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指輪と転勤。それからステーキ。 2
昨夜は当番だった。
何もない事の方が多いよ、と言われ油断していた。
医局に籠り、一人夕食のラーメンを啜っていたらまさかのコール。
院内コンビニで買ったカップ麺を胃に流し込んで、そのまま長時間の緊急手術。
終わったのは今朝方。
そのまま迎えた通常業務。
やっと終わった、と背を伸ばしあくびを一つ溢した。
一日の境目も曖昧なほど、怒涛を極めた一週間だった。と、思う。
コードブルーで院内に戻った日でさえ、なんやかんやとやっているうちに結局帰宅したのは真夜中だ。
部屋は折り畳みのベッドを開いただけで、寝具はやはりダウンジャケットのままだった。
あらかたの家具は初日に稼働できるよう設置して貰っていたが、洗濯機は一度も回していないうえ、冷蔵庫には水の一本も入っていない。
毎日コンビニ飯、ついでに新しい下着を毎日買って取り替えている。
衣類の入った段ボールすら開けていないのだ。
毎日同じ服を着て出勤しているが、そのあたりは見て見ぬふりをしていてほしい。
明日は土曜の休診日だ。
幸い当番でもない。
顔は出す予定ではあるけれど、アクシデントがなければ平日よりはゆっくりと過ごせるだろう。
看護師が診察室を閉じる準備を始めた。
一口だけチョコレートをお裾分けでいただき、お礼をする。
前医から引き継いだカルテの内容を初対面の患者と確認をしながら診察を続けていて、勝手のわからなさとなかなか進まない時計の針に気疲れもあった。
急性期病院とはいえ、以前勤めていた救急センターと比べると、外来は定期受診の患者が多くのんびりしたものだ。
規模も違うし、そもそも地域人口自体もかなり違うのだから当たり前なのかもしれない。
どちらが良いかと言われても、一長一短、どちらも良い点と悪い点があるとしか言えないが。
静かな場所で座り仕事をしたかったのだが電気が消され診察室から閉め出されて、仕方なく病棟に向かった。
一昨日の約束通りメンタルヘルス科の診察を受けた患者の顔を見る為病室を伺う。
リハビリも無事に終え昼間は静かに過ごし、今日は調子も特に悪く無いようだ。
「え、じゃあトイレとかどうしてんの⁉︎」
ナースステーションの真ん中にあるデスクでパソコンを開き、残務残務、と呟き頼まれた指示入れをしていると、隣に座るスタッフが叫んだ。
「知らないよ」
と他のスタッフの笑う声。
その会話に「何何」と首を突っ込む。
「永瀬先生。私初めて見た」
その永瀬から当科患者の診察が終わり、処方を変えて様子を見ましょうと診察依頼の返事が来ていた事を電子カルテ上で知る。
永瀬とは一昨日顔を合わせて以来、その姿を確認していない。
改めて思い出すと、永瀬に対して本当に失礼な事を口にしてしまった。
そんな自覚もあり、スタッフの会話に入り込み耳を傾け口を挟んだ。
「あんまり関わんないんだ?」
「去年だっけ?働き方改革だかで来た産業医だもん」
隣に座っていた看護師は、パソコンを眺めながらそう答える。
「産業医?メンタル科じゃなくて?」
「市の職員さんとか来てるらしいよ。午前中は一般外来もやってるけど患者めっちゃ少ないし。午後が産業医外来?だったっけ?よくわかんない」
看護師は首を振って眉を寄せる。
確か以前いた病院にも産業医が在籍していた記憶はあるが、それならば確かに出会う機会は少ないのかもしれない。
働き方改革と言いながら、メンタルが…、などと口にしようものなら気合いが足りないと今だに言われる界隈だ。
実際、佐伯は元職場の産業医を見た事がない。
定期的にストレスチェックなるものに回答し、高ストレスがあるとなれば強制的に面談を組まれると聞いたことはある。
あまりのブラックさに研修医がある日突然来なくなったとか、どこかの医局でパワハラで教授が訴えられたとか、そんな話を耳にした事はあれど、佐伯自身の周りでそんな事件は起きた事はないのだから。
大きなデスクを囲む面々の、なんとなく聞いたことがある、くらいの情報にへえと言うだけの相槌を打った。
「なんかそんな感じ。北側玄関とこに外来あるけどあっち用事ないから行かないじゃん」
北側玄関は業者が出入りする玄関であり、その玄関の隣は清掃職員さん達の用具部屋、要は裏口だ。
理由なく煙たがっているような会話の中、むしろ人目を気にしなくても良いようにと、病院なりの配慮にも取れる配置だと思う。
「っていうかあれでしょ。ジェンダーなんとかみたいなやつ」
「でも女かもしれないしさ」
「女の子に凛太朗ってつける親いなくない?」
飛び交う好き勝手な会話に眉を寄せつつ、曖昧に聞き流していると「温泉とかどっち入るんだろうね」と、隣に座るスタッフが呟いた。
一つ、ため息が出た。
反論するつもりもなく「どっちでもいいけどどっちに入られてもビビる」と、言った途端ステーションが静まり返る。
パチ、と誰かがパソコンのキーを押す音が、騒音に聞こえるほどの静寂に「え」と視線を宙に浮かす。
気まずい空気に、スタッフ達の視線が彷徨っていた。
噂をすればなんとやらという現象は、いつだって耳障りの悪い話の時に起こるものだ。
詰所の入り口に永瀬が立っていたのだ。
一昨日とは違う、上下薄いブルーのスクラブで。
「次回診察の予約表を。ここ、置いておきますね」
マスクをしていて、確認できるのはメガネの奥の目元だけだ。
誰も返事ができない中、笑うでも怒るでもなく、眉すら少しも動かさず、永瀬は入り口横のデスクへ紙切れ一枚をやはり静かに置いた。
姿が見えなくなった後「ありがとうございます…」とスタッフの1人が小声で言って、ようやくその予約票に手を伸ばした。
これはまずい。
好奇心が無いとは言えないが、そういう意味じゃない。
追いかけて、違う、と言わなければいけない。
けれど今ここで追いかけても、その後どうなったのか、という探るような視線に晒されることは間違いない。
永瀬の院内スマホを鳴らすのもおそらく得策ではないように思う。
神経を逆撫でするだけかもしれない。
数日間の睡眠不足も重なって、うまくいかない気持ちが募る。
結局何も行動に移すことができず至急の要件を終わらせて、とにかく次に顔を見たら謝ろうと誓い帰り支度を済ませた。
陽太の事も、いまだ胸に支えが残っている。
永瀬の噂話に口を出した事に、自分の事を棚に上げてよく言えたもんだ、と笑い出しそうにもなった。
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