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 窓際に置かれた小さなプランターを眺めながら、望夢はひっそりと溜息を着いた。アリバイ工作として購入したものではあるが、なんだかんだ毎日きちんと世話をしている。今ではすっかり芽が出るのを楽しみにしている自分がいて、望夢はどうにも複雑な気分になった。  パセリが芽を出すまでには四週間ほどかかるらしい。まさかそれまで蓮を殺さず、パセリの芽吹きを待つつもりだろうか。蓮の食事には毎日少量ずつ農薬を混ぜている。蓮はまだ気付いていないのか、とくに怪しむ素振りもなければ体調に異変が生じた気配もない。この調子では本当に、パセリが芽吹くまでに殺せなさそうだ。  簡単に窓辺の掃除を終え、ソファに寝そべる蓮を見遣る。殺し屋の仕事というのはそう頻繁にあるものでもないらしく、蓮は日がな一日ソファでだらけてばかりだった。日中の買い物はもっぱら望夢の担当で、たまに蓮が外に出るのは冷蔵庫のビールが切れた時くらいだ。 「……蓮って、本当に殺し屋?」  ソファで惰眠を貪っていた蓮が薄っすらと目を開く。望夢の問いにはとくに答えることもなく、また目を閉じて小さくいびきをかきはじめた。その姿はどこにでもいるだらしない中年のようにしか見えない。とてもじゃないが、伝説級の殺し屋『カラス』のイメージではなかった。 「まあいいや……そこ掃除したいから、ちょっと退いて」  望夢に揺り起こされ、蓮がしぶしぶといった様子でソファを退く。そのまま蓮はキッチンに吸い込まれると、缶ビールを手に戻ってきた。 「ちょっと、まだ昼間だよ?」 「昼に酒呑んじゃいけない決まりがあるのか?」 「いや、別にないけどさ……」  蓮はローテーブルの前にどかりとあぐらをかき、躊躇いもなくプルタブを上げる。そこも邪魔なんだけどな、と内心思いつつ、望夢はソファをずらして床用ワイパーをかけはじめた。日頃まともに掃除していなかったらしく、ソファと壁との隙間にはぎょっとするほどの埃が溜まっている。軽く咳き込みながらワイパーをかけ、ソファを元の位置に戻す。蓮は何を考えているのか、ちびちびとビールを呷りながら何もないところを見つめていた。 「蓮ってさ、いつもは何してるの?」  掃除用具を片付けながら、蓮にそっと声を掛ける。蓮は横目に望夢を一瞥したあと、記憶を辿るように斜め上を見た。 「……寝てる?」 「いや、さすがに寝る以外でやることあるでしょ……」  呆れるような返答に、望夢は小さく肩を竦める。これが裏社会で名を轟かせる『カラス』だなんて、誰に言っても信じて貰えないだろう。蓮は少し困ったような顔をすると、誤魔化すようにビールを呷った。発達した喉仏が上下するのを眺めながら、望夢はそっとソファに腰掛ける。 「趣味とかさ、ないわけ?」  どうせ「ない」と言われるのだろう。そう思いながらクッションを抱きかかえると、短い沈黙を蓮の静かな声が破った。 「思い出してる」 「え?」 「やることない時は、これまでのことを思い出す」  予想外の返答に、望夢はひそかに目を見張る。そういえばこの男は、これまで殺した人間を全て覚えていると言っていた。過去になんか興味なさそうな顔をして、その実そんな感傷に浸るような心があったのか。目の前にいるのは冷徹な殺し屋『カラス』だ。たとえそうは見えないとしても、望夢はこの男の罪を知っている。その恨みが消えることは、きっと一生ない。だというのに……一瞬、その事実を忘れてしまいそうになっていた。 「……それ、思い出してどうするの?」 「別に。ただ思い出すだけだ」 「後悔したり、悼んだりするの?」  蓮の黒い瞳が静かに望夢を見つめる。月のない闇夜のようなそれに、まるで吸い込まれそうな感覚がした。望夢は思わず息を呑み、その黒々とした瞳を見つめ返す。ほんの数秒のことなのに、まるで途方もなく長いこと囚われているような気がした。