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軽やかな鳥のさえずりを聞きながら、望夢は静かに目を覚ました。一体いつの間に眠ってしまっていたのだろうか、昨晩の記憶が途中から曖昧になっている。覚えているのは、あの”カラス”と共に現場を立ち去り、車に乗り込んだところまでだ。穏やかな振動に揺られているうち、疲労に耐え切れず意識を手放していたみたいだ。
カーテンから漏れる朝日に目を細め、重い身体をゆっくりと起こす。視界に映るのは見慣れた自室ではなく、ベッドとソファくらいしかない殺風景な部屋だ。そのソファに黒い影を見つけた途端、望夢の身体はぎくりと硬直した。
──三年間、虎視眈々とチャンスを伺い続け、ようやく悲願が果たされるはずだった。だというのに、望夢の復讐は未遂に終わった。ソファで寝息を立てるこの黒い男──”カラス”が、すべて奪っていったのだ。
そっとベッドを降りると、氷を張ったような床の冷たさに身体が震えた。望夢は小さく息を呑みながら、足音を殺してベッドへと歩み寄る。覗き込んだ先にあったのは、長い手足を窮屈そうに畳んで眠る”カラス”の姿だ。
「……っ」
知らないうちに呼吸が震えていた。望夢はそっと男の上に跨り、その喉元へと両手を伸ばす。指が触れた瞬間、皮膚の下で脈打つ温度に身がすくんだ。それでも迷わず、望夢はゆっくりと指を絡める。
「は、……っ」
深く息を吸い込み、吐くタイミングで力を込める。細い自分の指が、太い首に沈み込んでいく。
震えが、指先から全身へと広がった。呼吸が途切れ途切れになり、胸が焼けるように熱くなる。男を締め上げる手だけが、まるで凍り付いたように冷たかった。
──このまま絞め続ければ、終わる。
この男は死んで、復讐は、ここで果たされるのだ。
「──迷いのなさは合格だな」
「……っ!?」
膜を貼ったような意識の中に、突如、静かな声が投げ込まれた。指先から一気に力が抜けた瞬間、大きな手で喉を掴み上げられる。何が起きたのか分からないまま、身体は易々と引き剥がされた。そのままゆっくりと持ち上げられ、締め上げられた喉から潰れた空気が漏れる。
「けど、駄目だな。力の入れ方がなってねぇ。そんなんじゃ赤ん坊も殺せねぇよ」
「か、はっ……」
男の手が、ぎり、と締め付けを強める。
気管が押し潰され、ひしゃげた呼吸がひゅうひゅうとか細い音を立てた。耳の横で心臓が暴れまわり、視界が水中に沈んだように滲んでいく。喘ぐように開閉する唇からは、掠れた空気が漏れるばかりだ。
──殺される。
このまま、何も成せずに終わるのか。母の復讐も果たせないまま、外でもないこの男の手で……。
「……っかは、げほげほげほっ!」
意識が黒く塗り潰されようとしたその時、ふっと拘束が解かれた。望夢は悲鳴のように大きく息を吸い込むと、喉が潰れるほど激しく咳き込む。殺されかけたのだという事実が、ひやりと胸の奥を冷たくした。
「昼になったら出かけるぞ」
「は……?」
男は再びソファに体を投げ出すと、ブランケットに包まって目を閉じた。部屋の空気は冷たく張り詰めているというのに、男の息遣いはどこまでも規則的で安らかだ。そこには少しの死の臭いも感じられなかった。ただ首に残る圧迫感だけが、わずかな死の気配を語っていた。
「っおい寝るな、カラス!」
咄嗟に男の胸倉を掴み、力の限り揺すり上げる。殺すか殺されるかのやり取りをしていたというのに、この状況で二度寝されるのはたまったものではない。なにより中途半端に解放されたことが気に入らなかった。この男なら、あのまま易々と望夢の首をへし折ることも出来たはずだ。
「蓮」
「は……?」
「カラスじゃない。蓮だ」
蓮は右目だけを薄っすらと開くと、淡々とした声でそう告げる。言葉の意味がすぐには理解できず、望夢の時間はしばし停止した。カラスじゃない。蓮。──それが男の名だということに、数秒遅れてからようやく気付いた。
「れ、蓮……?」
「そうだ。黒瀬 蓮 」
「なんでそんな……」
「カラスって呼ばれんのは好きじゃない」
胸倉を掴む手から思わず力が抜け落ちる。どう考えても今は自己紹介などしている空気ではなかったはずだ。虚を突かれたせいか、まるで風船に針でも刺したみたく殺意がしぼんでいく。ぽかんと口を開けて呆けている望夢に、男は窮屈そうに寝返りを打ちながら口を開いた。
「出かける前にシャワー浴びとけ。血が残ってる」
「あ……」
男──蓮に告げられ、望夢はようやく自分の状態に気が付いた。頬や髪には乾いた血がこびりつき、色濃い死の臭いを纏っている。途端に昨晩の光景が鮮明に蘇り、胸がつっかえるような吐き気がこみあげた。
「……っ!」
望夢は勢いよく立ち上がると、男の背中を力の限り蹴り飛ばした。びくりともせず寝こける男に背を向け、急ぎ足に浴室を目指す。
──忘れてはいけない、相手は殺し屋だ。自分のような子供が易々と片づけられる相手ではない。
真正面からぶつかるやり方では駄目なのだ。慎重に狙いを定め、一瞬の隙を突く。必ずその時は訪れるはずだ。それまでどれだけ長いこと耐え忍ぶことになっても構わない。いつか来る「その時」のために、息を潜めて目を光らせてやる。
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