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指輪と転勤。それからステーキ。 1
指輪はダウンのポケットに入ったままだった。
俺たちが裸で抱き合っているその裏で俺の転勤の話が急ぎ足で決まっていたようだ。
翌日知らされ、ちょっと1、2時間抜けさせて欲しいと頭を下げて宝石店に入る。
サイズはリサーチ済みである。
ぬかりはない。
まだまだ何かと生きづらい世の中なのだ。
指につける事ができずとも、胸に下げる事くらいはできるだろうとネックレスも一緒にと、お願いする。
小さな箱で光るリングに満足し何度か深く頷くと、やはり駆け足で職場へ戻り従事に勤しむ。
その晩、ささやかなディナーに誘い夜景が見える店ではなかったが、落ち着いた個室のテーブル席で転勤の話をした。
俺は彼が開口一番に「え、俺も行く」と口を尖らせ子鹿のような瞳をぱちくりとさせる場面を想像し、若干ニヤニヤしながら今日一日を過ごしていた。
結婚するか?いや、俺たちならパートナーシップか、と冗談めかして言ったセリフは嘘じゃない。
彼が同じ職場で働きたいなら働けばいい。
他にしたい事があるならば、何もしがみ付いてまで同じ職種に囚われなくてもいいと思っている。
しかしながらその妄想はただの糞に成り果てた。
俺に向かい彼はこう言ったのだ。
「え、まじ?最北端やばいね。ステーキもう一切れ頼んでいい?自分で払うから」
と。
「え?あ、いや、奢るけど…」
「大丈夫大丈夫」
ふくふくと微笑む頬は相変わらず白桃のようだ。
俺の転勤よりステーキの方が大事かのように、彼は熱心に松坂牛A5ランクについて調べ出す。
今し方調べた内容をスマホを見せながら嬉しそうに教えてくれる目の前の彼の笑顔は、やはりいつでもどんな時も俺のストライクゾーンど真ん中だった。
___…コードブルー、コードブルー、南棟四階。コードブルーコードブルー…___
はて、南棟四階と言ったか、今。
睡眠時間が確保できていないせいで一昨日の酒が残っていた。
外来見学の為、立ったまま患者に挨拶をして診療補助をしていた昨日の方がまだマシだった。座りなよと先輩に笑われたが、やる気と誠意があるように見せるためそれを断る。しかしその内は、立ってでもいないと眠くて眠くて仕方なかっただけだ。
日本最北端の地に到着した初日、まだまだ雪の残る中住居マンションの鍵を受け取るため、これから働く職場の事務に足を運んで、誰かいるかなと医局に顔を出したのが発端だ。
偶然にも大学の同期がこの病院に勤務していたのだ。
さらなる偶然はまだ続く。
整形外科医のその同期は、その日がこの職場での最後の勤務で、え、夜暇?となれば、暇暇、となるのは当然だった。
今度こそ自科である脳神経外科の医局に顔を出す。30代後半の先輩医師、三神晴人先生に挨拶をする。
この病院の脳外の医局には自分含め3名しかいない。
もう1人の嶋岡諭先生、当科の診療部長は外来診察中のようなので、明日改めて、と重ねて三神に頭を下げた。
どちらとも学会で何度か顔を合わせているので、本当に挨拶だけ。
一旦、住居マンションで部屋の荷物を受け取り段ボールもそのままに、前もって告げられた店に向かうべく町へ出た。
そこで待ち伏せていたのは、同期の彼だけではなかった。
こいつギネ、こいつ外科、あの方は呼吸器、あれ研修医と次々に紹介される若手や他科の先輩方。
ちょっと飯でものつもりで顔を出したが、デロデロのベロベロの飲み会になったのは言うまでもない。
結局家の段ボールは手付かず。歯ブラシと歯磨き粉をコンビニで買い床の上でリュックを枕に2時間ほどの仮眠をして初出勤。
暖房が備え付けで本当に良かった。
立ったままの見学の後、今日は帰らせていただこうと頭を下げる前に夜間救急ちょっと覗いてく?なんて先輩に言われたら断れる筈がない。
勿論です、と目をバキバキにさせて返事をしたが最後、既に戦場と化していた夕方の急患室。
あちこちから声があがれば手を出さない訳にはいかないだろう。
今日から勤務の佐伯です、と簡単に自己紹介をして看護師と研修医の輪に入る。
あ、佐伯くん、札幌の救急センターにいたんだもんね。血が騒ぐかい?と、人の良さそうな顔をした先輩医師が地獄への道標を作った。
Go to Hell。俺が。
