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狭いアパートの洗面所に陽気な鼻歌が響いている。鏡に向かいながら熱心にひげを剃っているのは、まだあどけなさの残る顔立ちをした青年だ。軽く目にかかる髪を金に染め上げた彼は、若者らしい派手なジャケットに身を包み、気の抜けた鼻歌を奏でながらカミソリを走らせていた。
「シャバに出て真っ先にやんのが髭剃りと染髪かよ」
そんな青年を見守るのは、洗面所の扉に凭れ掛かった小柄な男だ。髭を剃る青年とは対照的に、彼は艶々とした黒髪を片側だけ後ろに撫でつけ、仕立ての良いスーツに身を包んでいた。青年よりはいくらか年長者に見えるが、少年のような背丈のおかげで年齢不詳な雰囲気を醸し出している。男が呆れたように小さく鼻を鳴らすと、青年は髭剃りを終えて丁寧に洗顔をはじめた。
「おい烈、んなこといつまでやってんだよ」
「だぁって身だしなみは大事だろ?」
洗顔を終え、青年──烈は鏡の中の自分と目を合わせる。そして「あーあ」と嘆くような息を吐くと、鏡に映る自分の右目に指を這わせた。
「俺の綺麗な顔にこんな傷、ほんともったいねー……ねえ晃、コンシーラーとか持ってない?」
そう嘆息する烈の右目には、ナイフで裂かれたような痛々しい傷跡が大きく刻まれている。ケロイド状に引き攣れた皮膚は、どこか幼げなその顔立ちには不気味なほど不釣合いだった。一方で小柄な男──晃は緩く腕を組んだまま、神妙な面持ちでその様子を眺めている。
「持ってる訳ねぇだろ」
「うわ、使えな」
晃の突き放すような返答に、烈はむすりと唇を尖らせる。その表情は拗ねた少年のように無邪気なものだが、それとは不釣り合いな顔の傷がその異質さを醸し出していた。
「ったく、誰のおかげで出てこれたと思ってんだよ」
「あーうんうん。オヤジさんが何とかしてくれたんでしょ? ありがとって伝えといてー」
「……一生ムショに閉じ込めとけって俺は言ったんだがな」
晃のため息混じりの言葉など聞いてすらいないかのように、烈は鏡の中の自分を見つめ続けている。その瞳には解放を喜ぶ明るい色合いと共に、どこか憂うような淀みが滲んでいた。
「てかさ、あの変態会長やられたんだって? しかもオヤジさん以外の幹部がほぼ全滅とか、やばいじゃん。誰か雇ったの?」
「俺が知るかよ」
「えー教えてよ。ずっとムショ入ってたから浦島太郎なんだってば」
ドン、と鈍い音が響き、烈の背後から鏡が叩き付けられた。晃は鏡に右手をついたまま、軽く伸びをして烈の耳元に顔を寄せる。
「分かってんだろうな、クソガキ。──次はねぇ。これっきりだ」
鏡越しに烈と晃の視線が重なる。ナイフのように鋭い瞳を向ける晃とは逆に、烈の顔には軽薄な笑みが浮かんだままだった。
「またしょうもねぇことしやがったら容赦なく消す。てめぇと違ってこっちは組織だ」
晃が一拍呼吸を置く。短い沈黙が流れたあと、低く絞り出すような声が響いた。
「あんまヤクザ舐めてんじゃねえぞ」
烈はぱちぱちと大きく瞬きをすると、耐え切れないとばかりに大きく噴き出した。そのまま腹を抱えて笑い出し、背後から睨む晃を振り返る。かと思えば晃にむかって大きく両手を広げ、あどけない仕草で小首を傾げた。
「出所祝い。くれるでしょ?」
「もうくれてやったろうが」
「違う違う。金じゃなくてさ」
無邪気だった表情から一変、烈は妖艶に微笑みを浮かべると、晃の顎につうっと指を這わせた。男にしては白く細い指先が晃の輪郭をなぞり、やがて誘うように唇を撫で上げる。その手つきはまるで熟練の娼婦のようでもあり、獲物を狙う蛇のようでもあった。
「セックス、しようよ。──っだ!」
途端、烈の身体が崩れ落ちる。その鳩尾には晃の拳が深々と叩きこまれていた。背中を丸めて咳き込む烈を、晃の切れ長の瞳が冷たく見下ろす。
「しねぇよボケ。気色わりぃ」
「げほげほっ、……ひで~」
「いいか、もう一度言っておく」
蹲る烈の前に晃がそっとしゃがみ込む。乱暴な手つきで顎を掴み上げ、強引に顔を持ち上げた。
「てめぇの面倒を見るのはこれで最後だ。よく考えて動けよ、クソガキ」
烈の瞳が丸く見開かれる。しかしまたすぐにくすりと笑みを漏らすと、顎を掴む晃の手に指先を這わせた。
「はーい、お兄ちゃん」
「……誰がお兄ちゃんだ、ボケが」
晃は忌々し気に吐き捨てると、烈から手を離して腰を上げる。へたり込んだままの烈には目もくれず、そのまま洗面所を去っていった。
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