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アパートのエントランスに出ると、瞳を焼くような強い日差しに出迎えられた。階段の隣には熱心にモップかけをしている中年女性の姿がある。規則的に床を操る水音と、つんとした漂白剤の匂い。女性はふとこちらに気が付くと、明るく弾む声を上げた。
「あら~、ケンさん! 久しぶりじゃないの。最近見かけなかったから、どうしたのかと思ってたのよ」
“ケンさん”? と眉をひそめかけた望夢の横で、蓮は短く「どうも」とだけ返す。その素っ気なさをものともせず、女性は手を止めてにこやかに近づいてきた。
「あら? その子は?」
「甥っ子だよ。ヒカル、この人は大家のアキさん。挨拶しな」
唐突にヒカルと呼ばれ、望夢は一瞬呆気に取られる。しかしすぐさまその意味を理解して、慌てながら頭を下げた。嘘を吐くのは心苦しいが、今は蓮の言う通りにするしかない。若干の罪悪感に胸を痛めつつ、望夢はアキに挨拶を返した。
「ひ、ヒカルです……こんにちは」
「あらまあ随分とかわいらしい子じゃないの~! 今おいくつなの?」
「えっと……」
望夢がちらと蓮を見遣ると、蓮は「好きにしろ」と言わんばかりに目を逸らした。どうやら年齢まで偽る必要はないらしい。望夢は少し躊躇ったあと、「高一です」と正直な答えを口にした。
「あらぁ~! あんまり可愛いから中学生かと思ったちゃった!」
「うぅっ」
コンプレックスを容赦なく刺激され、望夢は思わず喉を詰まらせる。相手に悪気がない分、怒るに怒れず複雑な気分だった。確かに望夢は背が高いほうではないし、顔立ちも幼いままだ。声変わりもまだ来ていない。長身で年齢不詳の雰囲気がある蓮と並ぶと、下手すれば親子にも間違われそうなくらいだった。
「おばちゃん、こいつ実は不登校でさ、暫くうちで預かることになってんだよ。人見知りだから、あんまビビらせないでやって」
「まあ! 大変なのねぇ」
やや大袈裟に嘆息するアキに、蓮は軽く会釈して歩き出す。望夢も小さく頭を下げると、先を行く蓮の背中を追いかけた。蓮はポケットに手を入れながら、やや背中を丸めて早足気味に歩いている。おかげで望夢は小走りにならないと追いつけなかった。せめて歩調くらい合わせてくれてもいいのにと、目の前の大きな背中をそっと睨む。
蓮はやがて近場にある小さなショッピングセンターへ入っていくと、籠を無造作に掴んで奥へ進んでいった。あまり明るくない蛍光灯に照らされた店内は、ここだけ時代が止まったような懐かしさがある。蓮はフロアの一角に並んだ衣類のコーナーに立ち寄ると、目についたパーカーやシャツを籠に放り込んでいった。
「え、ちょっと、それ何」
「着替え」
「誰の?」
蓮はひくりと片眉を持ち上げると、小首を傾げながら口を開く。
「お前の以外にあんのか?」
「えぇ……」
籠に放り込まれた服を見下ろし、望夢は深々と溜息をついた。この際デザインに文句は言わないが、せめてサイズくらいは揃えて欲しいと思う。中には明らかに小さすぎる服も紛れていて、望夢は呆れながらそれを元の位置に返却した。
「僕、一応Mサイズだから」
「Sじゃないのか?」
「Mだってば!」
サイズ違いの服は籠からすべて掘り返し、代わりに無難そうなMサイズの服を放り込む。今はおしゃれがしたいだなんて言っていられないので、とにかく悪目立ちせず着られるものを選ぶことにした。おかげで無地の服ばかりになってしまったが、それは仕方ないだろう。
「下着もMか?」
「……S」
下着の並ぶ棚の前で尋ねられ、望夢は蚊の鳴くような声で答える。蓮はなんとも思ってなさそうな顔のまま、Sのラベルが貼られた下着を適当に掴んで放り込んでいった。それなりに籠が窮屈になってきたところで、蓮と共に衣類のフロアを出てさらに奥を目指す。
「いるもんあったら籠に入れてけ」
「あっ……」
蓮に促され、日用品の並ぶフロアを見渡す。とりあえず歯ブラシは必要だと思ったので、一番安いものを選んで籠に入れた。まずは最低限の着替えと歯ブラシさえあればいいだろう。もう大丈夫、そう蓮に伝えようとした矢先、籠に安物のシェーバーが放り込まれた。
蓮の買い物だろうか。そう思いながら黙っている望夢を、蓮が軽く首を傾げながら見つめる。やがて蓮は何かに気付いたような顔をすると、「まだ生えねえか」と短く零した。
「生えないって、何が?」
「ひげ」
ふっと、ほんの小さく蓮が噴き出す。眠たげな目元がかすかな弧を描き、柔らかく望夢を見下ろしていた。笑われたのだとようやく気付いたのは、蓮が元の無表情に戻ってからだった。
「~~ッ!! うるさい!」
「他、必要なもんは?」
蓮に向かって振り上げた拳はするりと軽やかに躱された。顔に熱が集まるのを感じながら、望夢は咄嗟に目についた洗顔フォームを手に取る。棚の高い位置に並んでいたそれは、四千円ほどする有名メーカーのものだ。それを籠の中へ無造作に放り込むと、蓮は少し意外そうに眉を持ち上げた。
「それ、大人用だと思うけど」
「悪いか!」
「いや、別に」
興味なさげに歩き出す蓮の背中に、望夢はまたふつふつと苛立ちがこみ上げるのを覚えた。子ども扱いされたのも悔しいが、そんなことで腹を立てる自分の未熟さも気に入らない。
望夢はむしゃくしゃした勢いのまま、思いつく限り籠に放り込んでいった。ワックス、消臭スプレー、柔軟剤、手触りの良いタオル。ついでに手が勝手に掴んだココアスティック。それらが積み重なった上には、小さな猫のキーホルダーがうつ伏せに寝転がっていた。
「……お前、引っ越してくんのか?」
「違う!」
蓮はそっと眉を上げたあと、山盛りになった籠を持ってレジへと向かっていった。その背中を追いながら、望夢は無意識に胸の前で両手を握る。さっきまで胸の奥で形を持たず暴れていた苛立ちは、まだ鎮まり切らないままだった。
「……あ」
ふと、足が止まる。視界の端に映ったのは、園芸用の薬品が並ぶ棚だ。質素なラベルの貼られたボトルを見て、望夢はふっと背筋が冷たくなるのを感じた。
──農薬は、最も簡単に入手できる毒物のひとつだ。多量に摂取すれば中毒を引き起こし、命に関わることもある。
無意識に視線が吸い寄せられ、喉がひゅっと細く締まる。薬は、腕力で叶わない相手に対して有効な手段だ。導入も難しくない。酒や睡眠薬と合わせれば完璧だ。酩酊している相手に大量の農薬を飲ませ、あとは放置するだけでいい。たとえ伝説と呼ばれるような殺し屋だとしても、その肉体はただの人間だ。毒が回れば、息は止まる。
「なにしてんだ」
「……っ!」
視界が急激に狭まる中、蓮の淡々とした声が望夢の意識を揺さぶった。望夢ははっとして棚から目を逸らすと、数歩先で振り返る男を追いかける。背後の棚に意識が引きずられるのを、望夢は小さく頭を振って断ち切った。
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