昨日、暇暇。などとヘラヘラと返事をした自分を殴りたい。
部屋を片付けなきゃいけないから。
愛する人にフラれてそんな気分になれない。
と断ればよかった。
いやしかし待って欲しい。
俺はフラれたのか。
お洒落な店でA5ランクのステーキを食べたあの夜から、電話どころかラインの一つも来ないのだから。
そして迎えた勤務二日目である。
マンションに帰ったのは深夜も深夜で、やはり段ボールには手をつけていない。
今の俺の寝具は、渡せなかった指輪を忍ばせたままのダウンジャケットと、なにが入っているのかよく覚えていないリュックサックだ。
患者の切れ間に落ちる瞼を無理矢理持ち上げ、外来初日をなんとか終える。
病棟でナース達に言われるがまま入院指示、投薬指示、取り寄せていた提供書の確認、細々とある残務を聞きながらこなし、午後七時過ぎ、ようやく寝れると玄関を潜ろうとしたその時だった。
つんざくような院内放送が告げた場所は、つい数分前までテーブルにパソコンを広げて目を擦りながらカルテの入力をしていた自分の病棟ではないか。
脳みそのしわにアルコールが染み込むくらいに飲んだ酒が一滴残らず汗として流れていく事を願いつつ、全速力で階段を登った。
病棟にはすでに大勢が駆けつけているどころか、階段ですれ違う看護師や医者達が、少々呆れ顔を滲ませながら現場から去っている。
「あ、なんか研修医がビビってコールしちゃったらしいっすよ。今はクリアっす」
と、生意気そうな口ぶりで言うどこの誰かは知らない君も若そうだが、と内心突っ込みつつ立ち退いていくスタッフをかき分け発端らしい病室へ急ぐ。
そうしていると解除の放送が静かに流れた。
すれ違う小声の文句を聞き流しつつ、病室内の謝罪と笑い声が耳に届き、円満解決に向かっているならそれでよし、と誰にも気づかれずにそっと人の輪から抜け出そうとしたとき、あ、佐伯先生、と声をかけられた。
先程「お疲れさん」と挨拶をした看護師に見つかってしまったのだ。
うちの先生来たよ、と誰かが言えば残っていた他部署のスタッフも蜘蛛の子が散るように病室から姿を消した。
待て待て。俺私服じゃん?勤務外なのわかるよね?と胸の中で毒づきながらも、静かになったベッドの脇で泣きそうになっている研修医の肩を叩く。
「1人で対処しようとしなくて偉かったよ」
「…勝手な事をして本当にすみませんでした。昨日少し関わったので帰る前にちょっと顔だけ見るつもりで…」
この研修医と患者の間にどういう経緯があったのかはわからないが、あんまりにも自分を責めた表情で俯く青年をまずは励ますように背中をたたき「ま、そこら辺は後で三神先生にも言ってよ。熱心もほどほどにね。てゆか、時間あるなら少し付き合って」と声をかけとりあえず臨時でCTと採血の指示を出す。
研修医からの状況聴取をし終えて今日は帰りなさいなと背中を押して帰宅を促した。
その中で、世間話のように病棟看護師から患者の強くなりつつある不穏症状を聞かされ「んじゃあメンタルヘルスにコンサルでもしてみる?あるんじゃなかった?」と軽く返す。
「え?今?先生いるかわかんないよ?」
すでにタメ口のベテランと見えるナースは、先生電話してよ、とポケットから院内スマホを差し出した。
当直の先輩医師もいるのだから何かあった時には任せて良いはずなのだが、その先輩医師の姿はどこにも見えない。
ベテランの眼光に「え、明日でよくない?」とは言えず、素直にスマホを受け取った。
アドレス帳に メンタルヘルス科 永瀬凛太朗 という人物を見つけコールする。
数回の呼び出しのあと『ナガセですが』と聞こえてきた電話口の声は、おっとりしていて、どこか中性的だった。
患者の情報と診察依頼を手短に伝えお願いし「診察は明日でもいいんすけど」と最後に一言付け加えると、明日は一日外回りだから今から行きますと言われ、通話を終わらせられてしまう。
「これから来るって」と看護師に告げる。
「はいはい」と雑な返事が帰ってくる。
あとは先輩にお任せして僕は帰りますね、なんてできる奴がいたらお目にかかりたい。
便所で用を足しながら、陽太に会いたい…、と無意識に呟きそうになる自分に、危ない危ないと首を振る。
検査結果を待ちつつ院内のコンビニでエナドリを一本買って、ほぼ一気飲みで甘い痺れを胃に流し込んだ。
カルテの一部を印刷したものを静かに読む。
長い前髪がはらりと落ちる。