やがて蓮はふっと視線を逸らすと、ビールをひとくち流し込む。そして眠た気な目元をかすかに細め、のんびりと口を開いた。 「しない。記憶は、ただの記憶だ」 「……はあ」  どうしてだろう……ほんの一瞬、期待を裏切られたような気分になった。これではまるで、蓮の口から懺悔でも聞きたかったみたいだ。そんな自分の愚かさを自覚して、望夢はじくじくと疼くような苛立ちを覚える。蓮は母のことを覚えているが、蓮にとってそれは感情を伴わない「ただの過去」なのだ。それをまざまざと思い知らされ、胸の奥が重苦しくなった。 「……逆に、未来のことを考えることあるの?」  ふと思いついた疑問を口にする。この男の考えていることなど興味もないが、なんとなく聞いてみたくなっただけだ。蓮はそんな望夢をまた一瞥したあと、「ない」と短く言い放った。 「過去はそこにあるけど、未来はまだないだろ」 「確かにそうだけど、普通はみんな未来を想像するんだよ」 「想像してどうすんだ?」 「そりゃ、期待したり、不安になったり……」  蓮はさも興味なさそうに「ふうん」と鼻を鳴らすと、ビールの残りを一気に呷った。空になった缶を置き、感情の読めない顔でどこか遠くを眺める。その瞳はどこまでも黒々としていて、まるで何も映していないかのようだった。 「なら、お前はあるのか?」 「え?」 「未来、考えることあんのかって」  まさか問い返されるとは思わず、困惑しながら蓮の横顔を見つめる。未来と言われて、真っ先に脳裏を過ったのは蓮のことだった。この男を殺すのが、今の自分にとって最大の目標だ。毎日の毒でじわじわと弱らせ、いつかその胸を刺し貫く。あるいは、首を絞めあげるのでもいい。しかし、蓮の殺害までは想像できるのに……その先の未来となると、まるでぷつりと切り離されたみたく何も浮かんでこなかった。 「……あるよ。一応僕にだって、やりたいことがある」 「花屋とか?」 「へ?」  唐突な切り返しに虚をつかれ、望夢は思わず気の抜けた声を上げる。呆気に取られる望夢に何を思ったのか、あるいは何も考えていないのか、蓮は空になった缶を手持ち無沙汰に揺らしていた。 「将来の夢といったら花屋だろ」 「は……? えっと……うん、まあ、そうなのかも……」  色々と突っ込みたい気持ちはあったが、今は軽く受け流すことにした。今自分は殺すべき仇と話しているのに、身を焼くような憎しみが湧いてこないのは何故だろう。それどころか、身体の芯が脱力するような、気の抜けた空気が二人の間に流れている。窓から差し込む日差しが、ぽかぽかと優しく暖かいせいだろうか。 「……天気もいいし、散歩くらいしてきたら?」 「いや、寝る」  蓮はあっさりと望夢の提案を退け、その場にゴロリと横たわった。ソファは望夢が使っているので、そのまま床で寝るつもりらしい。言えば退くくらい構わないのに。いや、そもそもベッドで寝ればいいだろう。そういえば、望夢がこの部屋に転がり込んで以降、蓮がベッドを使っているところは見たことがなかった。いつも狭いソファで手足を畳み、窮屈そうに眠っている。まるで望夢に気でも遣っているみたいだ。この男の失礼な言動を見ていると、到底そんなふうには思えない筈なのだけれど。 「ほんと寝てばっかりだな……」  そう呆れた息を吐いたところで、そろそろ洗濯物を取り込む頃だと思い出した。仮にも家事を請け負うと言ってしまったので、それなりに毎日きちんとこなしている。望夢はソファを立つと、ベランダに出ててきぱきと洗濯物を取り込んでいく。ふとくたびれたトランクスが目に入ったところで、望夢はぴたりと手を止めた。これから殺す相手の下着を洗うなんて可笑しな話だ。だが、そうして油断させるのも計画のうちである。そうだと思っておきたい。望夢はトランクスを引ったくるようにして回収すると、洗濯物を抱えて部屋に戻った。

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