなっていた。むせ返るような血の臭いが鼻腔を突き刺し、生理的な吐き気がこみ上げる。
「あ……」
ゆっくりと、男が振り返るのが見えた。視線は男に釘づけられたまま、月明かりを浴びるその青白い顔を捉える。柔らかく跳ねる黒い髪。眠たげに重い瞼。真っ直ぐ結ばれた唇──記憶の底、薄れかけていた面影が、はっきりとそこに重なった。
「か、らす……」
男の眉が、ほんの微かにだけ動いた。
望夢の脳裏を遠い記憶が過る。茜色に染まるリビング。額から血を流す母。銃を握った黒い男──。
「っああぁあああ!!」
反射的に身体が動いていた。跳ね起きるようにして地面を蹴り上げ、男に向かって一直線に突き進む。汗で滑るナイフを握りしめ、瞳はただ目の前の仇だけを見つめる。男の瞳が小さく細められるのが見えた。男の脇腹目指して飛び込んだ、その刹那。
「あぐっ……!」
鳩尾に鈍い衝撃が走り、望夢の身体はその場に崩れ落ちた。手からナイフが滑り落ち、からんと気の抜けた音を立てる。男は静かにそれを拾い上げると、軽々とへし折り背後に投げ捨てた。
「けほっ、げほげほっ……」
痛みのあまり息が詰まり、滲んでいた涙が零れ落ちる。ぼやける視界の先には男の黒い靴が映っていた。それがゆっくりと踵を返すのを見て、望夢は咄嗟に声を絞り出す。
「待、て!」
男がぴたりと足を止める。こちらに背を向けたまま、視線だけで軽く振り向いた。温度のない暗い瞳に見つめられ、ぞくりとしたものが背筋を駆け抜ける。それにも構わず望夢は身を起こすと、震える足で男に歩み寄った。
「僕も、連れて行け」
自分でも驚くほどかすれた声だった。殴られた腹がずきずきと鈍く痛む。視界の端で血溜まりが揺れ、月明かりを小さく反射させた。破れそうに脈打つ胸を押さえながら、それでも望夢は男を睨み続ける。ここで離れたら二度と追いつけない。せっかく訪れた復讐の機会を、易々と逃がしてたまるものか。
男はしばらく黙っていた。まとわりつく血の臭いの中、望夢は一歩、また一歩と男に迫る。
「……こいつら、ただの酩酊にしては異常だった。薬か?」
ふと投げられた問いに、望夢の足が止まる。男はようやく身体ごと振り返ると、感情の見えない黒い瞳で望夢を見下ろした。睨まれているわけでもないのに、それどころか眠たげな眼差しさえしているのに、思わず足が竦みそうなほどの威圧感だ。それでも望夢は怯むことなく男を見据え続けた。強く奥歯を噛み締め、やがて罪を認めるようにゆっくりと頷く。
「なんでそんなことした」
「あんたにやられる前に、自分でカタをつけたかった」
男の眉がひくりと跳ねる。やはり感情は読めないままだが、何か考えるように視線をずらしていた。やがて男は小さく肩を竦めると、再び望夢に背を向けた。
「そのやり方はおすすめしない」
「は?」
「獲物、横取りして悪かったな」
淡々とした男の言葉に、胸の奥から何かが逆流するような感覚がした。それは屈辱か、怒りか、それとも別の感情か分からない。ただ喉がひくりと震えて、息が苦しくなった。
「ついてくるなら勝手にしろ」
「え」
男はそう短く告げると、ポケットに手を入れゆっくりと歩き出す。一瞬、なにを言われたのか理解できなかった。男の背中が遠ざかっていくのを見つめ、望夢ははっとして足を踏み出す。何度もよろめきながら、それでも男を追うのをやめなかった。足元に光る血だまりも無視して、ただ目の前の背中だけを睨み続ける。
裏口から料亭を出ると、男は真っ直ぐどこかへと歩き出した。やわらかな夜風が頬をくすぐり、血の生臭さを攫っていく。冷え切った空気が鼻腔を突き刺し、肺まで凍えさせるようだった。
ふと、望夢は小さく顔を上げる。男の広い背中の向こうに、丸く肥えた月がぼんやりと滲んで見えた。分厚い雲を掻き分けながら、静かにこちらを見下ろしている。
それがまるで自分達を監視でもしているかのようで、望夢は逃げるように小さく顔を背けた。
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