綺麗にケアされた指先でその一束を耳へと流した。
「ご家族は?」
「奥様がいらっしゃいますが、奥様も肺がんで化学療法に通われてるんです」
そうですか、とメガネの奥の瞼がゆっくりと閉じて開く。まつ毛が上下した。
「こういった状態でリハビリは難しかったでしょう」
「落ち着かないし大声を出すことが多くなってきて」
先程のCTと採血結果を告げると、患者の情報もカルテでしか知らないような自分など用無しといわんばかりに隅に追いやられる。
壁に寄りかかり2人の会話をどこかぼんやりと聞きながら、手持ち無沙汰を言い訳に永瀬を観察していた。
念の為、診療部長である嶋岡先生に報告したが「ああ、いいんじゃない?」とにこやかに微笑まれただけ。
ほんの少しだけ、いいよいいよ。帰りなさい。あとは僕が引き継ぐよ、と言う心優しい言葉をかけてくれるのではないかと淡い期待を抱いていたが、そんな都合の良い事などある訳はなかった。
「でも。何事もなかったみたいでよかった」
そう言って印刷されたカルテを手持ちのファイルに綺麗に仕舞う。
レンズの奥で、なんとなく目を細めたように見えた永瀬は「今は落ち着いているようだし、明後日またゆっくり診察しましょう。脳外さんで不穏時の処方が出てるので今日明日は対応をお願いします。私も同じ処方をしたと思いますし」と顔を上げた。
高いわけでも低いわけでもない、不思議な音域の声だな、と思いながら聞く。
ライトブラウンのボブを後ろに束ねている。
薄いパープルの上下のスクラブが似合っている。
その上には白衣ではなく白いカーディガンを羽織っていた。
やや大きめなメガネは、顔が小さいからそう見えるだけなのかもしれない。
首には、目を凝らさなきゃ確認できないほど細い金のネックレスがチラリと見え隠れする鎖骨に引っかかっていた。
永瀬凛太朗、とスマホには登録されていたはずだが。
目の前にいるのは永瀬ではないのか?
どこからどうみても 凛太朗 ではないのだ。
しかし胸ポケットの生地を挟んだネームプレートには間違いなく『ナガセ』と書かれている。
永瀬がこちらに向かって何か話しかけている。
俺の身体と脳みそは、三日酔いと、疲労と、空の胃に流したエナドリによって、すべての感覚が鈍っていた。
永瀬が再び落ちた前髪を耳に掛け直し、20センチほど下から顔を覗き込む。
好奇心がモラルの堰を完全に決壊させる。
「あの、佐伯先生?」
と呼ばれ、勝手に口から出た言葉は、この世で最も無神経な一言だった。
「永瀬先生は女性なんですか?」
無表情にも見えた永瀬の表情から、より一段と色が抜けて、不用意に放った言葉の重大さに気づいた。
「今、それ関係あります?」
四月になっても日本最北端のこの町は氷点下になる事さえある。
今晩のこの寒さの原因はきっと、俺のせいだ。
永瀬は踵を返し、では明後日予約を入れておきます、と看護師に会釈をしその場を去る。
「佐伯先生、それは言っちゃダメよ…」
永瀬の気配が完全に消えるのを確認した看護師からのお叱りにもとれる助言に「ですよね」と両手で顔を覆った。
パタパタと足音を鳴らしどこからか戻った三神の謝罪を受けて「気にしないで」と首を降る。
息を切らした三神は呼吸を落ち着かせるような深呼吸を繰り返し「本当にごめん。コール鳴ったのは気づいてたんだけど今日奧さん急に当直になっちゃって家に子供だけでさ。お兄ちゃんが夕食代取りに来ちゃって」
三神が矢継ぎ早にそう言うので「いいえ」と言って自分でも驚くほどの仏のような菩薩スマイルを作る。
「え、来てたの?先生お兄ちゃん何歳だっけ」
看護師が三神に楽しげに話しかけると、三神は目尻を下げて「もう高一だよ。明後日入学式だから休みもらってる」と子煩悩な一面を見せた。
2人の会話を背中で聞いているうちに、罪悪感だけが巨大な雨雲のように胸に広がって行った。
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『どうかあの人が、フットサルとかして女の子からキャーキャーされて調子こいている時に、最も無様な格好で足首を捻らせて、できるだけ複雑で難解な骨折などをしますように。
19:57 .2024 4/4 .1回表示』
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